連続自殺事件
駅のホームは、通勤や通学の人で溢れかえっていた。毎朝変わらない、ラッシュアワーの時間帯であった。
線路の上を、遠くから列車がホームへとなめらかに近づいてくる。
電車の到着を待つ人の群れのなかで、一人の男が何かをつぶやいた。
「ソグ・ヌルゥ……」
「は? 何か?」
すぐそばにいた年配の会社員風の男性が、何か話しかけられたかと思って聞き返した。
「ソグ・ヌルゥ……」
男は、同じ言葉をただ繰り返した。その目には、まったく生気がなく、まるで夢遊病者か何かのように、ふらふらと立っているのが、どうも普通ではなさそうだった。
「……大丈夫ですか?」
心配になって、年配の会社員が話しかけるが、反応は返ってこない。
そのうち、電車がホームへと滑り込んできた。
と思った次の瞬間、夢遊病者のようだった男が、突然ぱっ、とホームから線路へ飛び込んだのだった。
あっ、と思う間もなかった。急ブレーキをかけても、電車はすぐに止まれるものではない。電車のすぐ前に飛び降りた男は、無残にも車輪に轢断されて、まるでボロ雑巾のようにズタズタにされてしまっていた。
「きゃああああああっ!」
「わあああああああっ!」
朝のホームに、むごたらしい死亡事故現場を不運にも目撃してしまった乗客たちの叫び声が響き渡り、辺りは騒然となって人々はパニック状態に陥ってしまっていた。
*
自然物に巧妙に似せて作った、人工の小川のせせらぎがさらさらと流れていた。意図的な無秩序さで巧みに配置された大小の岩や石を洗い流しながら、透明な水が大きな池に注ぎ込んでいる。池の中には、たくさんの錦鯉が泳いでいた。池の周りにはよく手入れの行き届いた芝生が生え、石畳が敷かれて通行すべき道を示している。緑深い木立に囲まれた、品が良く格調高い日本式庭園だった。
その庭園の奥に、広大な純日本家屋が建っていた。木造の数寄屋造りで、白い障子と黒々とした屋根瓦がしっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出している。しかしその広さたるや、いったい部屋数はいくつあるのか、と疑うほどで、どこまで広がっているものか、庭から見た限りでは皆目見当もつかないほどであった。
その、庭に面した板張りの廊下を、一人の女が歩いていた。少々派手な色使いのスーツに、きっちりと切り揃えた古風なボブカット、言わずと知れた、陰陽師の佳津砂であった。
佳津砂は毅然とした様子で足早に廊下を歩いていく。そして、ある部屋の前まで来ると、そこでひざまずいてから、障子をていねいに、静かに開いた。開くなり、三つ指をついてお辞儀し、中へ向かって挨拶した。
「お呼びでございますか、お父様」
部屋の中は、だだっ広い畳敷きの座敷で、奥の床の間の前に、一人の和装の男が正座してこちらを向いていた。歳のころは五十代後半から六十代くらい、長く伸ばした白髪交じりの髪をオールバックにしてすべて背中へ流し、口元には立派な口髭をたくわえていた。佳津砂の父親にして、神霊対策局の局長を務める、泉台守院源市郎その人であった。気性の激しそうな、鋭い鷹のような視線で佳津砂を射抜くと、源市郎は口を開いた。
「来たか。佳津砂よ。入るがよい」
言われて佳津砂は畳敷きの部屋へ入り、優雅な仕草で障子を閉めて、父親の前まで進み出た。そしてきちんと正座した。
「佳津砂よ。お前を呼んだのは、他でもない。またしても、怪異がらみとおぼしい事件が我ら神霊対策局に持ち込まれた」
「それはもしや、例の連続自殺の件でしょうか?」
「おお、すでに勘付いておったか。その通りだ。ここのところ、自殺しそうもない人間が突如として自らの命を絶ってしまう、という事件が、妙に多発しておった。それだけであれば、たまたま自殺者が多いだけ、という偶然で片づけることもできよう。だがな……」
佳津砂は緊張した面持ちで、父親の次の言葉を待った。
「自殺した者たちが、みな一様に、死ぬ直前にある同じ言葉をしきりとうわごとのようにつぶやいていた、というのだ。その言葉というのは」
