第122話 一行の真実
クレスは手帳を開いた。一拍、間があった。
「監軍として、見たままを述べます」
声は震えていた。だが言葉は、はっきりと間に響いた。
「継ぎ目の隊は二日にわたり、万を超す敵を寡兵で防ぎ抜きました。後退はありましたが、それは防衛線の崩壊ではなく、地形を用いて敵を絞るための計算された退きでした。ザイン少尉の指揮に不手際はありません。むしろあの兵力差を凌いだのは、稀に見る用兵です」
ヴェイルの笑みが、わずかに凍った。
「そして――継ぎ目が危地に陥った最大の因は、中央本隊からの援軍が約束された時を過ぎてもついに動かなかったことにあります。ザイン少尉は幾度も使者を送り、援軍を求めました。ですが本隊は一兵も出さなかった。ガレウス将軍が布陣を離れたのはその援軍の不在を埋めるためであり、将軍の決断がなければ継ぎ目は裂けていました。これが、私が谷で見たすべてです」
審議の間が水を打ったように静まった。ヴェイルの筋書きが、自らの送り込んだ目付の口から根こそぎ覆された。守り抜いた事実は苦戦ではなかった。罪人は命令を破った老将ではなかった。援軍を握り潰した中央の本隊だった。
ザインはクレスの背を見ながら、静かな驚きと敬意を覚えていた。剣も握れぬ文官が、今この場で、ヴェイルという後方最大派閥の頭に真っ向から立ち向かっていた。それは前線で槍を交えるのと、何ら変わらぬ勇気だった。むしろ重いかもしれなかった。槍の戦は、勝てば名が残る。だがクレスの戦は、勝っても何も得られない。失うものしかない。それでもこの男は、谷で見た血の重さに恥じぬ一行を選んだ。ザインがこれまで動かしてきた人の心が、今、思わぬ形で実を結んでいた。古参を、副官を、そして文官を。ザインは家名も武勇もない。だが、人の芯に触れる何かだけは持っていた。
「クレス。貴様、誰の禄を食んでいるか分かっているのか」
ヴェイルの声に、初めて怒気がにじんだ。
「分かっております。私は将軍の禄を食む文官です。ですが、私の役目は監軍。見たままを記すのが務めです。偽りを記せば、それは監軍ではなくただの太鼓持ちです。私は……太鼓持ちには、なりたくありません」
クレスの声は最後まで震えていた。だが折れなかった。家を継げぬ三男が、己の生きる道を捨ててでも一行の真実を選んだ。ザインはその痩せた背を静かに見つめた。谷の二日が、一人の文官を変えていた。
審議委員長のローレン大佐が、重々しく口を開いた。任官試験でザインを公正に裁いた、あの老大佐だった。
「監軍の報告は、軍の記録として最も重い。これを覆すなら、それ相応の証が要る。ヴェイル将軍、援軍が動かなかった理由について、改めて釈明を願いたい」
ヴェイルはしばし沈黙した。やがて冷たく笑った。怒りはもう、その顔になかった。代わりにあったのは、盤を組み替える者の底冷えする落ち着きだった。
「……よかろう。援軍の件は、伝令の行き違いがあったやもしれぬ。中央の不手際として、預かろう」
あっさりと引いた。ザインはその引き際に、かえって背筋が冷えた。ヴェイルは負けを認めたのではない。この盤を捨て、次の盤へ移っただけだった。一つの罠が潰れたなら、もっと大きな罠を組む。あの男の目はすでに別の所を見ていた。
これがロウガとの読み合いなら、ザインは怯まなかった。盤の上の手は、いくら巧妙でも読める。だがヴェイルの戦は、盤そのものを描き換えてくる。負けそうになれば盤を捨て、別の場所に新たな盤を敷く。前線の宿敵が一枚の盤で深く戦うのに対し、後方の敵は無数の盤を渡り歩いた。どこまでも執拗で、どこまでも捉えどころがない。ザインはこの男の手強さを、谷の大波とは別の意味で思い知った。剣で斬れる敵なら、まだ楽だった。だがヴェイルは、決して間合いに入ってこない。
「だが、一つだけ言っておく」
ヴェイルは席を立ちながら、ザインを見据えた。
「ザイン少尉。貴官は強い。読みも、兵を従える力も。だが強すぎる将は軍の和を乱す。近く、その強さを存分に振るう場を与えよう。南のロウガが主力を一点に集めている。これを叩く大攻勢を近く起こす。貴官にも相応の役を担ってもらう」
頭上の高窓から、昼の二つの月が白く差していた。大小ふたつの蒼い影が、一つの罠を脱した将と、次の罠を組む男を、等しく照らしていた。
ヴェイルの「相応の役」。その言葉が再びザインの背に冷たく刺さった。後方の戦は、終わっていなかった。




