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第108話 手向けの勝ち

 ザインは穂先を引いた。


 ガディウスの喉から、鉄の切っ先が離れる。窪地の兵が、息を呼んだ。仇を、討たないのか。その問いが、無言の輪に満ちていた。ザインは静かに告げた。


「縄を打て。降った者も、傷の手当てをしてやれ。殺すな」


 ガディウスは地に膝をついたまま、ザインを見上げた。痩せた顔に初めて驚きが浮かんでいた。


「狩った獲物を、なぜ殺さん。お前の兵を俺は何人も殺したぞ」


「殺した。お前を斬れば、その一人ひとりが帰ってくるなら、迷わず斬る。だが帰ってはこない。殺すのはただの腹いせだ。俺はそのためにここまで盤を組んだのではない」


 ガディウスは、しばらく黙った。やがて低く笑った。


「……負けた。お前は俺より上の狩人だ。餌を撒き、回り込む道を読み、袋の口を閉じた。俺がやってきたことをそっくり俺に返した。完敗だ」


 男は縄を受け入れた。狩人は、己より優れた狩人に狩られたことを潔く認めていた。


 ザインはガディウスの前に膝を落とし、声を低めた。


「一つ聞く。ロウガは、南で何を企んでいる」


 ガディウスは少し迷い、それから口を開いた。


「……俺は捨て駒だ。糧道を荒らして、お前たちの目を引きつける役。本命はロウガ様だ。あの方は南の主力を一点に集めている。糧道の混乱は、その下準備に過ぎん。じきに大きな波が来る」


 ザインの背に冷たいものが走った。鴉は、ロウガの大きな絵図のほんの一筆だった。宿敵はこの南で、もっと深い手を進めている。


 戦が終わり、隊は窪地を引き上げた。捕らえた鴉を引き連れ、奪い返した糧を担いで。誰も浮かれてはいなかった。勝ったが四人は帰らない。だがその四人の死をただの損失で終わらせはしなかった。糧道を荒らした鴉の頭を確かに討ち取った。


 帰り道は、来た時より静かだった。兵の足取りには勝者の昂りがなかった。代わりにあったのは、生き延びた者の重い実感だった。隣を歩く仲間がまだ生きている。その当たり前が、今は何より重く感じられた。ザインは隊列の最後尾を歩き、一人ひとりの背を数えた。失った四人を除いて、誰も欠けていない。その確かめが将としての小さな安堵だった。だが安堵の裏には、いつも次の戦の影があった。


 捕らえた鴉たちには約束通り水と粥が分けられた。傷の手当ても施した。降った敵を辱めぬその扱いに、鴉の兵は戸惑いやがて静かに従った。糧道を荒らし合った相手に、ザインは一線を引いていた。奪う者を罰しても、人としての扱いまでは奪わない。それが前線で泥を這いながらザインが守り続けてきた芯だった。将になっても、その芯だけは曲げなかった。


 陣へ戻ると、ザインはヨナの槍の前に立った。穂先の欠けた、あの槍だ。ザインは捕らえたガディウスの兜を、その槍の根元にそっと置いた。


「お前の仇は討った。殺してはいない。だが、もう誰の糧も奪えない。お前が守ったこの隊は、一人も欠けずに帰ってきた。お前のおかげだ」


 声は誰にも届かぬほど低かった。だがバルガも、ガロも、コルネリアも、カイルも、その槍の前で頭を垂れた。喪失を共にくぐった隊の、言葉のない手向けだった。


 その夜、ガレウス将軍から早馬が届いた。「鴉を落としたか。よくやった。お前は、独立した一隊を、立派に率い切った」――短い、だが重い言葉だった。だが文の末には、もう一つの報せが添えられていた。後方のヴェイル将軍が、ザインの戦功を「平民の出過ぎた振る舞い」と評し、軍内で動き始めているという。


 ザインはこの一戦で知ったことを胸に刻んだ。将の重みとは、勝つことではない。勝つために誰を死地に置くかを選ぶことだった。読みが当たっても代償は出る。その代償を背負い、なお次の兵を生かすために立ち続ける。それが将だった。ヨナの死は消えない。だがその死を抱えて立つことだけが、若い兵への手向けになる。痛みを忘れず、麻痺もせず、ザインは将として一歩を踏み出していた。


 頭上に、二つの月が冷たく澄んでいた。大小ふたつの蒼い光が、初めての独立指揮を生き抜いた将と、喪失をくぐって一つになった隊を、静かに照らしている。


 ザインは南の闇を見据えた。ロウガの大きな波が近づいている。そして後方では、ヴェイルの手が再び伸びようとしていた。


 将としての最初の戦は、終わった。だが本当の戦は、敵と味方の双方を相手に、これから始まろうとしていた。

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