突然死事件
「……一家四人全員が死亡しているのが見つかりました。死因はいずれも心臓麻痺による突然死で、突発的な激しい恐怖や、急激な極度の緊張により引き起こされた可能性が高いと見て、警察では事件と事故の両面から捜査を進める方針です。次のニュースです……」
「……一家四人全員が、突発的な恐怖で突然死、だと?」
事務所のテレビでニュースを観ていた桧藤が、思わずつぶやいた。
「どうも怪しい事件だな。どう思う、スーリン」
「怪しいですにゃ」
本気で言っているのか、ただ合わせているだけなのか、どちらとも判然としない口調で、横に控えていたスーリンが答えた。
「また、例の邪神どもが関わっていないとは言い切れない。幸いに、というかあいにくというか、今は何も依頼が入っていない。金にはならんが、ちょっと調べてみるか。スーリン」
「はい、センセイ」
「出かけるぞ。一緒に来い」
*
辺りはすっかり暗くなって、空には月が出ていた。
桧藤の事務所周辺に軒を連ねる居酒屋などの明かりからも少し隔たった、暗い通りだった。たまにしか街灯が点っていない暗い道を、桧藤とスーリンが歩いていた。スーリンは、あまりメイド服姿で出歩いていると目立つので、猫の姿で桧藤の横をトコトコと歩いている。
二人が歩いていると、前方から数人の柄の悪そうな男たちが近づいてくるのに遭遇した。その男たちの中には、なんだか見覚えのある、金髪の男と坊主頭の男がいた。
金髪の男は、たまたま街灯に照らされた桧藤の姿を目にすると、
「あっ、アニキ、こいつですぜ! こないだ俺たちをさんざんボコったのは!」
と叫んだ。前に、桧藤が撃退した二人組みに他ならなかった。二人の他にも、四人くらいの男たちが後ろに控えている。全部で六人、といったところだった。
金髪にアニキと呼ばれた、ひときわ柄の悪そうな、目つきの悪いジャケット姿の角刈りの男が凄みを利かせながら桧藤に近寄ってきた。
「おぅ、コラ。てめぇか、ウチの舎弟を可愛がってくれたのはぁ。あぁン?」
アニキが、凄んでみせた。
さっ、と素早く、金髪と丸坊主が桧藤を左右から挟みこんで、桧藤の腕をつかまえた。
「ほう、何の真似だ?」
桧藤は、別に臆する風でもなく、口元に笑みを浮かべながら、馬鹿にしたように言った。
金髪はカッ、となって、
「アニキ、やっちまってください!」
とアニキに向かって叫んだ。アニキが、桧藤にパンチを喰らわせようとして右手を引いた、そのときだった。
「ぎゃっ!?」
突然、桧藤の右腕をつかまえていた金髪が、絶叫とともに体をびくん、とのけぞらせ、地面にどさっ、と倒れてしまった。何が起きたのか、と思わず動きを止めてしまう、アニキ。
桧藤は、自由になった右手で、今度は左腕をつかんでいる丸坊主の腕をつかんだ。すると、今度は丸坊主が、
「ひっ!?」
と短い叫び声を発して、やはり金髪と同じようにびくん、とのけぞってから、どう、と倒れてしまった。
地面に倒れ伏して、体をぴくぴく痙攣させている二人を見て、目を丸くしたアニキだったが、
「てンめぇーッ!!」
何がなんだかよく分からないものの、とにかくパンチを繰り出してしまえ、とばかりに、桧藤に殴りかかった。桧藤は、繰り出された拳を素早く、右手で受け止めた。その瞬間、桧藤の右手から、電流のようなものがアニキの拳に流れ、一瞬のうちにアニキは全身が感電して体をのけぞらせて金髪たちと同じように地面に倒れこんでしまった。
