表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
100/111

第100話 前へ出よ

 糧が細る中、後方から一通の命令が届いた。


 ザインの隊に、前進を命じる文だった。糧道の南、丘陵を越えた先にあるという鴉の根城を叩け――そう記されていた。差出は南方軍の司令部。だが文の端に、見覚えのある花押が添えられていた。ボードと同じ、ヴェイル派の士官の手だった。ガレウスの目を経ない、後方からの直の筋だった。


「妙だ」


 ザインは文を二度読み返した。


「糧が細った今、こちらに前進させる。しかも根城があるという証はどこにもない。捕らえた鴉も、根城の場所までは知らなかった。あるかどうかも怪しい城を飢えた兵で攻めに行けという」


 バルガが眉根を寄せた。


「罠か。味方の命令の皮を被った、罠だな」


「皮を被っているから厄介だ。命令を蹴れば軍規違反になる。従えば痩せた兵を丘の向こうへ晒す。後方はどちらに転んでも俺を削れる」


 ザインは地図を睨んだ。丘陵の南は、開けた野が続く。糧道から離れ、味方の支えも届かない。そこへ痩せた隊で踏み込めば、ガディウスの軽騎にとっては絶好の獲物だった。後方の妨害と、敵の狩りが、ぴたりと噛み合っている。偶然ではない。


「ガディウスは、こちらが前へ出るのを待っている。後方は、俺を前へ出させようとしている。別々の手に見えて、結びついている」


 ガロが顔をしかめた。


「味方が、敵の罠にこっちを追い込んでるってことか」


「結果としては、そうなる。後方の男が、それを承知でやっているかは分からん。だが承知でなくとも、ガディウスにとっては願ったりだ」


 ザインは長く考え込んだ。命令を真っ向から蹴る手はない。だが、命じられた通りに飛び込む気もない。命令の文言を、隅々まで読み返す。前進せよ、とは書いてある。だが、いつ、どこまで、とは細かく縛っていない。後方の筆は、ザインを罠に追い込むことばかりに気を取られ、命令の縛りを甘くしていた。


「縛りが緩い。ここに、抜け道がある」


 ザインの目に、冷えた光が戻った。


「命令には従う。前へは出る。だが、飛び込みはしない。前進の形を取りながら、丘の手前で足を止め、こちらから誘う。ガディウスが獲物を待つなら、その獲物を、罠の餌に変える」


 カイルが息を呑んだ。


「命令を守りながら、罠を逆に使うのですか」


「ああ。後方の手も、敵の手も、両方まとめて読み切る。それしか、痩せた隊が生き残る道はない」


 その夜ザインは慎重に段取りを組んだ。どこまで前進するか。どこで止まるか。誘いの餌に何を使い退き道をどこに残すか。一手でも誤れば飢えた隊が丘の向こうで全滅する。これまでの読みとは重さが違った。背負うのは百に満たぬとはいえ、すべて自分が顔と名を知る兵の命だった。


 丘陵の南には、ひと筋の浅い沢が東西に走っていた。ザインはそこに目をつけた。沢は人の腰ほどの深さで、馬の足を鈍らせる。前進した隊がこの沢を背に構えれば、軽騎の突撃は勢いを殺がれる。逆にこちらから打って出るときは、沢が踏み台になる。攻めにも退きにも使える地形だった。ガディウスがこの沢をどう見るか。それが読みの分かれ目だった。狩人の将なら、沢を嫌って迂回するか。あるいは沢ごと押し包む大きな手を打つか。


 ザインは沢の図を指でなぞり続けた。地形は嘘をつかない。人の欲や驕りで形を変えたりはしない。だから地形を起点に読めば、敵がどれほど狡くても、打てる手の幅は絞れる。前線で何度も命を拾ってきた、ザインの背骨のような流儀だった。後方の罠も、敵の狩りも、最後はこの一筋の沢の上で交わる。ザインはそう見切った。


 兵たちは痩せた頬で眠っていた。飢えを抱えたまま、それでも将の命に従って丘へ向かおうとしている。その寝顔の一つひとつを、ザインは天幕の隙間から見やった。この中の誰を、明日失うことになるのか。問うても答えはない。ただ、一人でも多く生かす。それだけを胸に刻んだ。


 頭上に、二つの月が冷たく冴えていた。大小ふたつの蒼い光が、前と後ろの罠に挟まれた将と、痩せてなお従う兵たちを照らしている。


 ザインは地図の上で駒を並べ続けた。だがどれだけ読んでも、この一戦には嫌な手触りが残った。読みが当たっても無傷では済まぬ。そんな戦の匂いだった。これまでの戦は、読み勝てば兵を守り切れた。だが今度は違う。前と後ろから挟まれた以上、どこかで必ず代償を払う。その代償が誰の命になるのか。それだけが、まだ見えなかった。


 将としての最初の正念場が、丘の向こうで口を開けて待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