第109話 後方の風
鴉を落として三日後、後方から早馬が来た。
ザインに南方軍本営への出頭を命じる書状だった。差出人はガレウス将軍ではない。後方総軍の名で出ていた。文面は丁重だが、行間に冷たいものがあった。独立指揮の働きを「精査する」と書かれていた。褒賞ではない。値踏みだった。
「精査、ときたか」
ガロが書状を覗き込んで鼻を鳴らした。
「鴉を落として糧道を守った将を、わざわざ呼びつけて値踏みするのか。後方の連中は前線で何が起きてるか分かってんのかね」
「分かった上で呼ぶんだ」
ザインは書状を畳んだ。
「前線の手柄が大きいほど、後方で目立つ。目立てば、邪魔に思う者が出る。ヴェイル将軍だ。俺の名が広まる前に、足を止めておきたいんだろう」
バルガが太い腕を組んだ。古傷の残る肩を庇うような姿勢だった。
「前にもあったな。任官の時だ。あの時もボードが家名を盾に取った。後方の戦は槍ではなく舌と紙でやる。お前の不得手な戦場だ」
「不得手でも出るしかない」
ザインは南の空を見上げた。ロウガの大波が迫っている。その備えを進めねばならぬ時に後方へ足を運ばされる。これもまた一手だとザインは見ていた。前線から将を引き剥がすこと自体が誰かの狙いかもしれなかった。鴉を落とした直後の、隊がまだ喪失の傷を抱えたこの時を選んで呼びつける。その間の悪さが偶然とは思えなかった。
ティムが竈の火を起こしながら口を挟んだ。
「伍長――いや、少尉。後方の連中ってのは、俺たちが泥の中で何人埋めてきたか、知らねえんでしょうね」
「知らんさ。知る必要がないと思っている」
ザインは静かに答えた。怒りはなかった。ただ、知らぬ者が前線の生死を握る。その仕組みの危うさだけが、胸の底に冷たく沈んでいた。前線では敵の槍を読めば生き延びられた。だが後方の槍は、紙の上から音もなく伸びてくる。それをどう読むか。ザインにはまだ、その目が育っていなかった。
カイルが歩み寄った。貴族の出であるこの副官は、後方の作法を知っていた。
「ザイン殿。後方の本営は、前線とは別の国です。あそこでは結果より、誰の顔を立てたかが物を言う。私が同道します。家名は低くとも、貴族の口の利き方は心得ている。あなた一人を、あの蛇の巣には行かせられない」
「助かる。お前の目が要る」
ザインはカイルの肩を軽く叩いた。家名で侮られていた若者が、今は最も頼れる橋渡しになっていた。
出立の前夜、コルネリアが陣の外でザインを待っていた。蒼い杖を抱え、二つの月の下に立っている。大小ふたつの月が、彼女の白い横顔を淡く照らしていた。
「行ってしまうのね、後方へ」
「すぐ戻る。長くはかからない」
「……気をつけて。後方は、前線より危ないかもしれない。ここなら敵がどこにいるか分かる。でもあそこは、笑っている顔が敵かもしれないでしょう」
コルネリアの声には、隠しきれない案じがにじんでいた。ザインは彼女の言葉の鋭さに少し驚いた。塔に囲われて育った彼女は、人の裏側を読むことに長けていた。
「お前の言う通りだ。笑う顔こそ気をつける」
「待ってる。だから必ず帰ってきて」
コルネリアの指が一瞬だけザインの袖に触れた。それだけで二人の間に交わされる言葉は足りていた。ザインは頷き、彼女の細い肩を見つめた。この戦の重さを共に背負う戦友であり、それ以上の何かだった。
「お前も、無理をするな。俺がいない間、隊の魔法はお前が要だ。だが、お前自身が欠けたら意味がない」
「分かってる。私はもう、塔の中で誰かを待つだけの娘じゃない。ここで戦って、あなたの帰る場所を守る」
コルネリアの声には芯が通っていた。塔に囲われて育った頃の怯えは、もうそこになかった。ザインはその変わりようを、静かに頼もしく思った。彼女の胸元には、セドの形見の木彫りの小鳥が下がっていた。戦の合間、二人は代わる代わるそれを預かっていた。死んだ若い兵の証を、二人はまだ妹のもとへ届けられずにいた。その約束が、二人を確かに繋いでいた。
頭上で、二つの月が静かに巡っていた。前線の闇と後方の闇。ザインはその両方を相手に、これから戦わねばならなかった。
翌朝、ザインはカイルとマルトを連れて本営へ発った。前線を背に、後方の都へ。
まだ誰も知らなかった。この出頭が、ヴェイル将軍の仕掛けた長い罠の、ほんの入り口に過ぎないことを。




