闇をさまようモノ
そして、次の日。
一家四人が不審死した家屋のすぐ近くのビルで、またしても会社従業員数名が同様の不審死を遂げていた事件は、朝になって出社してきた同社の社員によって発見され、警察に通報されたが、佳津砂の描いたシナリオ通り、事件性のない事故として処理され、その旨がお昼のニュースではすでに放映されていた。
そのニュースを事務所で観ていた桧藤のところへ、佳津砂から電話があり、そのまま桧藤は現場へと出向いたのだった。
問題のビルの前まで来ると、佳津砂が待っていた。
「さすがだな」
近づくなり、桧藤が佳津砂に言った。
「でしょう? 神霊対策局は、少数精鋭の組織だから、対応が速いのよ。それに、知ってのとおり、影響力の大きい人物とのパイプも太いわ。警察に上から圧力をかけるくらい、なんでもないの」
「なるほど、敵に回したくはないな。ただ、あれだけの人間が不審な死を遂げていて、事故死でした、では、遺族が納得しないだろうな」
「遺族の方にはね……気の毒だけど、どのみち、警察が捜査したところで、犯人が挙がるわけじゃないのよ。人間の仕業ではないんだから」
「そうだな。ある意味、事故、と言えるかもしれないな」
桧藤は、ちょっと複雑な表情を浮かべてから、
「では、行くとするか」
佳津砂を促して、昨日のビルへ入って行った。
中は、遺体も片づけられ、昼間の誰もいない、ごく普通のオフィスであった。ビル内を、一階から二階へと歩きながら、桧藤がつぶやいた。
「昨日、戦ったときに、ヤツのはなつ邪悪極まりない霊波動は把握した。だから、近くにいれば、俺には分かるはずなのだが」
「どうなの、まだこの中にいるの?」
「それが、全くヤツの気配が感じられない。ここにはいないとしか、思えない……」
「そんな……」
佳津砂が不安そうな表情を浮かべる。
二人は三階へ上がった。そこも、特にこれといって変わった点は見つからなかった。昨夜、桧藤が流した血の跡が、廊下についているのだけは少々無気味であったが、警察がこれを見てそれでもなお事故と言い張るのには、少々無理があるようにも思えた。
「やっぱり、どこにもいないぞ」
桧藤が、三階を一通り見て回ってから、言った。
「もう、どこか別の場所へ移動してしまったのかしら?」
「移動したとしても……」
桧藤は、スマートフォンを取り出すと、現在地の周辺の地図を表示させた。そこに右手をかざして、いつものダウジングを始める。
「ちょっと画面が小さくてやりづらいんだが、一度、霊波動を把握した相手なら、この地図を使ったダウジングで居所をすぐに見つけ出すことができる。だが……」
ひとしきり、周辺の地図をあちこち移動させたり、表示範囲を広げたりして右手をかざし続けていたが、
「どこにも反応が出ない」
と言った。
「どういうことなの?」
「さあな……おそらく、ヤツは昼間の間は、自分の気配を完全に消すことができるんだろう。どこにいるか、見つけ出すことができないように」
「あなたのところの、あの助手のスーリンさんでも、見つけ出せないの?」
「スーリンか……一応、聞いてみるか」
そう言うと、いきなりスマートフォンで電話を掛けた。相手はスーリンだった。
「スーリンか。今、どこにいる」
「はいは~い、センセイの真上ですにゃ」
ちょうど、桧藤たちがいるビルの上空を、一羽の大きなカラスが悠然と旋回しているところだった。それが、スーリンだった。どうも桧藤の掛けた電話は、スーリンの意識に直接届いているようだった。
「どうだ、スーリン。昨日のヤツは、この辺にいそうか?」
少し間があって、スーリンからの返答がかえってきた。
「どこにも、いませんです。この周辺のどこからも、昨日のヤツがいる気配は感じられませんですにゃ」
「そうか、ありがとう」
電話を切って、桧藤は佳津砂に向き直った。
「ダメだな。見つかりそうもない」