佳津砂は相変わらず、一言も発しないで父親の言葉に耳を傾けている。
「『ソグ・ヌルゥ』、というのだそうだ」
「『ソグ・ヌルゥ』……でございますか」
「そうだ。お前、聞き覚えはあるか?」
佳津砂はちょっと考え込んでから、首を振った。
「いいえ、聞いたことはありません。いったい、どういう意味なのでしょうか?」
「分からぬ。意味は分からぬが、警察の聞き込みによると、ここ最近自殺した者のうち7名までもが、ある日突然に同じ言葉を何かに憑かれたかのように繰り返すようになり、それからほどなくして自ら命を絶っている、というのだ」
佳津砂は、ちょっと身震いした。
「警察の調べでは、死因や現場の状況、その他から自殺としか断定できず、他殺を思わせるような要因は何一つとして見つからなかった、ということだ。法律上は、自殺として処理する以外、警察としてはやりようがない。ただ、7名すべてに共通していたのが、この謎の言葉だった、というのだ。これは、何か怪異のにおいがする、ということで、警察庁長官からわしのところへ、調査してくれるよう要請が入った、というわけなのだ」
「なるほど、それで、わたしに動け、とおっしゃるのですね?」
佳津砂が、いかにも自信ありげな笑みを浮かべながら、答えた。
「そうだ。だがな、お前ひとりで動くでないぞ。例の、桧藤とかいう私立探偵がおっただろう」
「はい……?」
「ヤツにこの一件を持ち込み、解決を依頼するのだ」
「えっ、またあの男に依頼、ですか?」
佳津砂は、ちょっと不服そうに口応えした。源市郎は、それへは構わず、話を続けた。
「そうだ。何も、お前自らが危険を冒す必要はない。危ない仕事は、すべてあの男に任せるのだ。そして……」
佳津砂は、不満そうに可愛らしい唇をとがらせながら、それでも黙って父親の言葉に耳を傾けていた。
「ヤツと出来うる限り行動をともにし、ヤツの動向を監視せよ」
「監視……? それは、なぜでございますか?」
佳津砂が急にはっ、となって真剣な表情になった。
「あやつは、右眼に闇の力を宿せし、呪われた宿命を背負う男だ。聞けば、太古の昔に滅んだり、あるいは封じられたはずの邪神どもが最近になって復活しはじめ、それをまたあの男が封印している、というではないか」
「はい、それは、その通りでございます。わたしも、この目でそれを直接見ております」
「それなのだ。ヤツが何のために、邪神どもの魂を封じておるのか、それがわしにはどうも気にかかる」
「と、いいますと?」
「わしも、式神をはなってヤツの動向はそれとなく、感づかれない程度に探りを入れておる。わしの知る限りでは、あの男は自身の魔力を利用して、ペット探しやら浮気調査やら、そんなようなことばかりをやって法外な探偵料をせしめているらしいではないか。その裏で、邪神封じも行っているようだが、その目的が、どうも解せぬ。ヤツが正義の味方を気取っているとも、わしにはとうてい思えぬのだ。何か、裏があるような気がしてならぬ」
「そう……でございましょうか?」
佳津砂は、何か父親の言うことに思い当たることがないかどうか、しきりと記憶をたぐりよせている様子だった。だが、佳津砂には、桧藤の行動にそれほど怪しい点があるようにも思われなかった。
「あやつが何を企んでおるのか、あるいは何も企んではおらんのか、わしの懸念が、杞憂に過ぎなければそれはそれで問題はない。だが、もし万が一にも、わしの不安が的中しておるようなことになれば……」
「不安、とおっしゃいますと?」
「……ううむ、具体的には、まだ何とも言えん。ただ、どうもあの男、わしにはとんだ食わせ者ではないか、という気がして仕方がないのだ。具体的にどこがどう、というのではないのだが」
