表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
126/190

第126話 牙が閉じる

 両翼の尾根が崩れるように動いた。


 伏せていた騎兵が一斉に駆け下りる。土埃が壁となって朝日を覆った。蹄の轟きが地を揺らす。ロウガの本物の牙が、餌に食らいついた大軍の脇腹へ食い込んだ。


「来た。両翼だ」


 ザインは叫んだ。


 悲鳴は背後から上がった。袋の奥へ流れ込んだ本隊の側面に、騎兵の槍が突き刺さる。前へ前へと押し出していた軍団が、突然横腹を裂かれてのけぞった。隊列が乱れる。誰もが前を向いていた。だから横からの一撃に備えがなかった。ヴェイルの絵図には、この牙が描かれていなかった。


「隊長、本隊が……!」


 ティムの声が裏返った。ザインは振り向いた。背後の光景に総身が粟立った。


 万を超す味方が、袋の中で揉まれていた。両翼から食い込んだ騎兵が、軍団を前後に断ち割っていく。前へ進んだ部隊は退き道を失い、後ろの部隊は前へ進めず、互いに押し合って身動きが取れない。号令が飛び交うが、誰の声も届かない。大軍が、その大きさゆえに自滅していた。


 ザインは、その光景に既視の念を覚えた。北の継ぎ目で、ザイン自身がやった戦の、そっくり裏返しだった。あの時は寡兵で大波を絞り、地形で逆に包んだ。今度はロウガが、それを大軍に対してやっている。主力を餌に見せて誘い込み、伏せた牙で側面を裂く。手口は同じだった。ただ、規模が違った。呑まれているのは何万の味方だった。読み筋まで見えているのに、止める力がない。それが、たまらなく苦しかった。


 ザインの隊は袋の口の浅い場所にいた。深追いを止めた分、まだ動けた。だが周囲を見れば、味方の崩れはもう止まらなかった。


 戦野は、すでに人の意思の通じる場ではなくなっていた。号令は塵に呑まれ、旗は倒れ、兵は本能のままに散った。前へ逃げる者は敵陣へ突っ込んだ。後ろへ逃げる者は味方とぶつかった。ぶつかった所で押し合いになり、押し合った所を騎兵が薙いだ。大軍はその大きさそのものに殺されていた。一万の兵がいても一万が一つに動けねば、それはただの的の群れだった。ザインはこの数月、兵をいかに一つに束ねるかを学んできた。今、目の前にあるのは、束ねる者を失った大軍の、最も惨い末路だった。


「踏みとどまって正解だったな」


 バルガが血を吐くように言った。


「正解じゃない。何万も死ぬ。俺の隊が無事でも、これは大敗だ」


 ザインは唇を噛んだ。読みは当たった。だが当たったところで、何万の味方は救えない。先鋒の一隊が口の浅い所に踏みとどまったとて、袋の奥で潰される本隊を引き上げる力はない。読みが当たるほどに、その無力が骨身に染みた。これがヴェイルの押し通した盤の果てだった。


 敵の騎兵の一隊が、向きを変えてザインの隊へ向かってきた。穂先を断とうという動きだった。


「来るぞ。円を組め。コルネリア!」


「ええ」


 コルネリアが前へ出た。杖を掲げる。蒼い焔が渦を巻いて空を裂き、突進する騎兵の鼻先で炸裂した。馬が棹立ちになり、隊列が割れる。その隙にザインの隊は槍衾を立てた。バルガが先頭で受け、ガロが横から崩す。ティムが左の角を固めた。穂先の一隊だけは、まだ崩れていなかった。


 崩れぬのには訳があった。二度の死地を共にくぐった隊だった。北の谷で大波を凌ぎ、山で敵を降らせた。誰がどこに立てば穴が塞がるか、声を交わさずとも体が知っていた。周りの本隊がばらばらに散る中で、ザインの隊だけが一つの生き物のように動いた。槍と槍が重なり、退く者の背を別の者が守る。それは束ねられた兵の姿だった。混沌の戦野で、その一角だけが、人の意思を保っていた。


 だがその一角とて、いつまでも持つわけではなかった。新手の騎兵が、次々と穂先へ向かってくる。コルネリアの焔も、際限なく吐けるものではなかった。受け続ければ、いずれ削られる。ザインは戦野全体を素早く読んだ。守るだけでは、じり貧だった。袋の中の味方を、どこかへ逃がす道を開かねば、この隊もろとも擂り潰される。


 だが袋の奥では、味方の旗が次々に倒れていた。ザインは奥歯を噛んだ。自分の隊を守るだけでは足りない。あの奔流の中から、一人でも多くを引き上げねばならない。だがどうやって。袋の口はまだこちらが握っている。ならば、その口を、できる限り長く開けておくしかなかった。


 頭上で、二つの月が白い空に溶け残っていた。大小ふたつの蒼い光が、閉じてゆく牙と、その隙間にしがみつく将を、静かに見下ろしていた。


「口を開けておく。一人でも多く、ここから逃がす」


 ザインは血と土の戦野を見据えた。袋の牙は、もう完全に閉じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