「どうしましょう……まさか、川の向こうの住宅街にまで移動していたら、それこそ何人、死ぬことになるか……」
「まあ、まだそうと決まったわけじゃない。考えてみろ、あの一家四人が突然死した家から、このビルまでは直線距離にして五百メートルほどしか離れていない。ヤツの移動距離は、案外とその程度なのかもしれないぞ。今は、完全に気配を消してどこかに潜伏しているが、夜になれば、またその姿を現すだろう。夜になって、ヤツが姿を現したときに、ケリをつけるしかないんじゃないか」
「でも、夜になったらまた停電してしまって、そもそも倒す術がないじゃない?」
「さあ、そこだ」
桧藤は、何かを思いついたように口元に不敵な笑みを浮かべた。
「まずは、佳津砂。このビルの隣りには、工場が何軒か続いていたな」
「ええ、そうね?」
佳津砂は、桧藤が何を言い出すのか? といぶかしむように答えた。
「とりあえず、そこの従業員には、暗くなる前までに全員避難してもらって、この周辺に誰も人が入ってこないようにできるか?」
「ええ、それはできると思うわ。警察でも消防でも、どこでもすぐに通達を出して、危険な事故が起きる可能性があるとかなんとか、どうとでも理由はでっちあげられると思う」
「じゃあ、すぐにそれをやってくれ。それから、工場から退去する際は、どの部屋も電気をつけたままにしておいてほしいんだ」
「電気をつけたまま……分かったわ。でも、どっちにしろ停電させられちゃうと思うけど?」
「いいんだ。それから、この周辺にある工場の見取り図を用意してほしい」
「いいけど……それで、どうするの?」
「詳しいことは、準備ができ次第、俺の事務所で話す。俺はこれから、行くところがあるんでな」
桧藤は、そのまま帰ろうとした。
「えっ、どこ行くの?」
「ちょっと、手に入れたいものがあるんだ」
「手に入れたいもの?」
佳津砂は、何がなんだか分からない様子で取り残されそうになったが、一人でこんなところに残されるのはちょっと薄気味が悪かったので、慌てて桧藤の後を追っていった。
*
辺りに、夕闇が迫ってきていた。
すでに東の空は闇に染まり、西の地平線だけがまだうっすらと赤とも紫ともいえない微妙な色合いの光をたたえている。それももうすぐ、夜の闇に完全に飲み込まれてしまうだろう。
桧藤とスーリン、それに佳津砂の三人は、例の事件現場となったビルを臨む土手で、暗くなるのを待っていた。あらかじめ、佳津砂の手配によって、周辺の工場からは従業員全員が退避している。しかし、明かりだけは全ての部屋に入れられていた。といっても、もとが工場や会社の社屋であるから、周りをこうこうと照らすほどではなく、工場や事務所の窓から明かりが外に漏れている、という程度でしかなかった。周囲は田畑や空き地、資材置場などしかないので、たまに灯る街灯のほかには照明とてなく、日が暮れるとやはり辺りは暗く、誰かが潜んでいても分からないくらいであった。
そして、西の地平線をわずかに染めていた光も完全に没して、夜が訪れた。
三人は、土手の上で、辛抱強く待った。必ず何かが起きるはず、という確信と同時に、何も起こらなかったら、どうしよう? という不安をも抱えながら。もっとも、スーリンだけは、相変わらずのん気そうに横に控えているだけだったのだが。
誰も言葉を発しない、その張り詰めた時間。まるで、言葉を発したら、その瞬間に自分たちの計画がすべて水の泡になってしまうのではないか、と懸念してでもいるかのようであった。
そうやって、どれくらいの時間が経っただろうか。
突然、目の前に広がるいくつかの工場に灯る明かりが、いっせいに消えた。
その周辺に立っている街頭の明かりも、消えている。
念のため、桧藤と佳津砂が携帯電話をチェックすると、やはり電源が落ちている。
「来たな」
「ええ、来たわね。あなたの読みどおりだったわね」
