第107話 袋の口
餌を撒いて、三日目だった。
カイルの囮隊がまとまった糧を一筋の道へ運んだ。護衛は薄く、いかにも奪いやすく見せた。ザインは窪地の伏せ穴で息を殺して待った。コルネリアが隣で杖を握り、バルガが袋の口で槍を伏せている。マルトは丘の上から南の野を見渡していた。
昼を過ぎた頃、マルトの合図が来た。鴉が動いた。
ガディウスの軽騎が、囮の糧へ向けて進んでいる。だが真っ直ぐには来ない。糧の手前で足を止め、しばらく様子を窺った。狩人は餌を疑っていた。やがて軽騎は二手に分かれた。一手が囮の糧へ、もう一手が大きく北へ回り込み始めた。餌の裏を取りに動いたのだ。ザインの読み通りだった。回り込む軽騎が林の陰を伝い、丘の陰を縫う。そして――窪地へその鼻先を差し入れた。
「来た」
ザインの胸が冷たく張り詰めた。狩人が袋の口へ歩み入る。あと数歩。先頭の鴉が窪地の奥へ進み、後続が続く。隊列がすっかり窪地に呑まれた、その瞬間だった。
「コルネリア」
「うん」
蒼い焔が窪地の出口で爆ぜた。退路を炎の壁が断った。同時にバルガの槍隊が袋の口へ立ちはだかる。前は炎、後ろは槍。窪地に入った鴉の軽騎は、一瞬で袋の中の鼠になった。
ガディウスの軍が、初めて慌てた。馬が炎に怯えて棹立ちになり、隊列が乱れる。狩る側だったはずの鴉が狩られる側へ転げ落ちた。ザインは伏せ穴から立ち上がり、槍を構えた。
「囲め。逃がすな。だが、降る者は討つな」
ザインの声が窪地に響いた。隊が一斉に立ち上がり、狭い窪地で軽騎を囲い込む。馬は密集した槍を嫌い、思うように動けない。地の利はすべてこちらにあった。ヨナを死なせた囲みを、ザインは今そっくり逆さにして鴉へ返していた。
窪地は、軽騎には狭すぎた。野を駆けてこそ生きる軽騎は、足を止めれば歩兵の餌でしかない。馬上から振るう槍は、密集した穂先の壁に阻まれた。鴉たちは方々へ馬首を返そうとした。だがどちらを向いても、炎か槍が待っていた。狩人の戦いは、いつも開けた野で行われてきた。獲物を追い、奪い、逃げる。その三つが揃う野でこそ、鴉は無敵だった。だがザインは、その三つをことごとく奪う地形へ、鴉を誘い込んだ。逃げ道のない窪地で、軽騎の速さは何の意味も持たなかった。
ザインは前へ出ながら冷えた頭で戦場を読み続けた。降る者は討つな。その命を、もう一度兵に通した。皆殺しにすれば、後に残る鴉が報復に荒れる。捕らえて降せば、糧道は静かになる。怒りに任せて斬り捨てるのは将の戦ではない。ヨナの仇を、ただの殺戮で晴らしては、あの若い兵の死がいっそう軽くなる。ザインは込み上げる激情を腹の底で押さえつけた。読みで勝つ。それが、ザインの戦い方だった。
兵たちは整然と輪を縮めた。寄せ集めだった隊が、今は一つの呼吸で動いている。喪失をくぐって固まった隊の、確かな手応えだった。鴉の軽騎が一騎また一騎と槍を捨て、馬を下りていく。袋の口はすでに完全に閉じていた。
乱れる軽騎の中で、一騎だけ落ち着いた男がいた。黒い具足の痩せた騎士。ガディウスだった。男はこの劣勢の中でなお冷えた目で活路を探していた。炎の薄い一点を見抜き、そこへ馬を向ける。だがその先にザインが立っていた。
「逃がさん。お前の狩りは、ここで終わりだ」
ガディウスの槍とザインの槍が交わった。馬上と地上。だが窪地の地形が馬の利を殺していた。ザインは馬の脚を読み、突きを払い、間合いを盗んだ。数合の打ち合いの末、ザインの槍がガディウスの手首を打ち、その得物を弾き飛ばした。男が落馬する。喉元にザインの穂先が突きつけられた。
窪地が、静まり返った。
頭上に、昼の月が二つ、白く浮いていた。大小ふたつの蒼い影が、袋に落ちた狩人と、それを討ち取った将を、静かに見下ろしている。
ザインは穂先をガディウスの喉に当てたまま、南の野を一瞬だけ思った。あの若い兵の死が、今、報われようとしていた。この穂先を一寸沈めれば、ヨナの仇は晴れる。兵たちもそれを望んでいた。怒りの吐息が窪地の輪のあちこちから立ち上がっていた。
だが、ザインの手はそこで止まっていた。狩人を地に伏せた今、この男を殺すのは戦ではなく、ただの私怨だった。私怨で槍を振るう将に、ヨナは命を預けたのではない。ザインは深く息を吸い、穂先の震えを鎮めた。




