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第111話 命と理

「上の命に従わぬ将、ですか」


 ザインはヴェイルの言葉を、静かに繰り返した。


「答えてみよ。北の山岳で、貴官は後方の補給命令を待たず、独断で水の樋を断った。南でも、無理筋の前進命令を曲げて罠を仕掛けた。命を、己の読みで書き換えてきた。違うか」


 ヴェイルの目が細められた。並んだ将校たちが、固唾を呑んでザインを見ている。これは尋問だった。功を罪に変えるための、丁寧に組まれた問いだった。カイルが微かに首を振った。下手に答えるな、という合図だった。


 だがザインは口を開いた。


「命に従いました。曲げてはいません」


「ほう」


「軍の命は勝つためにあります。私はその命の目指す勝ちを、より確かに掴む道を選んだだけです。水の樋を断ったのは命じられた敵陣の攻略を兵を死なせず果たすため。前進の罠も命じられた前進をより少ない損で遂げるため。命の文字ではなく命の理に従ったのです」


 審議の間が静まった。ザインの言葉は、用意された答えではなかった。前線で幾度も命と現実の間に立たされ、その都度血で贖って掴んだ実感だった。だからこそ揺るがない。机上で組まれた論には、泥の重みがなかった。


「文字より理に従う、か」


 ヴェイルが薄く笑った。それは賞賛の笑みではなかった。


「美しい言い分だ。だがなザイン少尉。軍とは一人ひとりが己の理で命を解釈し始めれば、たちまち崩れる。万の兵がそれぞれ『より良い道』を選べば軍は軍でなくなる。命は文字のまま守られてこそ命だ。貴官の理が正しかったのはただの運に過ぎぬ」


 ザインは即座には答えなかった。ヴェイルの論には確かに一片の理があった。軍が命令で動く以上、勝手な解釈は秩序を壊す。万の兵が各々の判断で動けば、それはもう軍ではなく烏合の衆だった。だがそれは命が常に正しいという前提の上での話だった。前線を知らぬ者の命が、兵を無駄に死なせる場面を、ザインは数えきれぬほど見てきた。枯れた井戸、汚された水、届かぬ糧。机の上では決して見えぬものが、泥の中には満ちていた。


「将軍の仰る通りです。軍は命で動く。ですが命を出す者が前線を見ていなければ、その命は兵を無駄に死なせます。私は文字を曲げたのではない。前線で見たものに命を合わせたのです」


「その判断が、いつも正しいと言えるのか」


「言えません。だから読みます。読み違えれば、兵が死ぬ。その重さは、後方の机では量れません」


 最後の一言が、間に鋭く落ちた。何人かの将校が顔を強張らせた。後方の机、という言葉が、この場の全員を刺していた。ボードの顔が赤らんだ。


「無礼な――」


「ボード」


 ヴェイルが片手で制した。そして、ザインを長く見つめた。その目の奥で、何かが冷たく定まった。


「面白い。ならば貴官の理とやらを、見せてもらおう。近く、南で大きな作戦がある。貴官の隊にも、相応の役を与えよう。存分に、その読みを振るうがいい」


 言葉は寛大だった。だが、その響きは氷のように冷たかった。カイルの顔から血の気が引いていた。これは栄誉ある任ではない。罠の入り口だと、貴族の出のカイルには分かっていた。


 審議が散会した後、カイルは廊下でザインに囁いた。


「ザイン殿。あれはあなたを使い潰す気です。『相応の役』とは最も危うい役のこと。功を立てれば手柄は奪われ、失敗すれば全責を負わされる。前線とは違う殺し方です」


「分かっている」


 ザインは静かに頷いた。ヴェイルの寛大な言葉の裏には、はっきりと刃が見えていた。だが恐れはなかった。むしろ、相手の手が読めたことに、ザインは奇妙な落ち着きを覚えていた。見えぬ罠は怖い。だが見えた罠は、対処のしようがある。


「カイル。お前のおかげで、あの男の狙いが読めた。後方の作法を知らねば、俺はあの場で功を誇り、墓穴を掘っていた。礼を言う」


「いえ……私は、貴族の生まれでありながら、貴族のやり方が嫌いだ。あなたの戦を見て、その理由が分かった気がします。あなたは、兵を駒と思っていない。だから私はあなたに付く」


 カイルの声には、家名を捨てた者の覚悟があった。ザインはこの若い副官の変わりようを、改めて頼もしく思った。蛇の巣の中で、信じられる背中が一つあるだけで、戦い方は変わる。


 ザインは高窓の外を見た。昼の二つの月が、薄い雲の向こうに二つ並んでいた。大小ふたつの月が、これから始まる二正面の戦を、静かに見下ろしていた。


 前には宿敵ロウガの大波。後ろにはヴェイルの罠。ザインは、その二つに挟まれた一点に立っていた。

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