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第116話 月の下で

 その夜、谷は束の間の静けさに包まれた。


 兵たちは交代で眠り、傷の手当てをし、武具を直した。最初の波を凌いだとはいえ誰の顔にも昂りはなかった。明日また、もっと大きな波が来る。それを皆が知っていた。ザインは陣を一巡し、兵の一人ひとりに声をかけた。よく持ちこたえた。明日も生きろ。短い言葉だがそれが兵の背を支えた。将が己の名を呼び、己の働きを見ていた。その実感だけで兵は明日も槍を握れた。寡兵の戦では、一人ひとりの心の張りがそのまま隊の強さになる。ザインはそれを前線で泥を這いながら学んでいた。だから決して兵を数で見なかった。


 見回りを終えた頃、コルネリアが谷の縁でザインを待っていた。蒼い杖を傍らに置き、二つの月を見上げている。大小ふたつの月が彼女の白い横顔を照らしていた。


「お疲れさま。今日は……よく凌いだわ」


「お前の焔のおかげだ。あの一撃で、敵の波が確かに鈍った」


 ザインは彼女の隣に腰を下ろした。冷えた夜気の中、二人の間に静かな間が流れた。コルネリアは膝を抱え、しばらく月を見ていた。


「ねえ、ザイン。私、怖いの。今日みたいに勝てても、明日はどうなるか分からない。あなたが死地に置かれているのは、私にも分かる。後方の偉い人が、あなたを潰そうとしている。なのに、何もできない」


「お前は十分にやっている。お前の焔がなければ、今日の谷は抜かれていた」


「そういうことじゃないの」


 コルネリアの声が、わずかに震えた。


「私が怖いのは、戦じゃない。あなたが、いつか帰ってこなくなることよ。セドも、ヨナも、帰ってこなかった。次は……あなたかもしれない。そう思うと、夜が眠れないの」


 ザインは答えに詰まった。気休めは言えなかった。死地に立つ将に必ず帰るとは誓えない。明日の谷で何人が倒れるか、ザイン自身にも分からなかった。だが彼女の怯えをそのままにもできなかった。コルネリアの恐れは、弱さではない。死を間近に見続けた者だけが抱く、まっとうな恐れだった。それを軽んじることは、ザインにはできなかった。


「俺は、簡単には死なん。お前との約束がある」


「約束……」


「セドの小鳥を、二人で妹に届ける。あれをまだ果たしていない。約束を残したまま死ぬのは、俺の流儀じゃない」


 コルネリアの胸元で木彫りの小鳥が月明かりに鈍く光った。彼女はそれをそっと握り、小さく笑った。涙の滲んだ、けれど確かな笑みだった。


「ずるいわ、その言い方。それじゃ、約束を果たすまで死ねないじゃない」


「そういうことだ」


 ザインも口元を緩めた。二人の間の張り詰めたものが、少しほどけた。コルネリアの指が、そっとザインの手に重ねられた。冷えた夜に、その温もりだけが確かだった。ザインはその手を握り返した。言葉はもう要らなかった。死地を前にして、互いの体温だけが、確かに繋がっていた。


「明日も、隣にいるわ。あなたの読みが届く場所に」


「ああ。頼む」


 二人はしばらく、二つの月を見上げていた。大小ふたつの蒼い光が、戦地の真ん中で寄り添う二人を、静かに照らしていた。明日になれば、また血と泥の中だ。だが今だけは、この静けさが二人のものだった。


 ザインは胸の奥でひとつの誓いを固めた。この戦を生き抜く。コルネリアと隊の皆と共に。ヴェイルの罠もロウガの大波も必ず凌いでみせる。死地に置かれたとしても、その死地を生きて抜ける。それが将としての、そして一人の男としての、ザインの答えだった。


 ザインはふと、この異世界へ落ちてきた最初の夜を思い出した。何も持たず、ただ生き延びることだけを考えていたあの頃。今は守るものができた。隣に座る娘がいて、明日も共に戦う隊がいる。失った者の重みも背負っている。一兵卒の生存だけを願った男はいつしか多くの命を預かる将になっていた。その変わりようを、ザインは静かに噛みしめた。


 夜は更けていった。北の地平で敵の篝火が無数に灯っていた。明日の大波の前触れだった。だが谷の二人はその火を見ても、もう怯えてはいなかった。隣に体温がある。それだけで、明日へ立ち向かう力になった。


 頭上の二つの月が、ゆっくりと西へ傾いていく。大小ふたつの蒼い光が、戦の合間の短い静けさを、惜しむように照らし続けていた。

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