第120話 書く者
ロウガの大波は、二日かけて引いていった。
継ぎ目は守り抜かれた。だが谷には消し難い疲れが残った。兵は泥と血にまみれ、武具は欠け、矢は尽きかけていた。ザインは隊を数えた。倒れたのは二日で六人。寡兵で大波を二日凌いだにしては少ない損だった。だが六人は六人だった。ザインはその数を決して軽くは数えなかった。
倒れた六人を、ザインは一人ずつ弔った。名を呼び、その者がどんな兵であったかを胸に刻む。村に残した家族のこと。たき火で交わした軽口のこと。数で数えればただの六という減りに過ぎない。だがザインにとって、それは六つの名であり六つの生だった。将になってもその芯だけは曲げなかった。兵を駒と見れば心はいくらか楽になる。だがそれをした瞬間、ザインはヴェイルと同じものになる。後方で兵を捨て駒に使う、あの非情な目と。だからザインは痛みを手放さなかった。痛むことが、まだ自分が将であり同時に一人の人間であることの証だった。
ロウガが完全に退いたのは、継ぎ目が固いと見たからだった。あの将は、無理に裂けぬ縫い目に兵を費やす男ではない。最も薄いはずの一点が、寡兵の読みで持ちこたえた。ロウガはそれを見届け、兵を温存して退いた。次の機を待つために。宿敵の引き際は、いつも見事だった。
「カイル。今度の戦で、ロウガは継ぎ目を測り終えた。次はここを突かない。別の一点を探してくる。あの男は、同じ所を二度叩かない」
「では、次はどこを」
「分からん。だが、ヴェイルがまた俺たちをどこかの死地に置くなら、ロウガはそこを突く。後方の罠と、前線の宿敵が、奇妙に噛み合っている。まるで、二人で俺を挟んでいるようだ」
ザインの言葉に、カイルが顔を曇らせた。ヴェイルにそんな企みはない。ただ保身のためにたまたまザインを死地に置いただけだ。だがその死地は、ロウガが最も突きたがる場所と重なる。後方の悪意と前線の宿敵が意図せず手を結んでいた。ザインはその二重の圧の只中に、ずっと立たされ続けていた。
その夜、クレスがザインの天幕を訪れた。手帳を握りしめ、青ざめた顔をしていた。
「ザイン少尉。私は……見た。本営は、約束の援軍を出さなかった。継ぎ目が裂けかけたのは、貴官の咎ではない。援軍を握り潰した、本営の咎だ」
「あんたは、それを報告に書くのか」
クレスはしばらく黙った。手帳を握る指が、白くなるほど力が籠もっていた。
「……書けば、私はヴェイル将軍に逆らうことになる。家を継げぬ三男の私には、将軍の覚えだけが生きる道だ。それを失えば、私には何も残らない。だが――」
クレスは顔を上げた。その目に、来た時にはなかった光があった。
「だが、私は見てしまった。兵が血を流し、援軍を待ち、それでも来ない。あの谷を。書かねば、私は嘘の紙で人を殺すことになる。私は文官だ。剣は振るえん。せめて、書く一行くらいは、真実であらねばならん」
ザインはクレスを見つめた。傲慢な目付として来た男が谷の二日で変わっていた。机の上では見えぬものを見て、その重さを知った。一人の文官が自らの保身よりも紙の真実を選ぼうとしていた。
ザインはこの変化に、戦のもう一つの意味を見た。剣で敵を斬るだけが戦ではない。一人の人間の目を開かせ、その心を動かすこともまた一つの勝ちだった。ヴェイルはクレスを、ザインを縛る道具として送り込んだ。だがその道具は谷で人になった。後方の罠が後方の側から綻び始めていた。それは槍では決して斬れなかった敵を、別の形で切り崩す手応えだった。ザインは前線で泥を這いながら人の心の動かし方を覚えてきた。古参の壁を崩し、貴族の副官を心服させ、今また一人の文官を変えた。それは家名でも武勇でもない、ザインだけの戦い方だった。
「あんたの一行は、谷で流れた血と同じ重さだ。それを真実で書く。それは、剣を振るうより難しい戦かもしれん」
「……かもしれん。だが、書く」
クレスは手帳を閉じた。その背に、来た時の卑屈さはもうなかった。
頭上で、二つの月が静かに澄んでいた。大小ふたつの蒼い光が、血を凌いだ谷と、真実を選んだ文官を、等しく照らしていた。
ヴェイルの罠は、思わぬ綻びを生んでいた。だがザインには分かっていた。これで後方の戦が終わるわけではない。むしろ、ヴェイルの本当の反撃は、これから始まるのだと。




