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第118話 見殺し

 援軍は来ない。その意味を、ザインは即座に理解した。


 ヴェイルは継ぎ目を見殺しにする気だった。援軍を約束しておきながら出さない。ザインの隊が大波に呑まれて壊滅すれば、「死地を守りきれなかった無能」として葬れる。継ぎ目が裂け、中央と左翼が分断されてもヴェイルは責をザインに着せられる。罠の本体が、ようやく牙を剝いた。


 ザインは胸の底で、後方の戦の冷たさを噛みしめた。前線の敵は、命を奪いに来る。だが後方の敵は、名と立場を奪うために、味方の兵の命すら平気で捨て駒に使う。谷で血を流す兵の一人ひとりに、ヴェイルは何の関心も払っていない。彼らはただ、ザインを潰すための材料に過ぎなかった。その非情さが、ロウガの大波よりも深く、ザインの腹を冷やした。だが怒りに任せる余裕はなかった。怒りは後でいい。今は、一人でも多く生かすことだけを考えねばならなかった。


「クレス」


 ザインは傍らの監軍を振り返った。クレスは青ざめ、谷の戦いを呆然と見ていた。


「あんたの将軍は、約束の援軍を出さない。これは見殺しだ。あんたは、その目で見ている。報告に何と書く。継ぎ目を守れなかった俺の咎か。それとも、援軍を出さなかった本営の咎か」


 クレスの唇が震えた。文官は答えられなかった。だがその目はすでに谷で何が起きているかを理解していた。机の上では見えなかったもの。兵が血を流し、援軍を待ち、それでも来ない。すべてをこの男は今、目の前で見ていた。


「……私は」


「今は書かなくていい。だが、見ておけ。それがあんたの役目だ」


 ザインはそれだけ言うと、谷へ向き直った。恨み言を並べている暇はない。援軍が来ぬなら、来ぬ前提で盤を組み直すしかなかった。これまでもそうだった。後方が裏切るなら、前線の手だけで勝つ。


 その時、東の丘からマルトの絶叫が飛んだ。


「少尉! 北東から、新手だ! 別の一隊が、丘を回り込んでくる!」


 ザインは北東を見た。ロウガの第二の手だった。谷で正面を押さえながら別動隊を大きく迂回させ、丘の裏から継ぎ目を突く。正面と側面、二重の攻めだった。寡兵の谷はもう正面だけで手一杯だった。側面まで回されれば確実に裂ける。


「やはり、来たか」


 ザインは唇を噛んだ。ロウガは継ぎ目の薄さを最初から見抜いていた。正面で釘付けにし、本命は側面の迂回。ザインの読みと、ロウガの読みが、真っ向からぶつかっていた。そして今、数の差が、その読み合いに重くのしかかっていた。


 遠く北の丘に、一騎の将が見えた。黒い甲冑に、見覚えのある采配。ロウガだった。宿敵は丘の上から、谷の戦いを静かに見下ろしていた。その采配が、迷いなく側面の迂回隊を指し示している。ザインの目と、ロウガの目が、戦野を挟んで一瞬交わった気がした。


 言葉はない。だが互いに分かっていた。これは将と将の、読みの果たし合いだった。ロウガはザインを対等の敵将として遇していた。最も薄い継ぎ目に置かれた寡兵を侮らず、全力で潰しにかかっている。それは敬意の裏返しだった。


 皮肉なことだった。敵であるロウガは、ザインを一人前の将として真っ向から潰しに来る。味方であるはずのヴェイルは、ザインを侮り、捨て駒として見殺しにする。最も己を認めているのが敵で、最も己を貶めるのが味方だった。前線と後方。槍を交える戦と、紙で人を殺す戦。ザインはその二つの戦場の只中で、たった一人、両方を相手に立っていた。ロウガの采配が再び動いた。迂回隊の進みが速まる。猶予は、もう幾許も残されていなかった。


「カイル。側面の迂回隊を、何とか遅らせねばならん。だが谷の正面も緩められない。手が足りない」


「では――」


「ガレウス将軍に、賭ける」


 ザインは南の左翼を見た。ヴェイルの中央は動かない。だが左翼のガレウスなら動くかもしれない。あの老将は継ぎ目が裂ければ自軍も危うくなることを知っている。何より、ザインを見殺しにはしない男だった。


 ザインはマルトに最後の使者を託した。ガレウス将軍へ。継ぎ目、裂けかけ。側面に敵迂回隊。救援を乞う、と。


 頭上で、二つの月が昼の空に白く滲んでいた。大小ふたつの影が、二重の攻めに晒される谷と、それを見下ろす二人の将を、静かに照らしていた。


 ザインの命綱は、もう一人の老将の決断だけに懸かっていた。

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