「ああ。ヤツはおそらく、月明かりの下では、屋外へ出られないんだろう、と踏んだんだ。月が隠れたときしか、外を移動できない。だから、そう遠くへは行っていないハズ、と読んだのが、当たったようだ。スーリン」
「はい、センセイ」
「ヤツは、どこの工場にいる?」
「はい、あそこの、丸い缶がいっぱい積んであるところに、いますにゃ」
「あそこは、製缶工場になっていたな。やはり、昨日のビルからは数百メートル程度しか離れていない。よし、じゃあ、スーリン」
「はい、センセイ」
「手はず通りに、頼むぞ」
「任せてください!」
「佳津砂は、俺に万が一のことがあったときのために、ここで待機していてくれ」
「分かったわ。気を付けてね」
「大丈夫だ。スーリン、用意はいいか?」
「はい、センセイ」
答えたスーリンは、何か道具が入ったリュックを背負っていた。
「行くぞっ!」
「はいっ!」
言うなり、二人は別々に、緊張した面持ちで立っている佳津砂を後に残して、製缶工場の方へ走っていった。
*
明かりが消え、暗闇の中に黒々とたたずむ工場。そこへ近づいていく桧藤。スーリンはどこへ行ったのか、桧藤と行動をともにしてはいなかった。正面の門から敷地内に入ると、素早く近くの工場内部へと滑り込んだ。入り口のカギは、佳津砂の手配によりあらかじめ開けてあったのだ。
中に入ると、月明かりも星明りもない真っ暗闇である。桧藤は、右眼の魔眼を開くと、あたかも暗視モードに切り替わったかのように工場内部の様子を探り始めた。工場だけあって天井が非常に高く、入って右側の壁際には円筒形のタンクがいくつも並んでいて、そこから細いパイプがたくさん伸びていた。左側には、素人にはそれが何なのかよく分からない工具だの部品だの、雑多なものが収納された棚があり、その棚の前にも金属製のカートや工具箱などが雑然と置かれている。
桧藤は、油断なく辺りに気を配りながら、その中央通路をゆっくりと奥へ進んで行った。そして、一人でつぶやいた。
「……いるな。ヤツのはなつ邪悪な波動がびしびし伝わってくる。気配を消す必要もないらしい」
なおも用心深く、足音を忍ばせて進んでいくと。
右のタンクの後ろで、何かが動く気配を感じた。
「……!」
桧藤がそちらを向くと、真っ黒いモノがタンクの後ろから飛び出してきて、桧藤に襲い掛かった。
「はっ!」
素早くそれをかわし、振り返って身構える桧藤。中央通路に、黒々としたアメーバ状の、不定形のモノが現れていた。それは通路いっぱいに膨れ上がり、天井に届くかと思うほどの大きさになると、雪崩のように桧藤の方へ崩れかかってきた。飛びすさって避けるが、真っ黒い雪崩はどんどんこちらへ押し寄せてこようとしている。桧藤は走って、さらに奥へと逃げた。
後ろからは、黒々とした山のような、おぞましい塊が迫ってくる。桧藤は猛スピードで中央通路を走り抜け、奥のゲートをくぐった。ゲートの先もまた工場になっていて、そこには、おそらく工作機械なのであろう、これまた素人目には何をする機械なのかその用途が不明な、大きくて無骨な機械がいくつもところ狭しと並んでいた。桧藤はそれらの間を縫うようにして、人間としては尋常ではない速さで走り抜けた。後ろから追いすがる真っ黒い流動体は、その体からいくつもの触腕とでも言うべきものを飛び出させて、機械と機械の間に滑り込ませ、桧藤の先回りをしようとした。
桧藤の右側から回り込んだ触腕が、桧藤よりもわずかに速く前に出て、機械の間から桧藤の前へ飛び出してきた。
桧藤は一瞬にして右手に青白くゆらめく炎のような剣を出現させると、自分の行く手に立ちふさがった真っ黒い触腕を一刀のもとに叩き切った。続けて後ろからも、左からも、触腕が伸びてくるのを、右に左に剣を振るって次々に切り伏せる。黒い触腕は、桧藤の周りからいくつもいくつも、伸びてきた。いつの間にか、周囲を囲まれてしまっていたようだ。伸びてくる触腕を片っ端から斬り倒すものの、どんどん黒い流動体が包囲網を狭めてきていて、まるで黒い壁のようになって桧藤の周りに立ち塞がり、桧藤を押し包んでしまうかに思われた。
