第100話 前へ出よ
糧が細る中、後方から一通の命令が届いた。
ザインの隊に、前進を命じる文だった。糧道の南、丘陵を越えた先にあるという鴉の根城を叩け――そう記されていた。差出は南方軍の司令部。だが文の端に、見覚えのある花押が添えられていた。ボードと同じ、ヴェイル派の士官の手だった。ガレウスの目を経ない、後方からの直の筋だった。
「妙だ」
ザインは文を二度読み返した。
「糧が細った今、こちらに前進させる。しかも根城があるという証はどこにもない。捕らえた鴉も、根城の場所までは知らなかった。あるかどうかも怪しい城を飢えた兵で攻めに行けという」
バルガが眉根を寄せた。
「罠か。味方の命令の皮を被った、罠だな」
「皮を被っているから厄介だ。命令を蹴れば軍規違反になる。従えば痩せた兵を丘の向こうへ晒す。後方はどちらに転んでも俺を削れる」
ザインは地図を睨んだ。丘陵の南は、開けた野が続く。糧道から離れ、味方の支えも届かない。そこへ痩せた隊で踏み込めば、ガディウスの軽騎にとっては絶好の獲物だった。後方の妨害と、敵の狩りが、ぴたりと噛み合っている。偶然ではない。
「ガディウスは、こちらが前へ出るのを待っている。後方は、俺を前へ出させようとしている。別々の手に見えて、結びついている」
ガロが顔をしかめた。
「味方が、敵の罠にこっちを追い込んでるってことか」
「結果としては、そうなる。後方の男が、それを承知でやっているかは分からん。だが承知でなくとも、ガディウスにとっては願ったりだ」
ザインは長く考え込んだ。命令を真っ向から蹴る手はない。だが、命じられた通りに飛び込む気もない。命令の文言を、隅々まで読み返す。前進せよ、とは書いてある。だが、いつ、どこまで、とは細かく縛っていない。後方の筆は、ザインを罠に追い込むことばかりに気を取られ、命令の縛りを甘くしていた。
「縛りが緩い。ここに、抜け道がある」
ザインの目に、冷えた光が戻った。
「命令には従う。前へは出る。だが、飛び込みはしない。前進の形を取りながら、丘の手前で足を止め、こちらから誘う。ガディウスが獲物を待つなら、その獲物を、罠の餌に変える」
カイルが息を呑んだ。
「命令を守りながら、罠を逆に使うのですか」
「ああ。後方の手も、敵の手も、両方まとめて読み切る。それしか、痩せた隊が生き残る道はない」
その夜ザインは慎重に段取りを組んだ。どこまで前進するか。どこで止まるか。誘いの餌に何を使い退き道をどこに残すか。一手でも誤れば飢えた隊が丘の向こうで全滅する。これまでの読みとは重さが違った。背負うのは百に満たぬとはいえ、すべて自分が顔と名を知る兵の命だった。
丘陵の南には、ひと筋の浅い沢が東西に走っていた。ザインはそこに目をつけた。沢は人の腰ほどの深さで、馬の足を鈍らせる。前進した隊がこの沢を背に構えれば、軽騎の突撃は勢いを殺がれる。逆にこちらから打って出るときは、沢が踏み台になる。攻めにも退きにも使える地形だった。ガディウスがこの沢をどう見るか。それが読みの分かれ目だった。狩人の将なら、沢を嫌って迂回するか。あるいは沢ごと押し包む大きな手を打つか。
ザインは沢の図を指でなぞり続けた。地形は嘘をつかない。人の欲や驕りで形を変えたりはしない。だから地形を起点に読めば、敵がどれほど狡くても、打てる手の幅は絞れる。前線で何度も命を拾ってきた、ザインの背骨のような流儀だった。後方の罠も、敵の狩りも、最後はこの一筋の沢の上で交わる。ザインはそう見切った。
兵たちは痩せた頬で眠っていた。飢えを抱えたまま、それでも将の命に従って丘へ向かおうとしている。その寝顔の一つひとつを、ザインは天幕の隙間から見やった。この中の誰を、明日失うことになるのか。問うても答えはない。ただ、一人でも多く生かす。それだけを胸に刻んだ。
頭上に、二つの月が冷たく冴えていた。大小ふたつの蒼い光が、前と後ろの罠に挟まれた将と、痩せてなお従う兵たちを照らしている。
ザインは地図の上で駒を並べ続けた。だがどれだけ読んでも、この一戦には嫌な手触りが残った。読みが当たっても無傷では済まぬ。そんな戦の匂いだった。これまでの戦は、読み勝てば兵を守り切れた。だが今度は違う。前と後ろから挟まれた以上、どこかで必ず代償を払う。その代償が誰の命になるのか。それだけが、まだ見えなかった。
将としての最初の正念場が、丘の向こうで口を開けて待っていた。