チンピラたちは、まだ三人ほど残っていたが、その様子を見てビビってしまったのか、じりっ、と後ずさりすると、わあーっ、と声をあげ、薄情にもアニキを残したまま、全員が一目散に逃げ出してしまった。後には、金髪と丸坊主、それにアニキの三人が、感電して体が痺れ、動けないまま路上に倒れているだけだった。
桧藤は倒れてうめき声をあげている三人には目もくれず、すたすたと夜道を歩き去っていった。その後ろから、猫姿のスーリンがトコトコと、さも何事もなかったかのようについて行った。
*
一家四人突然死事件の現場となった家は、ごく一般的な二階建ての木造家屋で、それほど新しくはなく、築年数はそれなりにありそうだった。周りは田畑と、それから耕作放棄されて雑草が生え放題の空き地、資材置場、それからたまにある防風林などしかなく、隣家までの距離は非常に遠い。野中の一軒家、と言ってよかった。現場となった家から田畑や空地をはさんで五百メートルほど隔たったところには、何の会社なのかはよく分からなかったが、三階建てで実用一点張りの飾り気のない真四角なビルが建っていた。その社屋ビルを起点として、向こうのほうへ工場がいくつか、並んでいるのが月明かりを通して見えた。それらの会社や工場は川の土手沿いに建てられていて、まだ明かりがついている窓もある。
「あの家か」
街灯がごくたまにしか点っていない、真っ暗な夜道を、桧藤とスーリンが歩いていた。スーリンは相変わらず、猫の姿で桧藤の隣を歩いている。メイド服姿だと目立つから、という理由ではあったが、そうはいってももしこれが昼間であったなら、三つ揃いのスーツに身を包んだ長髪の男が、こんな場所を見事な毛並みのヒマラヤンを連れて歩いている光景というのは、それなりに人目を引いてしまったのかもしれないが。
だが、辺りにはそんな桧藤たちの様子をいぶかしむような人影ひとつ見当たらなかった。事件のあった家は、もうすっかり現場検証も終わり、もう夜ということもあって、周辺には誰もいないようであった。
桧藤は、すっ、とポケットからスマートフォンを取り出すと、ニュースを検索した。
「……この一家四人突然死事件のニュースによると、四人が亡くなったのは昨夜で、遺体発見が今朝方だったということだな。しかも、気になる情報がある。四人が亡くなったとおぼしき時間帯に、この周辺一帯だけが停電していたらしい、というのだ。四人の死亡と停電の間に、何か関係があるのだろうか……?」
隣を歩いていたスーリンが、にゃあ、と答えた。
特に誰に見とがめられるということもなく、二人は一家四人突然死事件の現場となった家の前まで来た。足を止めて、家を眺める。二階を見上げて、桧藤が言った。
「とくに、怪しい気配はしないな。スーリンはどうだ、何か感じるか?」
スーリンは、猫の姿のまま、その目に鋭い光を宿らせて、家の中を透視でもしているかのような様子だったが、やがて猫の姿のまま人間の言葉を話した。
「何も、いる気配はありませんにゃ」
「そうか……何かあるか、と思ったんだが、俺の見込み違いだったか?」
そのとき。
空に出ていた月に、雲がかかって月明かりをさえぎった。
辺りは、それまでよりもさらに暗い、突然鼻をつままれても分からないくらいの真っ暗闇に包まれた。少し離れたところにある街灯だけが、ぽつんと寂しく、その真下だけを照らしている。
と、突然。
桧藤の手にしていたスマートフォンの電源が落ちた。
「んっ!?」
気づくと、遠くの街灯も明かりが消えている。
さらに見回すと、向こうに見えていた工場や社屋ビルの窓についていた明かりまでも消えて、真の闇が周囲を支配していたのだった。