源市郎は、歯がゆそうに眉をしかめてそう言った。単なる直観でそう感じているだけで、特に確証があるわけではなさそうだった。佳津砂も、しきりに記憶を呼び起こして、桧藤の態度や言動に何か怪しい点がなかったかどうか、検証を加えていた。言われてみれば、どこかおかしなところがないでもないような気もしたが、それはあの男が、ただ単に変わり者であるからに過ぎないとも言えた。やや思案してから、佳津砂が答えた。
「分かりました。連続自殺事件の調査と並行して、あの探偵と行動を共にし、何か怪しいところがないかどうか、探りを入れろ、ということですね」
「ああ、そうだ。お前なら、しっかりやってくれると期待しておるぞ」
「承りましてございます」
「では、下がってよい。ご苦労であったな」
「はい、お父様」
「……のう、佳津砂よ」
「はい?」
「勤務時間中は、お父様ではなく、局長と呼ぶように前々から言っておいたはずじゃが」
「これは、失礼いたしました、局長」
「うむ、では、任務の件、くれぐれも頼んだぞ」
「お任せください」
佳津砂は正座したまま深々と頭を下げると、つと立って座敷を出ていった。
*
一方、桧藤の探偵事務所。
デスク上のノートパソコンに、スーリンの尻尾が接続されていた。パソコンからは、人の話し声が流れている。スーリンは、耳で聞いたことを音声ファイルに変換して持ち帰ることもできるらしかった。
一通り聞き終えると、桧藤が独り言のようにつぶやいた。
「……なるほど、身元調査の依頼がくるくらいなヤツだけあって、実際にはかなり素行の悪い男だったようだな。ほとんど、というかこれではまるっきり、結婚詐欺を企んでいるとしか、思えん。やれやれ、依頼人にとっては、早めに俺のところへきて正解だった、ということか。さて、報告書の作成が、少々面倒だな」
そして、パソコンに向かってしきりにキーボードを叩き始める。キーボードをブラインドタッチで叩きながら、
「スーリン、今回もご苦労だった。冷蔵庫のアイスを食べていいぞ」
と、目線はパソコンの画面から動かさないままでスーリンに言った。
「は~い♪」
スーリンは相変わらず脳天気そうに、冷蔵庫へすっとんでいって、中からアイスをつかみ出して食べ始めた。
そこへ、事務所のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
桧藤は、パソコンに向かったまま作業の手を休めずに声を掛けた。
ドアが開けられて、中に入って来たのは、佳津砂であった。
「こんにちは、探偵さん。お忙しかったかしら?」
「……なんだ、お前か」
桧藤は、ちょっとパソコンから目を上げて、佳津砂を見るなり無愛想に言った。一応、作業の手は止めている。
「なんだ、はないでしょう。今日は、仕事を持ってきてやった、っていうのに」
いつもなら桧藤の態度に怒りそうな佳津砂だが、今日は冷静だった。その佳津砂の様子に、ちょっと眉根を寄せた桧藤だったが、何も気づかない風で言葉を継いだ。
「仕事?」
「ええ、仕事よ。あなたに依頼があるの。それとも、今は立て込んでたかしら?」
「いや、そうでもない。とりあえず、話は聞こう」
桧藤は、注意深く観察するような目で佳津砂を見た。といっても、彼はたいてい、いつもそんなような目で人を見ていたのではあるが。
佳津砂が腰かけて、話しはじめる。
「実は、ここ最近、奇妙な自殺が相次いでいてね。まあ、一見すると、どれもただの自殺にしか見えないし、警察でもそう断定するしかなかったんだけど……」
「うん、それで」
「どれも共通していたのは、全く自殺する原因が分からない、ということと、それからある言葉だったの」
「ある言葉……?」
「そうなの。今回、連続で自殺している七名が七名とも全員、死ぬ直前に、『ソグ・ヌルゥ』という言葉を繰り返し口にして、それから命を絶っているらしいのよ」
「『ソグ・ヌルゥ』、だと……?」
その言葉を聞いたとたん、桧藤の顔が急に険しくなった。そしてぎりっ、と歯がみした。
「何か、知っているの?」
「……いや、聞いたことないな」
桧藤は、誤魔化した。佳津砂はそんな桧藤を、うろんそうに見つめてから、話を続けた。