「でぃぁあああああああ!」
桧藤は気合いを込めて、体をスクリューのようにくるくると高速回転させて右手の剣を扇風機の羽さながらに回転させ、真っ黒い壁に突撃してそこに大穴を開け、包囲網の向こうへと脱出した。
そこで真っ黒い流動体はいったん、一箇所にまとまって攻撃の手を休めた。
桧藤からほんの数メートルほどさきに、黒々とわだかまる、小山のような流動状の塊。その黒い塊と、桧藤がほんの一瞬だけ、睨み合った。すると、その黒々とした小山が、ふいに今度は縮み始め、人型をとりはじめた。昨夜も遭遇した、漆黒の肌と、赤く不吉に光る三つの目、それに凶々しいコウモリのような翼をもつ怪物の姿だった。
桧藤は、同じ手はくうまい、と油断なく剣先を下向きに構えた。闇の怪物は、そのまま目にも留まらぬ猛スピードで桧藤の方へ突っ込んできた。
「だっ!」
桧藤は、これ以上ないくらいの素早さでもって、頭を下、足を上の逆さまの格好にハイジャンプして、怪物の突進をかわしざま、剣を下向きに床に突き立てるようにしておいて頭の下を通過する怪物をその突進してくる勢いを逆に利用して思い切り両断した。
ズバッ、と、漆黒の闇の怪物の体が、真ん中から真っ二つに切られていた。だが、暗闇の中で、二つに斬られたはずのその体が、すぐにまた元通りにくっつき始めている。
桧藤は、これはたまらん、とばかりに、剣を収めて一目散に怪物とは反対方向へ駈け出した。
怪物は、再び一つにつながると、また流動体に戻って、今度はどうも怒り狂っているような様子で、ものすごい勢いで桧藤めがけて殺到しようとした。桧藤は、すでにそのブロックを抜けて、隣りの工場に入ろうとしているところだった。そこに向けて、猛烈に暴れまくる真っ黒い流動体が雪崩や津波を思わせるような激烈な勢いで押し寄せる。そして、隣りの工場への狭い入口にぶつかって、はじけ飛んだ。桧藤はとっくに、隣りの工場内に入ってしまっていた。桧藤が振り返ると、人間一人が通れるくらいのドアから、真っ黒い流動状の物体が、もりもりとあふれ出てきて盛り上がってくるところだった。
桧藤が逃げ込んだ工場は、これまたひときわ天井が高く、大きなクレーンが設置されていて、床にはさっきと同じような大小さまざまの工作機械のようなものや、おそらく製缶の原材料となるのであろう金属のプレートなどが整然と並べられていた。その整然と碁盤の目のように並べられた機械や金属材料の間の通路を、脱兎のごとく猛然とダッシュする桧藤。黒い流動体は今や完全にこの工場内へその全身を突っ込み終えて、今度は左右の壁、天井、床のすべてにまでその体を広げて、工場全体を包み込んでしまおうとしていた。しかも、そのスピードはかなり速かった。桧藤が走り抜けるのが速いか、怪物が工場内のすべてを覆い尽くしてしまうのが速いか、ちょっとした駆けくらべが展開された。
向こうに見える出口に向けて、ものすごい勢いで走る桧藤。そして工場の中すべてを覆いつくし、その出口さえ塞いでしまおうとする黒い物体。
伸びてきた怪物の黒い流動状の体が、出口をも塞ごうとし始めたその瞬間、桧藤がわずかに速さで優って、出口に頭から滑り込んだ。桧藤の後ろで、怪物の黒い体が出入り口を塞ぐのが分かった。だが、そこでのんびりしてはいられない。すぐに立ち上がって、逃げる桧藤。そこはちょっとした短い廊下になっていて、上にのぼる階段があった。桧藤はその階段を、一度に五段くらい飛ばして駆けあがるというよりは飛び上がるようにして昇っていった。
漆黒の闇の怪物は、そのままの姿ではこの小さな通路を通るのには不向きだと判断したのか、また赤い三つ目のあの悪魔のような姿になって、こちらは飛びながら階段を上に向かった。
