第119話 老将の槍
マルトが左翼へ駆けた。ザインは谷で時を稼いだ。
側面の迂回隊が、じりじりと丘の裏へ回り込んでくる。それが継ぎ目を突けば、もう支えきれない。ザインは隊を二つに割いた。半分で谷の正面を守り、残る半分で側面の到来を遅らせる。だがどちらも薄い。薄い盾で二方を防ぐ。崩れるのは、時の問題だった。
「バルガ、側面を頼む。お前の槍で、迂回隊の足を止めてくれ。長くはもたん。だが、ガレウスの兵が来るまでだ」
「任せろ。古い肩だが、まだ槍は握れる」
バルガは古傷の残る肩を回し、太い槍を担いだ。鴉の囲みで殿を引いた時に負った傷が、まだ完全には癒えていない。それでもこの古参は、迷わず最も危うい側面へ向かった。ザインの右腕は、いつも一番きわどい場所に立った。
側面で槍戟が始まった。バルガの槍隊が迂回隊の鼻先に立ちはだかる。寡兵が押し寄せる新手を必死に押し留めた。バルガの槍が幾人もの敵を突き伏せる。だが数の差は覆らない。じわじわとバルガの隊が押されていった。古参の肩から滲んだ血が鎧を伝った。
ザインは正面で槍を振るいながら、側面の戦況を背中で聞いていた。バルガの踏ん張りが、刻一刻と削られていくのが分かる。古参の隊が崩れれば、谷の本隊は背を取られる。だがザインは正面を離れられなかった。正面を緩めれば、今度はそこが裂ける。二方を薄い盾で支える戦は、将の神経をすり減らした。どちらかが破れる前に、ガレウスの兵が間に合うか。すべては、その一点に懸かっていた。ザインは敵を突き伏せながら、南の地平へ幾度も目を走らせた。来てくれ。間に合ってくれ。祈りに近い読みだった。
「まだだ……まだ、退かん」
バルガは歯を食いしばり、踏み止まった。背後の谷を、ザインの本隊を裂かせはしない。その一心だった。
その時、南から地鳴りが届いた。
ガレウスの軍団の一翼が左翼を離れて駆けてくる。老将はザインの救援要請に応えた。ヴェイルの定めた布陣を自らの判断で破ったのだ。命令違反だった。だが老将は迷わなかった。継ぎ目が裂ければ全軍が崩れる。それを座視するくらいなら己が責を負う。叩き上げの将の、肚の据わった決断だった。
ガレウスの一翼が、迂回隊の側面へ突き入った。押し寄せていた敵の新手が、横から崩される。バルガの隊にかかっていた重みが、一気に軽くなった。
「将軍が……来た!」
兵の声が谷に響いた。挫けかけていた隊の士気が、一息に蘇る。ザインは正面で槍を振るいながら、南から来た老将の旗を見た。ヴェイルが見殺しにした谷を、ガレウスが命令を破ってまで救いに来た。後方の蛇の巣にも、まだ筋を通す将がいた。
二方の攻めがようやく止まった。迂回隊はガレウスの一翼に阻まれ、谷の正面の大波も勢いを失っていく。日が傾く頃、ロウガの軍は潮が引くように退き始めた。継ぎ目は裂けなかった。寡兵と老将の槍が、ヴェイルの見殺しを覆していた。
戦が止んだ谷で、ザインはバルガに駆け寄った。古参は肩から血を流し、片膝をついていた。だが、その目は笑っていた。
「……案じるな。かすり傷だ。古い肩が、また一つ古くなっただけよ」
「無茶をした。お前がいなければ、側面は抜かれていた」
「お前の右腕だからな。一番きわどい所に立つのが、俺の役目だ」
ザインはバルガの肩を支え、その重みを確かに感じた。生きている。失わずに済んだ。だが危うかった。あと半刻ガレウスが遅れていれば、この古参も谷に倒れていた。
ザインは胸の底が冷えるのを感じた。バルガが危地に立ったのは、敵のせいではない。ヴェイルが援軍を出さなかったからだ。後方の一人の保身が、前線の古参の命を、紙一重まで追い詰めた。もしバルガが倒れていれば、それは戦死ではなく、味方に殺されたも同然だった。ザインの胸に、静かな怒りが沈んだ。だがその怒りを、ザインは表に出さなかった。怒りで盤は組めない。今はただ、生き延びた者の数を確かめることだけが、将の務めだった。隊を見回せば、谷で四人が倒れていた。少ない損で済んだ。だが、ゼロではなかった。
頭上で、夕の二つの月が昇り始めていた。大小ふたつの蒼い光が、裂けずに済んだ谷と、血を流して立つ古参を、静かに照らしていた。
継ぎ目は守った。だが、これで終わりではなかった。命令を破ったガレウスに、ヴェイルの矛先が向くことを、ザインは予感していた。