「停電? ……にしては、おかしい。スマホまで消えるか、ふつう?」
月明かりさえも雲にさえぎられ、明かりという明かりがすべて消えた本当の闇夜だった。ほんの一歩先さえも見通せない。
そのとき、スーリンの、人間よりも数百倍も鋭い聴覚を持つ耳が、何か異変を聞きつけた。
「……! センセイ、いま、悲鳴が聞こえましたにゃ」
「ほう、どこからだ?」
「あのビルから、ですにゃ」
「あそこか。よし、行ってみよう」
ひとつの明かりもない真っ暗な夜道である。ふつうの人間なら、危なくて歩くことさえままならないところであったが、桧藤とスーリンにはまったく関係ないようで、二人とも平気で暗闇の中を駆け抜けていった。
直線距離なら五百メートル程度しか離れていないものの、田畑が間にあるため、道に沿って遠回りしないとそのビルにはたどり着けなかった。二人が暗闇の中を、問題のビルへと近づいていくと、また雲が切れて、月が顔をのぞかせた。
月明かりにうすぼんやりと照らされた道の上に、一人の女が立っているのが見えた。その女には、なんだかものすごく見覚えがあった。
近づいていくと、女の方から声を掛けてきた。聞き覚えのある声だった。
「なんで、あんたがここにいるのよ?」
「お前の方こそ、ここで何してる?」
女は、内務省神霊対策局の陰陽師、佳津砂であった。
「知ってると思うけど、あそこの家で、一家四人が謎の不審死を遂げる事件があったわ。これは怪しい、と睨んで、この辺を調査していたのよ。まさか、あんたも、ってんじゃないでしょうね……?」
「いや、そのまさか、だ。お前のところは、要人の霊的警護だけしてるのかと思っていたが、こういう事件にも首を突っ込むのか?」
「まあね、警察の手には負えないような、心霊や怪異がらみの事件があると、かり出されることもあるのよ……それにしても、こんなところであなたとバッティングするとはねぇ。いったい、誰の依頼で動いてるのよ?」
「今回は、誰の依頼でもないさ」
「へぇ~、純粋に、裏稼業、ってわけね?」
「いや、金にはならないから、稼業、とは言えないな」
「……、細かいことはいいから、とにかくわたしたち、目的は一緒、ってことよね? だったら、一緒に行動しても、いいんじゃないかしら?」
「それは別にかまわんが、なんだ、お前、怖いのか?」
「……、怖いとかじゃなくて。これを見てよ」
佳津砂が、手にしていた懐中電灯を桧藤に示して見せた。佳津砂がスイッチをいくらオン・オフしても、明かりがつかない。
「さらに、これよ」
佳津砂が自分の携帯電話を桧藤に見せると、それは電源が入っていなかった。
「電源が入らないのよ」
「それは、俺も同じだ」
桧藤は、自分のスマートフォンを佳津砂に見せながら言った。
「どうも、ただの停電ではなさそうだ、ということだけは確かだ」
「ええ、そうね。これは、かなりヤバいにおいがするわ。こないだの閣下の一件のように、わたし一人でカタがつくヤマかどうか分からないし、あなたに協力してもらえると、助かるんだけど」
「それは、依頼か?」
「えっ?」
「それは、依頼か、と聞いている。依頼なら、喜んで協力するぞ」
「……、あんたねぇ。こんな時にまで、商売する気? ……まぁ、いいわ。あなたへの報酬は、経費で何とかしましょう。とにかく今は、この妙な停電の原因を突き止めて……」
「それなんだがな。実はさっき、ウチのスーリンがここの会社から、悲鳴がしたのを聞きつけていてな」
「スーリン?」