階段をのぼりつめると、また廊下があって、その先にドアがあった。桧藤はそのドア目がけて、全速力で走った。闇の怪物は、あの三つ目の姿の方が圧倒的に動きが素早くなるようで、みるみる桧藤に追いついてきた。怪物の手の鋭い爪が、桧藤の背中にあわや届きそうな際どいタイミングで、桧藤はドアに体当たりしつつ中へ転がり込んだ。そこは使われていない倉庫かなにかであろうか、ガランとして何もない部屋だった。その部屋の床に転がった桧藤は、素早く体勢を立て直して怪物の来る方へと向き直った。
その、一瞬。
すでに部屋の中まで追いついていた怪物の、左手の爪が、深々と桧藤の右眼に突き刺さっていた。
「ぐがががががああああああ!」
赤い三つ目の怪物の、それまで口などなかった部分に真っ赤な口が開いて、そのおぞましい、無数の細い牙が生えた赤い口から、勝ち誇ったかのような恐ろしい咆哮が漏れた。
右眼を貫かれた桧藤は、暗闇の中で立ったまま微動だにしない。怪物は勝利を確信したかのように、右手をゆっくりと上げて、さらに桧藤を貫こうと構えた。
そのときだった。
ふいに、ボン、という大きな爆発音とともに、ぱっ、と部屋全体がまばゆいばかりの強烈な閃光に包まれたのだった。閃光は一瞬だけで、すぐにまた部屋は暗闇に沈んだが、怪物にとってはそれだけで、かなり致命的なダメージを受けたようだった。
「ぎょごぅぐおごごごごぅごっ!!」
怪物の口から、この世のものとも思えないような実に奇怪でおぞましい、聞くものを狂気に陥れるかのような恐ろしい叫び声が発せられた。怪物は、桧藤の右眼に突き立てた爪を引き抜こうとしてもがいた。だが、それはいくらもがいても抜けなかった。桧藤の右眼から、異様な細い触手めいたものが何本も生え出してきて、怪物の爪をがっちりとつかんだ。そして決して、放さなかった。怪物がいくら抵抗しても、無駄であった。
暗闇の中で、右眼を貫かれたままの桧藤の口元に、にやり、と不敵な笑みが浮かんだ。
そこへさらに、さきほどと同じようなボン、という爆発音と同時に、部屋の中が強い白色光で満たされた。またしてもその光は一瞬だけで消えたが、今度のは怪物には致命傷だったようだ。
「きゅうるるるぐぎぃ……」
怪物の咆哮がさっきよりも明らかに力のないものとなり、そして突然、部屋の中の照明がぱっ、と点灯したではないか!
「電気を止める力が、失われたようだな」
右眼を貫かれたままの桧藤が、平然と言った。
明るい光の下にさらされた闇の怪物は、爪を桧藤の右眼に突き刺したまま、口から苦しげなうめき声を弱々しく漏らしながらもまだ立っていた。その体は、ぶつぶつとまるで沸騰しているかのように泡立ち始めていた。その泡立ちが収まると、今度は怪物の体は灰色へと変色していった。そして全身が漆黒から灰色へと変わり終えると、まるで灰そのもののようになってさらさら、と床に崩れ落ちていったのである。
桧藤の右眼に突き刺さっていた爪も、細かな灰となって床に落ちていった。桧藤の右眼には大きな穴が開いていたが、それはたちどころに元通りに復元された。そして、生え出ていた触手じみたものはまた引っ込んでいき、その禍々しくもおぞましい右眼は閉じられた。
桧藤は内ポケットから小瓶を取り出すと、またいつもの呪文を唱え始めた。床に落ちていた灰が、黒い煙となって小瓶に吸い寄せられていった。そのとき、階段を駆け上がってくる音に続いて廊下を走ってくる音が聞こえ、部屋の中に佳津砂が走り込んできた。黒い煙状の気体は、佳津砂の見ている前で、全部小瓶の中に吸い込まれてしまった。
「はあ、はあ、大丈夫? ヤツは、倒したの?」
その様子を見ながら、息を切らして佳津砂が尋ねた。
桧藤は、中で黒い流動状の物体がうごめく小瓶にふたをして懐にしまいながら答えた。
「ああ、おかげさまでな。スーリン、ご苦労だった」
