第114話 目付の男
翌日、後方から一人の文官が陣へ来た。
ヴェイルが寄越した監軍だった。名はクレス。痩せて青白い、神経質そうな若い男だった。腰に剣を帯びてはいるが、その手は紙を扱う手で剣を握る手ではなかった。クレスは陣を一瞥し、鼻に皺を寄せた。泥と汗の臭いが気に入らぬらしかった。
「ザイン少尉。私はヴェイル将軍より、貴官の隊の作戦を監督するよう命じられた。以後、貴官の判断はすべて私が検める。命に背く動きがあれば逐一本営へ報告する」
ガロが背後で小さく舌打ちした。バルガの目が冷たくなった。目付だ。ザインが命を曲げぬよう縛り、少しでも独断を見せれば「命令違反」として後方へ報せる。ヴェイルの罠の、二枚目の歯車だった。継ぎ目という死地に置くだけでは足りず、その手足まで縛りに来た。寡兵で大波を受ける将から、最後の武器である「読みで命を曲げる自由」を奪う。それがクレスの役目だった。
コルネリアがそっとザインの隣に立った。クレスを見る目に、隠しきれぬ警戒があった。
「あの人……陣の臭いを嫌っている。兵の顔を、一度も見ていない」
「ああ。あいつには、兵が見えていない。見えているのは、報告に書く文字だけだ」
ザインは低く答えた。コルネリアの観察は鋭かった。人の裏側を読むことにかけて、彼女はザインに劣らなかった。塔に囲われ、人の顔色だけを頼りに生きてきた娘の目だった。
「承知した。だが一つ言っておく。前線では状況が刻々と変わる。本営の命が届く頃には、戦場はもう別の形になっている。その時、命を待って兵を死なせるか、目の前の理で兵を生かすか。俺は後者を選ぶ」
「それが命令違反だと申している」
「なら、報告すればいい。俺は兵を生かす」
ザインの声に揺らぎはなかった。クレスは唇を引き結び、何かを手帳に書きつけた。早速、一筆目の報告材料を得たという顔だった。
その夜、ザインはクレスを谷へ連れ出した。継ぎ目の地形を、自分の目で見せるためだった。
「クレス殿。あなたは作戦を検める役だ。なら、検める対象を知らねばならない。これが俺の守る継ぎ目だ」
ザインは谷と両肩の丘を指し示した。クレスは渋々それを眺めた。だがその目は、地形の意味を読めていなかった。どの丘が高く、どこが敵の通り道になるか。文官の目には、ただの草の生えた起伏にしか映らなかった。
「……ただの野ではないか。これのどこが要だと」
「ここが裂ければ、南方軍は中央から二つに割れる。あなたの将軍は、その死地に、俺の隊だけを置いた。重要な役だと言ってな」
クレスの顔が、わずかに強張った。ザインの言葉の含みを、この聡い文官は読み取っていた。自分の上役が、ザインを死地に追いやったこと。そして自分は、その死を見届ける役であること。クレスは何も言わず、月明かりの谷を見渡した。
ザインはあえて続けた。
「あなたを責めはしない。命じられた役を果たすだけだろう。だが一つ覚えておいてくれ。この谷で、明日にも兵が死ぬ。あなたの手帳に書かれる『命令違反』の一行の裏で、何十という命が懸かっている。報告は好きにすればいい。だが、見ておいてほしい。机の上では見えぬものを」
クレスはしばらく黙っていた。やがて、ぽつりと口を開いた。
「……私とて、好きでこの役を受けたのではない。家を継げぬ三男坊だ。ヴェイル将軍の覚えがめでたくなければ、生きる道がない。貴官のように、戦場で名を立てる才もない。私にできるのは、命じられた紙の役目を、間違いなく果たすことだけだ」
その声には、思いがけず弱さがにじんでいた。ザインは少し意外な思いでクレスを見た。傲慢な目付の裏に、行き場のない若者の影があった。
「なら、なおさら見ておけ。お前が果たす役目の、その先で何が起きるかを。紙に書く一行が、人の生き死にに繋がる。その重さを知る監軍と、知らぬ監軍では、書く一行が変わる」
クレスは答えなかった。だがその横顔から、来た時の傲慢さが少し剥がれていた。
頭上で、二つの月が冷たく冴えていた。大小ふたつの蒼い光が、死地を守る将と、それを監視する文官を、等しく照らしていた。
北の地平の砂塵は、一日でぐっと近づいていた。ロウガの大波は、もう目前に迫っていた。
目付に縛られ、寡兵で死地を守る。ザインの二正面の戦は、明日いよいよ火蓋を切ろうとしていた。