言われると、スーリンはぼわん、と猫耳メイド服少女の姿になった。
「あっ、あの時の使い魔!」
「先日は、どうもお世話になりましたにゃ」
スーリンが、ちょっと皮肉のこもった口調であいさつした。佳津砂は、スーリンがよほど苦手なのか、あるいは人間でないモノを下に見るところがあるのか、言葉をつまらせて口元をひきつらせていた。
「スーリンは、確かに俺の使い魔だが、これはなかなか力のある妖魔でな。有能な助手として、ずいぶん重宝しているよ」
「よろしくお願いしますにゃ」
スーリンの方が、佳津砂よりも何十倍も年季を経ているので、先日の小さないさかいなど、もう気にも留めていない様子であった。
「あ、こ、こちらこそ、よろしく……」
佳津砂はそれでも、あまり気が進まなそうにあいさつを返した。
「とにかく、今回の一件、ただの停電や、不審死では済まなそうな気配が濃厚だ。二人とも仲良くしてくれなくては、俺も困る」
「はい、センセイ」
「わ、分かったわよ。こないだは、悪かったわよ」
「分かれば、いいんですにゃ」
佳津砂は、スーリンのちょっと上から目線に閉口しつつも、そこは大人なのでそれ以上は何も追求せず、ただ横を向いて不平そうな顔をちょっとしただけだった。
「じゃあ、突入するぞ」
「はい、センセイ」
桧藤とスーリンが、明かりが消えて真っ暗になったビルの玄関の方へ、歩きだした。佳津砂も、その後から月明かりを頼りについて行く。
玄関は自動ドアになっていたが、当然、自動では開かなかった。桧藤は、ドアの隙間に手をかけると、ぐっ、と力を込めて左右に押し開いた。自動ドアは、難なく開いた。
開いたドアから、中の廊下を見渡してみたが、月明かりさえも差し込まない真っ暗闇である。何があるのか、全く見ることができない。しかし、桧藤もスーリンも、まったく臆する風でもなく、ずかずかと中に踏み込んで行こうとした。
「ちょ、ちょっと、中は真っ暗じゃない。何も見えないわよ?」
佳津砂が、慌てて後ろから止めにかかった。
桧藤は振り返って、
「仕方ないな」
そう言ってポケットからライターを出すと、佳津砂に手渡した。
佳津砂がパチン、とライターを開いて、親指で火打石を擦ると、シュボッ、と点火した。ゆらゆらと揺れるライターの炎が、あたりを照らし出す。といっても、ほんの周囲数メートルだけの範囲にしか過ぎなかったが。
玄関から入って最初は、少し広くなった廊下で、一方の壁際には自動販売機が設置されていた。当然、電源は落ちている。廊下をちょっと進むと、ドアがあった。桧藤がドアを開けて、中をのぞいてみた。
ドアの中は、パーテーションでいくつかに区切られた広い事務所になっていた。一番手前側には、応接セットが置かれている。奥には、社員たち各人のためのデスクがいくつも並んでいた。
ライターの頼りない明かりに透かして見ている佳津砂は、中の様子がよく分からなくて、しかめっ面をしてしきりに目をすがめたりしていた。だが、桧藤は暗闇でも目が見えるのか、奥に何か発見したようだった。
「人が倒れているぞ」
「ええっ!?」
素早く、桧藤が倒れている人物のところまで移動する。スーリンも音もなく、それに付き従う。佳津砂だけは、暗くて足元も、周囲もよく見えないので、やや遅れてやってきた。
倒れていたのは、どうやら遅くまで残っていた女子社員らしかった。桧藤は、かがんでその息を確かめた。しかし、佳津砂の方を見て首を左右に振った。
佳津砂が、ライターの光を近づけて、死亡している女子社員の顔を覗き込んだ。