佳津砂がふと傍らを見ると、部屋の中にはスーリンがいた。スーリンの手には、何やら見慣れない道具が握られていた。それは、シガレットケースか名刺入れのように、四角くて上にふたが開くようになったものの下部に、手で握るための柄が取り付けられたものだった。
「ねえ、この妙な道具は、何なの?」
佳津砂が尋ねた。
「マグネシウム発光器、だ」
「マグネシウム発光器?」
「そう。これは、昔、ストロボもフラッシュもない時代に、写真を撮るときに使われたものだ。マグネシウムは、空気中ではとても燃えやすく、ちょっとした火花でも一瞬で爆発的に燃えてしまう。その時、強烈な閃光を放つので、昔は写真のフラッシュとして使われていた、というわけだ」
「……なるほど、電気を使わずに、強い光を出すことができる、ってことね。あっ、そうか! あのとき、ライターの炎は消されたけど、火打石の火花は出ていたものね?」
「そうなんだ。それで、こいつなら、と思ったのさ。ただ、少々、操作方法が面倒でな。まずこの箱みたいなところの上に、適量のマグネシウムを盛って、それから後ろのゼンマイを巻き上げ、スイッチを押すと火打石が一気に擦られて大きな火花が出る。その火花でマグネシウムに引火する、という仕組みなんだが、それを、スーリンには短時間で急いで特訓してもらって、ほんの数秒の間隔で連発できるようになってもらった。ま、二発程度でくたばってくれたから、助かったが」
横で、マグネシウム発光器を持ったスーリンがにこにこしていた。
「もっと、ぶっぱなしてやりたかったですにゃ♪」
どうやら、このアナクロな年代物の遺物が気に入ってしまったようである。
*
そして、暗闇そのもののような怪物を倒し、無事に事務所に戻った桧藤たち三人であった。
桧藤は正面のデスクに座り、佳津砂はその前の腰掛に腰を下ろした。スーリンはいつものように、横に控えている。
「一時はどうなることかと思ったけど、ともあれ、あなたのおかげで事件は解決できたみたいね。ありがとう」
「礼には及ばんよ」
「今回、亡くなった被害者の方には気の毒だったけど、下手をすればもっと多くの犠牲者が出るところだった。この日本の霊的治安をあずかるわたしたちからすれば、被害の拡大を防いだあなたの功績は、本当に賞賛に値するわ。ただ、わたしがあまり活躍できなかったのは、ちょっと悔しいけどね」
「霊的治安、ねぇ……」
桧藤は、大して興味もなさそうな様子で気のない返事をしただけだった。佳津砂は、桧藤は報酬の金のことしか頭にないのかな、と考えて、
「ああ、報酬は、ちゃんとあとから振り込むから、心配しないでね」
と、すぐに付け加えた。
「とにかく、今回は協力してくれて助かったわ。感謝してるわよ、探偵さん」
桧藤はとくに何も答えず、目を閉じて椅子に深々と体をあずけているだけだった。佳津砂は、桧藤が疲れているのか、と気を回して、
「じ、じゃあ、わたしはこれで失礼するわね。スーリンさんも、お元気でね」
そう言い残して、事務所から出て行った。スーリンがそれへ、無言で一礼した。
桧藤は、少しの間、そうして椅子に座ったまま動かなかったが、つと立ち上がると、窓際へ歩いていって、窓から下の通りを見下ろした。佳津砂がビルから出て、帰っていく姿が街灯に照らされて見える。それを確認すると、
「帰ったか……」
ひとことつぶやいて、スーツの内ポケットから小瓶を取り出した。小瓶の中では、黒い流動状の怪しげな物体が、もぞもぞとうごめいている。さきほど、製缶工場で封じてきた、あの暗闇の怪物の神魂そのものであった。
桧藤はそれを左目で忌々しそうに見つめてから、ぐっ、と握りしめると、事務所の扉を開けて廊下へ出た。そして、階下へ降りる階段の方ではなく、三階へ上がる階段の方へつかつかと歩いていった。階段の下から見上げる三階は、蛍光灯ひとつ点っておらず、真っ暗だった。
桧藤は、その真っ暗闇の三階へ、階段を一段一段踏みしめるかのように、ゆっくりとのぼっていったのだった。




