第117話 本流
翌朝、北の大波が本気で動いた。
昨日の先鋒とは比べ物にならぬ数だった。地平を埋めた軍勢が継ぎ目めがけて押し寄せる。だがザインはすぐに敵の動きの違いを見て取った。今日の敵は谷へ真っ直ぐ突っ込んでこなかった。先頭の一隊が谷の口で足を止め、左右へ広がろうとしている。
「ロウガが昨日の谷を読んだな」
ザインは丘の上から敵陣を睨んだ。昨日、谷で先鋒を絞られたロウガは同じ轍を踏まなかった。谷を避け、両肩の丘ごと包もうとしている。地形の利を一日で読み消されかけていた。さすがは宿敵だった。一度見せた手は、もう通じない。ロウガはザインの盤を一目で読み解き、その裏をかいてきた。采配越しに交わす無言の読み合いが、刻一刻と研ぎ澄まされていく。ザインは相手の頭の冴えに、敵ながら背筋の震えるような昂りを覚えた。これほどの将と盤を競える戦は、そうはない。
「カイル。敵は谷を捨てて、丘を取りに来る。このままでは両肩を奪われ、谷ごと包まれる」
「では、どうします。丘を守れば谷が空き、谷を守れば丘を取られる。寡兵では、両方は守れません」
カイルの声に焦りがあった。ザインは一拍、目を閉じた。敵の手が読めれば、こちらの手も決まる。両方は守れない。なら、守らない。
「丘を捨てる」
「捨てる――?」
「東の丘を、わざと空ける。敵はそこから雪崩れ込もうとする。だが空けた丘の裏は、昨日見ておいた。急な下り斜面だ。勢いよく駆け下りた敵は、足を止められない。下り切った所が、あの谷の奥だ」
ザインの指が地図を走った。東の丘を空ければ、敵はそこから流れ込む。だが丘の裏の急斜面が、敵を再び谷の奥へ導く。逃げ道に見せた道が、新たな袋の口だった。地形を一つ捨てることで、より深い罠を組む。
「ティム、東の丘の弓兵を退け。だが退き方を見せるな。押されて退いたように見せろ。コルネリアは谷の奥で待て。敵が斜面を下り切った所で焔を放つ」
号令が飛んだ。東の丘の弓兵がじりじりと押されるように退く。敵はそれを好機と見て丘へ殺到した。勢いそのままに斜面を駆け上がり、そして――裏の急な下りへ転げ込んだ。止まれない。鎧の重みと勢いが敵を谷の奥へ雪崩れ落とす。
「今だ、コルネリア」
谷の奥で蒼い焔が爆ぜた。斜面を下り切った敵の足が止まる。そこへバルガの槍隊が横から突き入る。昨日と同じ谷の喉で、敵は再び絞られていた。逃げ込んだつもりの道が、袋だった。
だが今日の敵は数が違った。一隊を谷で削っても後続が次々と押し寄せる。ザインの隊は奮戦したが、じわじわと押されていった。読みは当たっている。それでも数の差が確実に隊の体力を削っていた。
寡兵の戦には、底があった。どれほど巧みに地形を使っても、兵の腕も体も無限ではない。槍を振るう腕は重くなり、矢は尽きかけ、コルネリアの焔にも限りがあった。一方の敵は、削っても削っても新手が湧く。盤は読み勝っている。だが盤の上で駒を動かし続ける手が、先に尽きようとしていた。ザインはそれを冷たく自覚していた。読みだけでは、いつか押し切られる。だからこそ援軍が要った。中央から一隊が回り、敵の側面を脅かせば、大波の勢いは削げる。寡兵の谷が持ちこたえる間に、その一手が入る。それが軍議で交わされた約束であり、この死地を生き抜く唯一の道筋だった。
「持ちこたえろ。中央の援軍が来れば、押し返せる」
ザインは中央のヴェイル本隊に、約束の援軍を求める使者を出していた。継ぎ目が押されれば、中央から一隊を回す。それが軍議で交わされた取り決めだった。寡兵で大波を凌ぐには、その援軍が命綱だった。
だが、いくら待っても、中央から兵は来なかった。
ザインの背に冷たいものが走った。谷では兵が血を流し、刻一刻と削られている。命綱の援軍が、約束の時を過ぎても動かない。マルトが丘から駆け戻り、青ざめた顔で告げた。
「少尉……中央の本隊が、動きやせん。援軍を出す気配が、まるでねえ。あれは……わざとだ。中央は、見殺しにする気だ」
頭上で、昼の二つの月が白く浮いていた。大小ふたつの蒼い影が、命綱を断たれかけた谷を、冷たく見下ろしていた。
約束の援軍は来ない。ヴェイルの罠の本体が、今、姿を現そうとしていた。