「ひっ……!」
その形相は、恐怖にひき歪み、目は大きく見開かれ、口は絶叫をほとばしらせたまま凍りついたかのようで、見る者にさえ彼女が死の間際に味わったであろう恐怖がありありと感じられるほどであった。佳津砂は驚愕して口をおさえたまま、桧藤を見た。桧藤は口をきつく結んだまま、何も言わなかった。その手には、用心深く手袋がはめられていた。後で警察の現場検証が入ったときに、指紋を残していては、やっかいだからだ。
そのとき、スーリンが急に緊張した様子で言葉を発した。
「センセイ、上の階に、何かいますにゃ」
「気配を感じるのか。どんなヤツか、分かるか?」
「かなり、強い力を持ったヤツですにゃ」
「いつもの、邪神並みに強そうか?」
「はい、強そうですにゃ」
スーリンがそう答えたその瞬間。
佳津砂が手にしていたライターの火が、突然、ふっ、と消えた。辺りは、一寸先も見えない真っ暗闇に包まれた。
「あれ、あれ?」
佳津砂が、慌てて何度もライターの火打石を親指で擦った。だが、火花がちょっと散るだけで、再び火がつくことはなかった。
「まさか、燃料切れ、ってことは、ないわよね?」
「ないな。まだ入れたばかりだ。恐らく、これは……」
「そうですにゃ、スーリンが気づいたから、ヤツが火を消したんですにゃ。警告してますのにゃ」
スーリンが説明した。
「どうしよう……真っ暗で、何も見えないわ」
佳津砂が、困惑して頼りなさげな声を出した。
「仕方ない。スーリン、佳津砂を連れて、外に出てくれ。佳津砂はそのまま、外で待機だ」
「えっ、そんな!」
「暗闇で何も見えないんじゃ、かえって足手まといになってしまう」
「え? じゃあ、あなたは暗闇でも目が見えるの?」
「ああ。知ってのとおり、俺の右眼は人間のものじゃない。この呪われた魔眼は、暗闇だろうとどこだろうと、周りの様子はすべて見えているのさ」
「えっ、ということは、まさか、あのとき閣下の屋敷へ連れて行ったときにしていた目隠しは……」
「そう、あんな目隠しなんて、何の意味もなかったぞ。俺には、すべての道順が見えていた」
「……! どこまで喰えない人なのかしら。……って、今はそれどころじゃないわね。いいわ、確かにわたしがいても足手まといになりそうだから、外で待たせてもらうことにするわ。スーリンさん、よろしくお願いね」
「はい、まかせてくださいませにゃ」
スーリンにしても、もともとが人間ではなく魔性のものである。暗闇の中でも平気で目が見えて当たり前だった。自分だけが暗闇で不自由する生身の人間であることを悟り、佳津砂は急に素直になって、スーリンに手を引かれて、足元もおぼつかなく外へ出て行った。
「さて……」
二人を見送ると、桧藤は廊下へ出てさらに奥へと進んで行った。奥には、上階へ上がる階段が、暗闇の中にひっそりと控えていた。桧藤はそれを、慎重に、上から何が出てきてもいいように身構えながら、一段ずつのぼっていった。
二階まで来て、とりあえずそこを探索し始める桧藤。だが二階も一階とほぼ同じような構造のふつうのオフィスで、とくに怪しいものが出てくることはなかった。ただ、一階と同じように、床に倒れている数名の男性社員の遺体が発見されたことは、桧藤にとっても心痛を禁じ得なかったが。
桧藤は、いよいよ出るか、という緊張を全身にみなぎらせて、三階へ上っていった。
真っ暗闇の、明かりひとつない階段を、右眼の魔眼を頼りに上りつめていく。三階までのぼりきり、廊下の奥の方を見渡す。桧藤の魔眼をもってしても、その奥に何かがある、あるいはいる気配はまだ感じられなかった。
