第103話 離れない
本隊は囲みを抜けた。
ザインは先頭で北へ走り続けた。痩せた兵がわずかな糧を腹に、必死で足を動かす。背後の喊声が少しずつ遠ざかっていく。バルガの殿が囲みの口を塞ぎきっていた。十人の古参が刃の壁を立て、押し寄せる軽騎を堰き止めている。その壁があるかぎり本隊は呑まれない。ザインは振り返りたい衝動を何度も呑み込んだ。今は走ること。本隊を生かすこと。それが先頭の将の務めだった。後ろを気にして足を緩めれば、隊全体が止まる。止まれば殿の犠牲が無駄になる。前だけを見て走るしかなかった。それでも後ろへ残した者たちのことが、ザインの胸を焼き続けていた。
味方の前哨陣が見えてきた。北の丘に帝国の旗が立っている。あと一息で、囲みの届かぬ場所へ入れる。ザインは兵を励まし、最後の力を絞らせた。本隊が、旗の下へ転がり込む。追ってきた軽騎は陣の弓に阻まれて退いた。生き延びた。少なくとも、本隊は。
ザインはすぐに陣の縁へ走り、南を見た。
囲みの口でバルガの殿がまだ戦っていた。十人が、倍する軽騎を相手に塊を保っている。だが数は刻一刻と削られていく。古参の一人が落ち、また一人が膝をつく。ザインの胸が締めつけられた。あの中に、ヨナがいる。倒れた兵を拾いに走った、あの若い兵が。
「コルネリア、届くか」
「遠い。でも、撃つ」
コルネリアが杖を掲げた。蒼い焔が宙を裂き、殿に群がる軽騎の只中で弾けた。馬が散り囲みの圧がわずかに緩む。バルガがその隙を逃さず殿を退かせ始めた。塊が、囲みの口から後退する。一人、また一人と、軽騎の網をくぐって北へ走り出す。
ザインは目を凝らした。ヨナを探した。
退いてくる兵の中に、バルガがいた。肩から血を流し、一人の若い兵を背負っていた。落馬して倒れた、あの兵だった。ヨナが拾おうとした兵だ。だが――ヨナの姿がない。
「バルガ。ヨナは。ヨナはどこだ」
ザインは走り寄り、バルガの腕を掴んだ。バルガは荒く息をつきザインを見た。その目に滲んでいたのは、長い戦場で幾度も見てきたあの色だった。古参が、若い死を見送った時の目だった。
「あいつは……この男を背負って走れと、俺に押しつけた。自分はしんがりに残って槍で道を抑えた。最後まで隣の兵を離さなかった。お前の教えを、守りきった」
ザインの足が止まった。
「俺が背負って退く時、あいつはまだ立って槍を構えてた。囲みの口で、たった一人で。振り向いた時には、もう……」
バルガの声が途切れた。それ以上は語れなかった。語る必要もなかった。
ザインは南を見た。退いてくる兵の最後尾に、ヨナの姿はなかった。囲みの口はもう鴉の軽騎に塗り潰されていた。あの若い兵がたった一人で抑えた口は、彼が倒れたあとに閉じていた。その口を抑えた数瞬が、本隊を生かした。ヨナの槍が、百の命をこの世に繋ぎとめた。痩せた若い兵の、たった一本の槍が。
風が枯れ草を撫でた。ザインは何も言えなかった。背負われてきた兵が地に下ろされて泣いていた。自分を助けるために、ヨナが残ったのだと知ったのだ。その嗚咽だけが、静まった陣に低く響いた。誰も、慰めの言葉を持たなかった。古参のバルガでさえ、ただ拳を握りしめていた。
頭上に、二つの月が、昼の空に白く凍えていた。大小ふたつの蒼い影が、生き延びた者たちと、南の野に残された一人の若い兵を、等しく見下ろしている。
離れません――その声が、ザインの耳の奥でこだましていた。隣の兵から離れるな。その掟を、ザインが教えた。そしてその掟が若い兵を、戦場に縫いとめた。生かすための掟が、一人の兵を死なせた。ザインの読みは本隊を救った。だが救いきれなかった一人が、南の野に残った。将の天秤は、確かに多くを生かした。その代わりに、一つの若い命を払わせた。
ザインは南の野へ向かって立ち尽くしていた。胸の奥に、これまで知らなかった種類の痛みが広がっていく。一兵卒の頃、隣で仲間が死んだ時とは違う。あれは、避けようのない死だった。だがヨナの死は違う。自分が掟を教え、自分が殿を残す手を選び、自分がヨナを止めきれなかった。すべての糸が、将である自分の手から伸びていた。守るための判断が、守れなかった結果を生んだ。それが、将の重みだった。




