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第110話 蛇の巣

 南方軍本営は、前線とは別の世界だった。


 石造りの館に絹の幕が垂れ、磨かれた床を従卒が音もなく行き交う。泥も血も、ここには無い。ザインが歩くたび、将校たちの目が値踏みするように向けられた。平民の出の少尉。その噂は、もう館中に広まっていた。


「あれが、鴉を落とした男か」


「家名もない兵卒上がりが、よくも少尉まで。後ろ盾はガレウス将軍だとか」


 囁きが廊下の隅々から湧いた。ザインは表情を変えずに歩いた。前線で何百という敵の視線を浴びてきた。この程度の囁きで足は止まらない。だが隣を歩くカイルの頬は、わずかに強張っていた。


「ザイン殿。ここの作法を一つ。問われるまで、自分から功を語ってはならない。語れば『驕り』と取られます。黙して、問われた分だけ答える。それが後方の流儀です」


「分かった。お前が合図をくれ」


 ザインは廊下の調度を横目に歩いた。一枚の壁掛けに、過去の会戦を描いた絵があった。整然と並ぶ味方の軍勢、崩れ落ちる敵。実際の戦場とは似ても似つかぬ、清潔な勝利の絵だった。泥も、糞尿の臭いも、断末魔も、そこにはない。後方の者が思い描く戦は、この絵のようなものなのだとザインは思った。彼らは数字と図形で戦を見る。兵の一人ひとりが名を持ち、村に帰る家を持つことを、紙の上では忘れていられた。


「カイル。あの絵を見ろ」


「ええ。あれが、ここの連中の見ている戦です。だから彼らは、兵を駒として動かせる。痛まずに済む」


 カイルの声は低かった。貴族の出でありながら、この若者は後方の冷たさに馴染めずにいた。前線で泥を共にした日々が、彼を変えていた。


 通されたのは審議の間だった。長卓の奥に後方総軍の将校が居並ぶ。その中央に見覚えのある顔があった。ボードだ。任官試験でザインを潰そうとしたヴェイル派の男。今は参謀の肩書を得て、肥えた顔に薄い笑みを浮かべていた。


「よく来た、ザイン少尉。前線の働き、聞き及んでいる。鴉のガディウスを捕らえたとか。さぞ華々しい戦であっただろう」


「捕らえたのは事実です。華々しくはありません。四人を失いました」


「ほう。四人も。独立指揮の不慣れゆえか。やはり兵卒上がりに一隊を預けるのは、早すぎたのかもしれぬな」


 ボードの言葉が、巧妙に毒を含んでいた。功を損失にすり替える話術だった。ザインは内心で舌を巻いた。これが後方の戦か。槍の代わりに言葉で人を刺す。


「四人の死は私の咎です。ですがその四人で糧道を守り、鴉を落とした。前線の兵は誰一人その死を無駄とは思っていません」


 ザインの声は静かだった。だが揺るがなかった。ボードの笑みがほんのわずか強張った。功を損失に見せかける話術は、相手が動じてこそ効く。ザインが微塵も揺れぬので、毒は空を切った。


「ほう。兵卒上がりにしては、舌が回る」


「前線では、舌より先に手が動きます。ここへ来て、初めて舌の戦を学んでいるところです」


 ザインの返しに、卓の端の若い将校が思わず口元を緩めた。ボードがそれを睨んで黙らせる。場の空気が、わずかにザインへ傾いた。カイルが卓の下で小さく頷いた。悪くない滑り出しだった。


 その時、奥の扉が開いた。場の空気が一変した。将校たちが一斉に立ち上がる。入ってきたのは、痩せた長身の男だった。鋭い目、薄い唇。纏う絹は誰よりも上等だった。ヴェイル将軍。後方最大派閥の頭であり、ザインが任官試験で「敵に回した」男だった。


「楽にせよ」


 ヴェイルは静かに席に着き、ザインを見た。値踏みではない。すでに値は決めている、という目だった。


「ザイン少尉。貴官の働きは聞いている。読みに長け、兵を生かす将だと。だが、聞けば聞くほど、一つの懸念が湧く」


「懸念とは」


「貴官は、上の命に従わぬ将ではないか、ということだ」


 間に、冷たい沈黙が落ちた。カイルの息が止まるのが分かった。ヴェイルの言葉は、これから仕掛ける罠の、最初の布石だった。


 ザインは、すぐには答えなかった。否と言えば命令違反の証になり、是と認めれば己を罪に縛る。ヴェイルの問いは、どう答えても罠に繋がるよう組まれていた。前線の伏兵より、よほど巧妙な仕掛けだった。ザインは相手の言葉の底を読もうとした。この男が本当に欲しているのは、答えではない。ザインが言葉に詰まり、慌て、馬脚を露わす瞬間だった。


 頭上の高窓から、昼の二つの月が白く覗いていた。大小ふたつの月が、蛇の巣に踏み込んだ将を冷たく見下ろしていた。


 ザインは静かにヴェイルを見返した。後方の戦が、今、始まろうとしていた。

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