桧藤は、緊張した面持ちで廊下を奥へと進み始めた。一歩、また一歩と、ゆっくりと進んでいく。
少し進んだところで、暗闇が動く気配を感じた。
「来る!」
桧藤の右眼が、一瞬にして開いた。それとほぼ同時に、暗闇から、まるで闇そのものが動きだしたかのような、何か黒いものが桧藤にとびかかってきた。ものすごい勢いだった。
だが、すんでのことで攻撃をかわした桧藤は、体を一回転させて廊下の床に片膝をついてしゃがみ、すかさず身構えた。そこへ、容赦なく暗闇が第二波の攻撃をしかけてくる。まるで闇そのものが生命をもって、動き回っているかのような、そんな印象だった。だが桧藤は、またしても身軽にそれをかわす。
「はああああああぁぁぁ」
桧藤が気合いを入れると、彼の禍々しい右眼から光線のようなものがほとばしり、暗闇にめがけて食い込んだ。
「なにっ!?」
しかし、暗闇はまったく何の痛痒も感じていないようであった。というより、桧藤のはなった攻撃は、暗闇に吸収されて無効化されてしまったようだった。
今度は、桧藤は右手から青白い炎を吹き出した。その炎はゆらめく刀身となり、一本の剣と化した。そこへ、暗闇が再び、その真っ黒い、決まった形をもたない姿で襲い掛かってきた。
「でーいやっ!」
桧藤が気合い一閃、暗闇の攻撃をかわしつつ、鋭くその暗闇の触手を己れの剣で切り裂いた。確かに、手ごたえがあった、と桧藤は思った。しかし。
暗闇は、斬られたはずの部分が次の瞬間には元通りにつながっていた。相手は、形のないアメーバ状の、真っ黒いただの闇である。斬って、果たして効果があるものか、さすがの桧藤もちょっと疑念が頭をよぎった。だが、考えているいとまはない。暗闇は、次々とその暗闇そのものの体を伸ばして、執拗に攻撃を仕掛けてくる。その度に、巧みにかわしつつ、逆に攻撃を加えて暗闇の触手を切り刻むのだが、斬っても切っても、暗闇はすぐに修復してしまって、まったくダメージを与えている気配がない。これは、どうしたものか、と桧藤が相手との距離を少しあけて、ちょっと思案したとき。
暗闇が、急にある点に集まり始めた。その、真っ黒で闇と完全に同化していたアメーバ状の流動体が、桧藤から少し離れたところに集まって、ひとつの形をとりはじめた。その形状は。
それは、真っ黒な体をもつ、人型のモノであった。背中には、凶々しいコウモリのような翼をもち、手にも足にも、その先には鋭い鉤爪がある。そしてその顔には、真っ赤に不吉な輝きをはなつ、細長い目があった。その目は、額にももう一つ、縦についていて、三つの赤く光る目が、廊下の向こうから桧藤を怪しく睨みつけていた。目のほかには、鼻も口も、耳もなにもないようであった。
そのおぞましい姿に、桧藤が思わず一瞬ひるんだ隙に。
暗闇の怪物は、猛烈なスピードで桧藤に突進してきていた。
はっ、として右手の剣をふりかざし、攻撃を受け止めようとした桧藤だったが。
ほんの一瞬だけ、遅かった。
怪物の鋭利な爪が、桧藤の左腕の上の方、左肩付近を鋭くえぐり、傷つけていた。
「ぐっ……!」
傷つきながらも、飛びすさって怪物との間に距離をとる桧藤。けっこう、傷は深いようだ。暗闇の中で血がぼたぼたと、廊下に落ちる気配がする。
怪物は、さらに攻撃を加えようと身構えた。桧藤には、もうそれ以上、何を迷うこともなかった。右手に構えていた剣がすっ、と消えるのとまったく同時に、だっ、と怪物とは反対の方向へ、一目散に駆けだした!
「きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
怪物から、何ともいいようのない、薄気味悪い叫び声が発せられ、ものすごいスピードで桧藤を追ってきた。圧倒的に、怪物の方が速い。
桧藤は、手近にあったドアに手をかけると、素早く開いて中へ飛び込んだ。そして、そのまま窓の方へ向けて一瞬のためらいもなく走り寄った。そこは、ふだんは会議室かなにかとして使われているのだろうか、椅子や机は部屋の端に寄せられ、中央には何も置かれていなかった。その部屋を突っ切って、一気に窓際まで走る桧藤。それを後ろから追いすがる、暗闇の怪物。怪物はいつの間にか、また流動状の形のない、真っ黒いアメーバのようになって、まるで津波が押し寄せるかのように、真っ黒い流動体になってドアから一気に溢れ込んできていた。
桧藤はそのまま速度をゆるめることなく、窓ガラスに体当たりを喰わせて、ガシャーン、とガラスを粉々に砕きつつ窓の外へ飛び出した。
ビルの三階である。その下には、足場となるものは何もない。空中へ踊り出て、そのまま落下していく桧藤。だが。
上空から現れた黒い影が、落下する桧藤の体をがっしり、とつかんでいた。
「ナイスタイミングだ、スーリン!」
大ガラスの姿に化身した、スーリンであった。桧藤の体を脚で軽々とつかみ、大きな翼をはばたかせて、月下の空を飛ぶ姿は、どこか幻想的な光景でさえあった。
振り返ると、桧藤が破った窓の中で、何やら真っ黒い流動状の物体が、くやしげにうねうねと激しく暴れているところであった。どうやら、月の光の下には、出てこられないようだった。
「危ないところだった」
つぶやく桧藤を、川岸の土手まで運んで下ろしたスーリン。すぐに、ぼわん、と猫耳メイド服少女にもどる。そこには、佳津砂もいた。
月明かりに、桧藤の左肩のあたりから激しく出血しているのを見つけた佳津砂が驚いて叫んだ。
「怪我してるじゃない! だいじょうぶなの? 救急車を……」
「待て、慌てるな。大丈夫だ」
言うと、桧藤は左肩の激しく出血している傷に、右手をかざした。
右手から、黄色い光が溢れ出してきて、傷口を包む。すると、見る間に傷口がどんどん塞がっていき、あっという間に傷など最初からなかったかのように、キレイに治ってしまった。さすがに、スーツが切り裂かれてしまったのだけは、どうにもならなかったが。
「えっ、ちょっ、これって……?」
佳津砂が目を白黒させているので、桧藤が説明した。
「俺の右眼の魔眼は、俺の右半身すべてに魔力を及ぼしている。左半身は生身の人間と同じで、傷つけば血も流す。だが、魔眼の魔力をもってすれば、たいていの傷などたちどころに治してしまえるんだ。まあ、それでも、頭をつぶされるとか、心臓を貫かれるとか、即死させられてしまっては、さすがの俺でもどうしようもないだろうが。といっても、死んだことはないから、分からないんだけどな」
「あんたって、つくづく、人間離れしてるというか、人間じゃない、というか……」
「まぁ、半分は人間じゃない、かな」
「あっ、だから、閣下の屋敷で死のうとしたときも……」
「そう、ちょっと刺したり切ったりしたくらいじゃ、死なない、って言っただろう」
佳津砂は、ちょっと呆れて頭を左右に軽く振りながら答えた。
「……もう、たいていのことでは驚くのは止めるわ。ところで、どうだったの、戦ってきたんでしょう? どんなヤツだった?」
「ああ、恐ろしいヤツだった」
桧藤は、思い出すだけで身震いする、とでも言いたげな様子で、話し出した。
「あの、赤く光る三つの目……あの目で睨まれたときは、この俺でさえゾッとした。並みの人間なら、あれだけで恐慌状態におちいり、まずふつうの精神状態ではいられないだろう。ましてあの暗闇の中だ……限界を超えた極度の恐怖から、心臓麻痺をおこして突然死しても、おかしくない」
桧藤の話を聞いて、佳津砂も思わず、ぶるっ、と身震いした。桧藤は続けた。
