第101話 閉じる輪
夜明けとともに、ザインの隊は丘陵へ向けて前進した。
命令には従う。だが飛び込みはしない。ザインは隊を浅い沢の手前で止めた。前進の形を取りながらガディウスの出方を窺う。痩せた兵を餌に見せかけ罠の主が罠に近づくのを待つ。狩人を狩る構えだった。
半日、何も起きなかった。野は静まり風だけが枯れ草を撫でていた。だがザインはその静けさを信じなかった。鴉が静かな時ほど、空には影が満ちている。マルトを四方へ放ち地平の塵を読ませた。
昼を過ぎた頃、マルトが青ざめて駆け戻った。
「少尉。塵が、四方から。北、東、西。三方から軽騎が回り込んでやす。数は、こっちの倍を超える」
ザインの背に冷たいものが走った。読みは、半ば外れた。ガディウスは沢の罠を嫌って迂回するのではなく、沢ごと隊を押し包む大きな手を打ってきた。一点で誘うザインの構えを、より大きな輪で呑み込もうとしている。狩人は、餌の小ささすら見抜いていた。
「囲む気だ。それもこちらが読む前提で、その上を行く輪を描いてきた」
バルガの顔がこわばった。
「倍の数で囲まれたら、痩せた隊じゃ持たん。退くか」
「退く。だが今すぐは退けない。背を見せれば軽騎に追われて野で狩られる。退くにも段取りが要る」
ザインは素早く地形を読み直した。三方が塞がれ、残る南が開いている。だがその南こそ、敵が空けておいた道だった。逃げ込めば追い立てられ、好きな場所で討たれる。鴉の常套だった。誘いの道へは乗れない。ならば残る道は一つ。来た北の道を、囲みの薄い一点を破って退くしかない。
「輪は、まだ閉じきっていない。北の囲みが、一番遅れている。そこを破る。今のうちだ」
ザインは隊を素早くまとめた。荷を捨て、傷ついた者を中に庇い槍を外へ向けた塊を作る。ばらけて逃げれば各個に狩られる。塊のまま刃の壁を保って退く。それが軽騎に囲まれた歩兵の唯一の生き筋だった。
「離れるな。塊を崩すな。隣の兵から離れた者から死ぬ。何があっても、隣を離れるな」
ザインの声が隊を貫いた。ヨナが、その言葉に大きく頷いた。隣から離れない。それは、ザインが最初に教えた、たった一つの掟だった。若い兵はそれを、誰より固く胸に刻んでいた。
隊が動き出した。北の囲みへ向け、刃の塊が押し進む。塵の向こうで鴉の角笛が鳴り響いた。輪がこちらの動きに合わせて締まり始める。ガディウスは、ザインが北を破ると読んでいた。読みの上を、また行かれていた。
北の囲みに取りついた軽騎が、塊めがけて矢を浴びせてきた。だが密集した盾と槍が、その大半を弾いた。ザインは塊の先端で槍を振るい、立ちはだかる騎兵を一騎また一騎と払い落とした。馬は、密集した槍の壁を嫌う。突っ込めば貫かれるのを、馬自身が本能で知っている。ザインはその性を使った。逃げるのではなく、刃の壁を押し立てて、敵の馬を怯ませながら前へ進む。退却でありながら、攻めの形を崩さない。それが歩兵が騎兵の輪を破る、ただ一つの理だった。
後方でコルネリアが杖を掲げた。蒼い焔が宙を奔り、追いすがる軽騎の只中で弾けた。馬がいななき、隊列が乱れる。炎は敵を焼くためだけのものではなかった。締まろうとする輪を、一瞬だけこじ開けるための楔だった。その隙を、ザインは見逃さなかった。
「今だ。押し抜けろ。塊を保ったまま、北へ」
隊が、開いた裂け目へ雪崩れ込んだ。だが裂け目は狭く、輪はすぐにまた締まろうとした。塊の後ろが、囲みに食い込まれ始める。先頭が抜けても、殿が呑まれれば隊は分断される。ザインの頭の中で冷たい算盤がはじけた。このままでは塊の尻尾が囲みに噛みちぎられる。誰かが殿に踏みとどまり、囲みを押し返さねば、後ろの兵から順に呑まれていく。だが踏みとどまる者は、生きて戻れる見込みが薄い。それが、囲みを破る戦の冷たい理だった。
頭上に、昼の月が二つ、薄く浮いていた。大小ふたつの蒼い影が、囲みの中で塊となった隊と、その先頭で道を断つ将を見下ろしている。
北の囲みが、目の前に迫った。ここを破れば生きる。破れなければ、全員がこの野で果てる。
殿を、誰かが引かねばならない。ザインの胸を、その冷たい事実がよぎった。
ザインは槍を握り直し、痩せた隊の先頭で閉じかけた輪の一点へ突っ込んだ。




