第126話 牙が閉じる
両翼の尾根が崩れるように動いた。
伏せていた騎兵が一斉に駆け下りる。土埃が壁となって朝日を覆った。蹄の轟きが地を揺らす。ロウガの本物の牙が、餌に食らいついた大軍の脇腹へ食い込んだ。
「来た。両翼だ」
ザインは叫んだ。
悲鳴は背後から上がった。袋の奥へ流れ込んだ本隊の側面に、騎兵の槍が突き刺さる。前へ前へと押し出していた軍団が、突然横腹を裂かれてのけぞった。隊列が乱れる。誰もが前を向いていた。だから横からの一撃に備えがなかった。ヴェイルの絵図には、この牙が描かれていなかった。
「隊長、本隊が……!」
ティムの声が裏返った。ザインは振り向いた。背後の光景に総身が粟立った。
万を超す味方が、袋の中で揉まれていた。両翼から食い込んだ騎兵が、軍団を前後に断ち割っていく。前へ進んだ部隊は退き道を失い、後ろの部隊は前へ進めず、互いに押し合って身動きが取れない。号令が飛び交うが、誰の声も届かない。大軍が、その大きさゆえに自滅していた。
ザインは、その光景に既視の念を覚えた。北の継ぎ目で、ザイン自身がやった戦の、そっくり裏返しだった。あの時は寡兵で大波を絞り、地形で逆に包んだ。今度はロウガが、それを大軍に対してやっている。主力を餌に見せて誘い込み、伏せた牙で側面を裂く。手口は同じだった。ただ、規模が違った。呑まれているのは何万の味方だった。読み筋まで見えているのに、止める力がない。それが、たまらなく苦しかった。
ザインの隊は袋の口の浅い場所にいた。深追いを止めた分、まだ動けた。だが周囲を見れば、味方の崩れはもう止まらなかった。
戦野は、すでに人の意思の通じる場ではなくなっていた。号令は塵に呑まれ、旗は倒れ、兵は本能のままに散った。前へ逃げる者は敵陣へ突っ込んだ。後ろへ逃げる者は味方とぶつかった。ぶつかった所で押し合いになり、押し合った所を騎兵が薙いだ。大軍はその大きさそのものに殺されていた。一万の兵がいても一万が一つに動けねば、それはただの的の群れだった。ザインはこの数月、兵をいかに一つに束ねるかを学んできた。今、目の前にあるのは、束ねる者を失った大軍の、最も惨い末路だった。
「踏みとどまって正解だったな」
バルガが血を吐くように言った。
「正解じゃない。何万も死ぬ。俺の隊が無事でも、これは大敗だ」
ザインは唇を噛んだ。読みは当たった。だが当たったところで、何万の味方は救えない。先鋒の一隊が口の浅い所に踏みとどまったとて、袋の奥で潰される本隊を引き上げる力はない。読みが当たるほどに、その無力が骨身に染みた。これがヴェイルの押し通した盤の果てだった。
敵の騎兵の一隊が、向きを変えてザインの隊へ向かってきた。穂先を断とうという動きだった。
「来るぞ。円を組め。コルネリア!」
「ええ」
コルネリアが前へ出た。杖を掲げる。蒼い焔が渦を巻いて空を裂き、突進する騎兵の鼻先で炸裂した。馬が棹立ちになり、隊列が割れる。その隙にザインの隊は槍衾を立てた。バルガが先頭で受け、ガロが横から崩す。ティムが左の角を固めた。穂先の一隊だけは、まだ崩れていなかった。
崩れぬのには訳があった。二度の死地を共にくぐった隊だった。北の谷で大波を凌ぎ、山で敵を降らせた。誰がどこに立てば穴が塞がるか、声を交わさずとも体が知っていた。周りの本隊がばらばらに散る中で、ザインの隊だけが一つの生き物のように動いた。槍と槍が重なり、退く者の背を別の者が守る。それは束ねられた兵の姿だった。混沌の戦野で、その一角だけが、人の意思を保っていた。
だがその一角とて、いつまでも持つわけではなかった。新手の騎兵が、次々と穂先へ向かってくる。コルネリアの焔も、際限なく吐けるものではなかった。受け続ければ、いずれ削られる。ザインは戦野全体を素早く読んだ。守るだけでは、じり貧だった。袋の中の味方を、どこかへ逃がす道を開かねば、この隊もろとも擂り潰される。
だが袋の奥では、味方の旗が次々に倒れていた。ザインは奥歯を噛んだ。自分の隊を守るだけでは足りない。あの奔流の中から、一人でも多くを引き上げねばならない。だがどうやって。袋の口はまだこちらが握っている。ならば、その口を、できる限り長く開けておくしかなかった。
頭上で、二つの月が白い空に溶け残っていた。大小ふたつの蒼い光が、閉じてゆく牙と、その隙間にしがみつく将を、静かに見下ろしていた。
「口を開けておく。一人でも多く、ここから逃がす」
ザインは血と土の戦野を見据えた。袋の牙は、もう完全に閉じていた。