「自殺しそうもない人間が、七名も同じ言葉を口にして自殺する、というのは明らかに何か原因がありそうでしょ。警察では、自殺で処理する以上のことはできないし、どうも怪異がらみのセンが濃厚なので、ウチの方にまわってきたわけなんだけども」
桧藤は、何を考えているものか、表情ひとつ変えずに佳津砂の言葉をじっ、と聞いている。
「この件の調査と解決を、あなたに依頼したくてね、来たのよ、今日は。どう? やってもらえるかしら?」
桧藤は、少しの間、値踏みするように佳津砂を鋭く見つめていたが、やがて口を開いた。
「いいだろう。引き受けよう」
「やってくれる? ありがとう。それから、調査には、わたしも協力させてほしいの。いいわよね?」
「お前が、協力……?」
「ええ、そうよ。何か問題ある?」
「問題は、ない。だが、今回の件は、おそらくお前の手をわずらわせるほどのことでもないだろう。おそらく、また例の邪神どもが、人々の精神を操って自殺に追い込んでいるのに違いない。その本体がどこに潜んでいるのかは、このスーリンに探り出してもらう。あとは、俺がそいつを始末する。それだけだ。お前の出る幕は、ないだろう」
「えっ、そ、そんなこと、分からないじゃない。わたしの力が必要になるかもしれないでしょ? こないだだって……」
「これまでは、確かにお前の世話にもなった。しかし、今回は、その必要はない、と言っているのだ。とにかく、この一件は引き受けた。あとは俺たちだけでやるから、お前は帰ってくれていいぞ」
桧藤が、佳津砂をさえぎってきっぱりと言った。とりつく島もないとはこのことだった。
佳津砂は、なおも言いつのろうとしたが、それ以上何も言う言葉が見つからず、
「……分かったわ。じゃあ、お願いね」
と、しぶしぶ言って、しょげた様子で事務所を出ていった。
佳津砂が帰るのを見届けると桧藤は、アイスをとっくに食べ終えて横に控えていたスーリンの方へ向き直り、
「スーリン、また仕事だ。手がかりは、『ソグ・ヌルゥ』だ。お前の聴覚で、その言葉を発している人間を探してくれ。見つかったら、すぐに連絡してほしい。いいな?」
「はい、センセイ」
言うとスーリンは、ぼわん、と大きなカラスの姿に変化した。桧藤が事務所の窓を開け放すと、大ガラス姿のスーリンはひと声「にゃあ!」と鳴いてから、外へ飛び出して行った。
スーリンを見送った桧藤は、口の中でひとり、つぶやいた。
「『ソグ・ヌルゥ』、か。“その日”は近い、ということか……」
*
一方、桧藤の事務所を体よく追い払われた佳津砂は。
帰るフリをして、桧藤探偵事務所ビルから少し離れた塀のかげに隠れ、桧藤たちの動向を見張っていた。
「……まったく、どこまで隙のない男なのかしら。まさか、お父様からの密命、ヤツを見張れ、というのが、もうバレたわけじゃないわよね……あっ、あれは!」
桧藤の事務所から、大きなカラスが飛び立つのを佳津砂は見つけた。
「桧藤のところの、使い魔だわ。さっそく、動き出したってわけね。よ~し……」
佳津砂は、軽く印を結んで、小さく「勅令っ!」と言った。すると、どこから現れたのか、突然一羽の鳩が飛んできて、佳津砂の肩にとまった。
「すぐに、あの大ガラスの後をつけてちょうだい。あなたの気配は、身固式で消しておいてあげるわ。さあ、すぐに行って!」
鳩に命令すると、口の中で素早く呪文を唱えた。呪文が唱え終わるか終らないうちに、鳩はさっ、と飛び立って、大ガラスの後を追って行った。どうやらその鳩は、佳津砂の式神のうちのひとつであるらしかった。
*
大ガラス姿のスーリンが、町の上空を飛んでいた。下に見える街並みは、密集した住宅街であったり、会社のビルが立ち並ぶちょっとしたオフィス街であったり、商店街であったりした。スーリンの聴覚は、ふだんでも人間の数百倍はある。それを、意識を集中して数千倍にまで高め、町から聞こえてくるあらゆる音という音をひろって、聞き分けていた。雑多に聞こえてくる音の洪水の中から、たったひとつのキーワードを聞き取るのは、いかなスーリンであってもそうすぐに結果が出せるというものではなかった。
