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第102話 殿の名

 刃の塊が、北の囲みをこじ開けた。


 ザインの槍が道を断ち、ガロとバルガが左右を固める。先頭が裂け目を抜けた。だが塊の後ろはまだ囲みの中に取り残されている。締まろうとする輪が隊の尻尾に食らいついていた。このまま全隊を引き抜こうとすれば、後ろから順に呑まれる。先に抜けた者まで巻き込まれる。


 軽騎は、群れた歩兵を恐れる。だが千切れて伸びた列は、格好の獲物だった。鴉はそれを知り尽くしている。だから隊を伸ばさせ、伸びた尻尾から食らおうとする。輪の締まり方には、明らかな狙いがあった。歩兵を一本の細い列に引き伸ばし、後ろから順に喰い千切る。その狙いを断つには、列を断ち切り、尻尾を切り離すしかない。切られた尻尾は、本体を逃がすための盾になる。


 ザインは一瞬で見切った。塊をふたつに分ける。先に抜けた本隊は北の味方陣へ走らせ、後ろのひと握りが囲みの口で踏みとどまる。その口を塞いでいる間に本隊は囲みの届かぬ所まで逃げ切れる。


 だが口を塞ぐ者は最後に退く。最後に退く者は生きて戻れる見込みが薄い。


 ザインの喉が一瞬詰まった。これまでザインは誰も死地に置かなかった。読み勝つことで、その選択そのものを避けてきた。前線の分隊長だった頃は、己の槍で守れる範囲だけを守ればよかった。だが将は違う。隊を生かすために、隊の一部を切り捨てる手を、自ら下さねばならない。何人かを残して、その何人かを失う覚悟で、残りを生かす。それが将の天秤だった。重さの種類が、まるで違った。


 誰かを残さねば全員が死ぬ。残せば、その者を失うかもしれない。将になって初めて、ザインはその冷たい天秤の前に立たされた。任官の日に感じた辞令の重さは、こういう瞬間のためにあった。薄い紙一枚の徽章が、今、人の生き死にを選ぶ手に変わっている。


「殿は、俺が引く」


 ザインがそう言いかけた時、バルガが前へ出た。


「お前が残ってどうする。本隊を導けるのは、お前だけだ。殿は古参の仕事だ。俺が引く」


「バルガ――」


「お前に拾われてから、ずっと考えてた。古い兵が若い将を生かす。それが筋だってな。心配するな。俺はしぶとい」


 バルガは不敵に笑った。長い戦場を生き抜いてきた古参の顔だった。ザインは唇を噛んだ。だが迷う猶予はなかった。輪は刻一刻と締まっていく。


「……分かった。お前と、足の確かな十人。口を塞いだら、必ず退け。無理を張るな。それは命令だ」


「承知」


 ザインは殿の十人を素早く選んだ。冷えた頭で、最も生き延びる見込みの高い者を残す。それが残された者への、せめてもの責だった。情で選べば、かえって多くを死なせる。心を凍らせて駒を置く。その非情さもまた、将に課された務めだった。本隊が動き出す。ザインは先頭で北へ道を開いた。背後でバルガたちが囲みの口へ向き直り、刃の壁を築いた。


 その時だった。本隊の中にいたはずのヨナが、列を割って後ろへ駆け戻ろうとしていた。囲みの際で、味方の一人が落馬の巻き添えで倒れ、立てずにいた。ヨナはその兵を引き起こそうと殿の側へ走っていく。


「ヨナ、戻れ。本隊だ」


 ザインの声は、戦塵に呑まれた。ヨナは振り返り、必死の顔で叫んだ。


「離れません。隣の兵から、離れるなって、少尉が言った。あいつを置いていけない」


 その言葉が、ザインの胸を刺した。自分が教えた掟だった。隣を離れるな。離れた者から死ぬ。その掟を、若い兵は誰より固く守ろうとしている。守ろうとして、最も危うい場所へ走っていく。


 ザインは引き返そうとした。だが本隊の流れがそれを許さなかった。先頭の将が足を止めれば、隊全体が崩れる。一人を拾いに戻れば、百が崩れる。それもまた、将の天秤だった。ザインは引き裂かれた。前を導く責と、後ろへ走った若い兵と。どちらも捨てられず、どちらかを選ばねばならない。


「バルガ、ヨナを頼む。必ず連れて退け」


 ザインは喉も裂けよと叫んだ。バルガが片手を挙げ応えた。その姿が戦塵の向こうに霞んでいく。


 頭上に、昼の月が二つ、白く凍えていた。大小ふたつの蒼い影が、二つに裂かれた隊と、後ろへ駆けた若い兵を、無慈悲に見下ろしている。


 ザインは前へ走った。走りながら胸の奥で祈っていた。どうか、間に合ってくれ。あの掟が、あの若い兵を、殺さないでくれ――と。

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