第115話 最初の波
夜明け前、北の地平が鳴り始めた。
地を踏む蹄と足の音。万を超す軍勢が動く時、大地そのものが低く唸る。ザインは谷の南端に立ち、その響きを足裏で聞いた。ロウガの先鋒が継ぎ目へ向かって動き出していた。読み通り、敵は横一線の最も薄い一点へ鼻先を向けていた。薄い所を突く。ロウガの兵に染みついた習いが、ザインの敷いた盤の入口へそのまま敵を導いていた。
「来るぞ。皆、配置につけ」
ザインの声は低く、だが隅々まで届いた。バルガが谷の入口で槍隊を伏せ、マルトが東の丘で敵の動きを見張る。コルネリアは西の丘の陰で蒼い杖を抱えた。ティムは「左の角」を任され、谷の肩で弓兵を束ねていた。百に満たぬ隊が、谷とその両肩に薄く散った。
クレスは南の高みからその様子を眺めていた。文官の顔は青ざめていた。北から押し寄せる砂塵の帯が見る間に大きくなる。あの大波をこの寡兵で受けるのか。手帳を握る手がかすかに震えていた。机の上の図では、敵も味方も同じ大きさの駒だった。だが目の前の敵は地を埋め尽くし、味方は谷の草に紛れるほど少なかった。図と現実の隔たりが、クレスの足を竦ませていた。
やがて敵の先鋒が姿を現した。王国の旗を掲げた騎兵が、地を埋めて押し寄せる。その数は、谷の隊の何十倍にも見えた。先頭の騎兵が継ぎ目の薄さを見て取り、勢いそのままに谷へ雪崩れ込もうとした。ロウガの兵は、薄い所を見れば迷わず突く。その習いが、ここでもザインの読み通りに働いた。
「まだだ。引きつけろ」
ザインは槍を伏せたまま待った。敵が谷の口へ流れ込む。両の丘がわずかに敵の幅を狭める。横へ広がろうとした騎兵の波が、地形に押されて一筋に細った。大波が、谷の喉で絞られていく。
「今だ。コルネリア」
西の丘から蒼い焔が走った。谷の入口で炎が爆ぜ、先頭の騎馬が怯んで棹立ちになる。後続が前のめりに重なり、隊列が乱れた。その隙へ、バルガの槍隊が横から突き入った。細く絞られた敵の脇腹を、谷の肩から削る。狭い谷では、騎兵の数の利が働かない。馬は密集を嫌い、思うように駆けられなかった。
「ティム、左の弓だ。流れを止めろ」
ティムの号令で、丘の肩から矢が降った。谷へ入ろうとする後続が、矢を浴びて足を止める。前は炎と槍、上は矢。大波の勢いが、谷の喉で確かに鈍った。ザイン自身も槍を振るい、乱れた敵の先頭を押し返した。寡兵が、地形を盾に大軍の一撃を受け止めていた。
敵の先鋒は谷を抜けられなかった。幾度か押し寄せ、そのたびに谷の喉で削られ、やがて潮が引くように退いた。最初の波は凌ぎ切った。
ザインは退く敵の背を見送りながら、冷えた頭で戦の続きを組み立てていた。地形は嘘をつかなかった。半日かけて読んだ谷の骨組みが、そのまま大波を細める枷になった。高みからの矢が後続を止め、絞られた喉でバルガの槍が脇腹を削る。一つひとつの手が噛み合い、寡兵が大軍の勢いを殺した。北の山岳で得た手札が、この継ぎ目でも生きていた。受けて流す。敵の力を正面から受けず、地形へ逸らす。それがザインの戦い方だった。
だがザインは浮かれてはいなかった。今のはロウガの先鋒に過ぎない。あの将は最初の波で必ず継ぎ目の固さを測る。谷で絞られると見れば、次は谷を避ける手を打ってくる。地形の利は、一度読まれれば薄れる。ザインの読みと、ロウガの読み。盤上の探り合いは、まだ始まったばかりだった。
南の高みで、クレスが呆然と立ち尽くしていた。机の上では見えなかったものが、今、目の前にあった。百に満たぬ兵が、地形ひとつで万の大波を押し返す。手帳の白い紙が、風にめくれていた。クレスはそこに、何も書けずにいた。
「これが……前線か」
クレスの呟きは、誰にも届かなかった。
ザインは谷の口で息を整え、北を見据えた。今のは、ほんの先触れに過ぎない。ロウガはまだ本気で来ていない。最初の波で継ぎ目の固さを測り、次にもっと深い手を打ってくる。
頭上で、明け方の二つの月が薄れていく。大小ふたつの影が、最初の波を凌いだ谷を静かに見下ろしていた。
ザインの目は、すでに次の波を読んでいた。継ぎ目を守り抜けるか。それはこの先、ロウガがどれだけ深く読んでくるかにかかっていた。だが怯えはなかった。盤はこちらが先に敷いた。次の一手も、必ず読み勝つ。本当の戦は、これからだった。