そうやって、もう一時間以上は飛び続けていただろうか。その間、後ろから距離をあけて、小さな鳩が尾行してきているのは、スーリンには見えていないようであった。
ふいに、大ガラス姿のスーリンがすーっ、と路上に降り立った。周りに誰もいないのを確かめると、ぼわん、といつもの猫耳メイド服少女の姿になった。
「ふーっ、ちょっと、疲れましたにゃ」
そして、すたすたと歩いて、近くにあったコンビニエンスストアへ入っていった。コンビニに入ると、まっすぐアイスのケースの方へ行き、中からアイスをつかみ出してレジに持っていった。ポケットから小銭を出して支払いを済ませ、また店を出る。どうも、桧藤からお小遣いくらいはもらっているようだった。
スーリンは、おいしそうにアイスを食べながらふつうに歩き出した。少し歩くと、横の方から変な声が聞こえてきた。
「萌え~♪」
声のした方をスーリンが振り向くと、小太りで手足が短く、薄い水色のジーパンに何だか似合っていないチェック柄のシャツ姿の、メガネをかけて長く伸び放題にした髪の毛を後ろで束ねた、オタクっぽい風体の男がこちらをじっ、と見つめていた。男は、背中にリュックを背負い、手には萌え系のアニメキャラが大きく描かれた紙袋を下げていた。
オタク風の男は、スーリンと目が合うと、にへっ、と不気味な笑いを浮かべて、スーリンに近寄ってきた。
「き、きみ可愛いね。写真、撮らせてもらってもいいかな?」
オタク風の男は、携帯電話を構えて写メを撮ろうとしていた。男の手にしている紙袋には、なるほどスーリンにそっくりなアニメキャラがプリントされている。スーリンは、業務の遂行中でもあり、面倒くさかったので、
「やかましいですにゃ。ひっこんでろ、この下司野郎」
と、にこにこした表情はいっさい変えずに、かわいい声で言い放った。すると男は、
「ま、ますます、萌え~♪ 友達きぼんぬ、てゆうか俺の嫁、決定」
などと訳の分からないことを言って、ダークな笑みを浮かべている。さすがのスーリンも口元をひきつらせて、
「……筋金入りの、変態野郎ですにゃ」
とつぶやかずにはいられなかった。男は、なおもスーリンに迫ってきた。
「ちょっと、ぎゅーっ、てしても、いいですか?」
つまり、スーリンを抱きしめてもいいか、ということらしい。スーリンは、それ以上、その男の相手などしていられないので、だっ、と走り出した。
「あっ、きみ、どこ行くの。まだ写真、撮ってないんだけど~」
男も、走って追ってくる。スーリンは、知ったことか、と思いながら走り続け、向こうの角をひょい、と曲がった。男も、後をついて角を曲がった。だが、そこにはもう、スーリンの姿はなかった。あれ?と男が辺りを見回してみても、どこにも猫耳メイド服姿の少女の姿はない。ふと、上を見上げると、一羽の大きなカラスが空へと飛び立っていくところであった。なぜか、そのカラスの口には、食べかけのアイスがくわえられていた。男は、しきりといぶかしそうにカラスを見上げていたが、なおもしつこく、周辺を探しているようだった。
*
そして、桧藤の探偵事務所。
スーリンを送り出してから、二時間ほども経過しただろうか。
桧藤は、一通り身元調査の報告書を作り終えて、コーヒーを飲みながら一服しているところだった。
そこへ、携帯電話が着信音を鳴り響かせた。
桧藤が出ると、相手はスーリンであった。
「スーリンか。どうだ。見つかったか」
「はい、見つけました、センセイ。あの言葉を、繰り返しつぶやきながら歩いてる男がいます」
「よくやったぞ。場所はどこだ」
「はい、九取町四丁目十三番地の、あっ、部倉ビルというのに入って行こうとしてますにゃ!」
「分かった。すぐ、行く」
電話を切って、すぐに出かけようとする桧藤。事務所を出ながら、つぶやいた。
「ここからだと、少し距離があるな。間に合わないかもしれん」




