第125話 罠の口
夜明けと共に角笛が鳴った。
南方軍の大軍が地を踏み鳴らして動き出した。三軍団の旗が朝霧を割って進む。ザインの隊はその穂先にいた。先鋒。最も槍の入る位置だった。
「来やがったな」
ガロが槍を握り直した。声に普段の軽口はなかった。
ザインは前方の丘陵を睨んだ。ロウガの主力がそこに集まっている。旗の数が異様に多い。陣の幅も厚い。誰の目にも分かるほど、堂々と主力をそこへ置いていた。
「見えてるだろう、あの陣」
ザインはバルガに問うた。
「ああ。だが見え過ぎる。ロウガがあんなに分かりやすく主力を晒すか」
古参の声には警戒がにじんでいた。ザインは小さく頷いた。バルガもまた、この戦の匂いを嗅ぎ取っていた。
大軍が前進する。先鋒のザインの隊がまず敵陣の前縁に触れた。敵の前列が槍を構える。だが一合交えるや、ロウガの兵はじりじりと退いた。押せば退き、押せば退く。崩れではない。誘いだった。袋の奥へ、奥へと、味方を引き込む退きだった。
ザインはその退きを冷たく見ていた。崩れた退きと誘いの退きは、まるで匂いが違う。崩れた退きは隊列が乱れ、背を見せ、武器を捨てる。誘いの退きは列を保ち、間合いを測り、足並みを揃えて下がる。今しがた触れた敵の前列は、退きながら一糸も乱れなかった。穂先の高さまで揃っていた。それは敗走ではない。手順だった。ロウガは、味方を呑むための手順を踏んでいた。
ザインは前世の戦場を思い出した。あの世界の軍もまた、上の一声で兵を死地へ送った。机の前の者は地図に矢印を引くだけだ。その矢印の先で何が起きるかを、知ろうとはしない。今、目の前で起きているのは、その矢印の成れの果てだった。ヴェイルは丘の懐を勝ち筋と見た。退く敵を弱兵と見た。だが弱兵の退きと名将の退きを、あの男は見分けられなかった。見分ける気もなかった。ザインの背を、冷たいものが這い上がった。
「踏み込みすぎるな」
ザインは隊へ声を飛ばした。
「敵が退くのに合わせて深追いするな。俺の合図より前へ出た者は袋に呑まれる。ティム、左の角を固めろ。マルト、両翼の砂塵を見ておけ。土埃が立ったら、それが本物の牙だ」
「承知」
ティムが復唱した。かつての若兵は、もう声の据わった中堅だった。マルトが身を低くして駆け、隊の左へ消えた。
ザインの背後では、本隊の大軍が勢いに乗って前へ前へと押し出していた。ヴェイルの絵図のままだった。退く敵を勝ち戦と見て、軍団がこぞって丘陵の懐へ流れ込んでいく。ザインは振り返ってその奔流を見た。胸が冷えた。これは前進ではない。袋の口へ自ら歩み入る行進だった。止める術はなかった。先鋒のザインに、何万の本隊を止める声はない。ただ自分の隊だけは、口の浅い場所に踏みとどまらせた。
ザインは隊の歩みを刻むように緩めた。本隊が前へ流れる中で、穂先のこの一隊だけが、わざと足を重くする。周りの兵が訝しげな目を向けた。先鋒が進まぬ。臆したか。そんな視線だった。ザインは構わなかった。今ここで深さを誤れば、退き道ごと敵に呑まれる。踏み込む深さは、こちらで握る。それが先鋒に立たされた将の、唯一の手綱だった。
丘陵の両翼に、ザインは目を凝らした。尾根の林がやけに静かだった。鳥の影がない。獣の気配もない。生き物が逃げ出した林は、人が潜んでいる証だった。ザインの読みが、そこに牙の影を描いた。まだ姿は見えない。だが確かに、何かが息を潜めていた。
やがてマルトが土の色に汚れて駆け戻った。
「隊長。両翼の尾根、土埃が立ち始めた。林の陰から、騎影が湧いてる。数は……読めねえ。だが多い」
ザインの読み通りだった。集めた主力は餌。本物の牙は両翼の伏兵。それが今、起き上がろうとしていた。
「来たな」
ザインは静かに言った。怒りも恐れもなかった。読んだ通りの罠が、読んだ通りに口を開けただけだった。問題はここからだった。袋の奥へ流れ込んだ何万の味方を、どうやって生かすか。先鋒の自分に、何ができるか。
頭上で、白み始めた空に二つの月が薄く残っていた。大小ふたつの蒼い影が、餌へ向かう大軍と、その穂先に立つ将を、冷たく見下ろしていた。
「全隊、止まれ。これより先は、地獄の底だ」
ザインの声が、朝の戦野に低く響いた。両翼の尾根で、伏兵の牙が、いよいよ閉じようとしていた。