「しかも、ヤツは、暗闇の中ではどんな攻撃を受けても、すぐに再生してしまう力を持っていた。俺がいくら斬っても、すぐに元通りになってしまった。暗闇の中にいる限り、たぶんヤツは不死身なんだろう。倒すのは、不可能だな」
「じゃあ、どうにかして光をあてるしかない、ってこと?」
「まぁ、そういうことになりそうだが……この月明かりの下にさえ、ヤツは出てこようとはしなかった。ヤツの弱点が光であることは、間違いないだろう。だがしかし……」
「そうよね。その光をあてる方法が、ないのよね……」
「そうだ。ヤツは、自分の周囲のおそらく半径数百メートルか、あるいは」
桧藤が周りを見回しながら言った。
「一キロメートル以上の範囲にわたって、あらゆる電気の流れを止める力を持っているらしい」
桧藤の言うとおり、周囲の明かりは全て消えているものの、遠くの方には街灯の明かりや民家の明かりがふつうに見えていた。また、土手の上からのぞむ川向うには、住宅街の明かりもいつもと変わらず、平穏そうに輝いている。
「そうね、懐中電灯も、携帯も、すべての電源が、入らなくなってしまったのよね。それに、ライターの火まで、消されてしまったわ」
「そうだ。そのうえヤツは、人間の恐怖心を吸って、それを自分の力の源としているようだ。このまま犠牲者が増え続ければ、ますます力を増して、停電させることのできる範囲が今よりももっと広がる、という可能性もある」
「早く、なんとかしないと、犠牲者が増える一方になるかもしれない、ってことね……」
「ああ。だが、こんなところで悠長にしゃべっているのも危険だ。もし月が隠れたら、ヤツがここまで来るかもしれない」
ええっ、という様子で佳津砂が不安そうに、桧藤が飛び出してきた社屋ビルの三階付近へ目をやった。今は、窓の中で何かが動く気配は見えない。ただ真っ黒くて四角い穴が、建物にあいているだけである。
「とりあえず今夜のところは、これで撤収して、対策を練ろう。いいな」
「えっ? そ、そうね……」
ビルの方にばかり、気をとられていた佳津砂が、はっとなって答えた。答えた後も、どことなく心ここにあらずで不安そうに、空の月を見上げている。流れる黒い雲が、その月を覆い隠してしまわないか、心配でならない、という風であった。
*
そして、とりあえず桧藤の探偵事務所へひきあげた、三人であった。
事務所に着くなり、桧藤はデスクではなく応接セットのソファーに、どっ、と腰を下ろした。その顔には、珍しく疲労の色が見えた。佳津砂も、不安そうな表情でその向かい側に座った。スーリンだけは、人間でないだけあって、疲労も不安も何もなさそうないつもと変わらない様子で、にこにこしながら横に立っていた。
最初に、佳津砂が口を開いた。
「ヤツが光に弱いなら、昼間の間は、どうしてるのかしら?」
「そうだな。明日の昼に、もう一度調べてみる、というのも一つの手かもしれないな。だが、ビルの中であれだけの人が死んでいたとなると、当然、警察の調べが入るだろう。俺たちみたいなのが、うろうろできるとも思えんが」
「そうよね。分かったわ、その辺はわたしがなんとかしましょう」
「なんとか、って、なんとかなるのか?」
「ええ、そりゃ、もう。こう見えても、わたしは政府直属の機関に属する特別公務員なのよ。上から圧力をかけてもらって、今回の事件は事件性のない事故ということにして、捜査はさせないようにするわ。現場検証も、午前中いっぱいくらいで終わらせて、さっさと警察のみなさんにはひき揚げてもらうように、裏から手をまわしましょう。それくらいのコネは、持ってるのよ」
「へえ、そいつは頼もしい」
桧藤は、彼としては珍しく、心から感心したようであった。
「じゃあ、明日のお昼くらいに、また連絡するわ。それから、わたしたちだけで調査に向かいましょう」
「そうか。そうだな。そうしよう……明日に備えて、俺は休むことにするよ」
「ええ、そうしてちょうだい。それじゃ、お休みなさい」
そう言って、佳津砂は事務所から出て行った。桧藤は、それへは軽く手を振ってみせただけで、ソファーにぐったりしたまま何も言葉を発しなかった。




