闇に巣食うモノ
桧藤は、目に入る扉という扉を、片っ端から開けて中を確かめた。部屋は、客室であったり、書斎であったり、また寝室であったりした。しかし、これといって変わった点や、何か役に立ちそうなものはなかった。
「向こうに行ってみようか」
桧藤は、またあの無限ループしている吹き抜けの前まで来て、そしてまだ行ったことのない廊下の方へ入って行った。当然、佳津砂も後をついてきている。
最初に出会った扉は、今までのものよりも大きくて、豪華な装飾が施されていた。桧藤が扉に手を掛け、押し開いた。
そこは、非常に広く、天井も高くつくられた、おそらく何人もの人間が集まって会食をするための場所なのであろう、大きな食堂になっていた。天井からは豪華で派手なシャンデリアがぶら下がり、とてつもなく長くつくられたテーブルには真っ白なクロスが掛けられ、さすがに料理は並んでいなかったが、皿とグラス、ナイフとフォークがきちんと並べられていた。今にも、会食が始まりそうな雰囲気のまま、時間が止まったかのように見えた。
桧藤は、コツコツ、と靴音を高い天井に響かせながらテーブルに近づいて行き、そしてテーブルの上を眺めた。
「ふう。ここから出るヒントは、何もなさそうだな」
佳津砂を振り返って、まるで他人事のように平然と言った。
「あちゃ~……、あんたねぇ。今の状況、分かってるの?」
佳津砂は、右手で目頭をおさえながら、呆れた。
「分かってるさ。分かりすぎるほどに、な。俺たちは結界内に捕らわれていて、出口はない。このままだと、ここでいつまでもさ迷い歩いている羽目になる。そのうち、のどが渇き、腹が減って……」
「餓死する、って言うんでしょう。なんというか、こう、もう少し真剣みがほしいと思うのは、わたしだけなのかしら?」
そんな佳津砂の愚痴には、まったく耳を貸さずに話を続ける桧藤であった。
「そこでだ。どうせ、いずれ餓死するんだったら、いっそひと思いに、ここで死んでしまう、というのは、どうだ?」
桧藤はそう言うと、テーブルの上に置いてあったナイフを手に取った。
「はい?」
佳津砂が、目を白黒させる。
「これほどの結界を張るヤツが相手なんだ。どのみち、出口などあるはずがない。いつまでもこの中を、ぐるぐると歩き回っていたところで、いたずらに苦痛が長引くだけだ。それなら、ここで死んでしまった方が、楽だと思わないか」
「思わないか、って……あんた、自分が何を言ってるか、分かってんの!?」
「分かってる。さあ、このナイフで」
桧藤は、ナイフを佳津砂に手渡した。佳津砂は、思わず受け取ってしまう。
「俺のここを、かっさばいてくれ」
桧藤は、親指で自分の喉首を指して言った。
「え、ちょ、ちょっと、冗談でしょ?」
佳津砂が、ひきつった笑いを浮かべて聞き返す。
「冗談なんかじゃ、ない。さあ、早くやってくれ。俺はもう、こんなところでいつまでも歩き回っているのはイヤになったんだ。さあ、ひと思いに」
桧藤は、佳津砂に自分ののど元を差し出した。
「えっ? えっ?」
佳津砂は、どうしていいか分からず、ナイフと桧藤を交互に何度も見て、最後に叫んだ。
「あーっ、もう、あんたどうしちゃったっていうの!? 気が変になっちゃったってワケ?」
そして、ナイフを床に投げつけた。
「あんたを刺すなんて、できるわけないじゃないのよ! バカじゃないの!?」
「やれやれ、仕方ないな」
桧藤は、床に投げ捨てられたナイフを拾い上げながら、言った。
「お前がやってくれないのなら、自分でやるしかない。じゃあな、あの世で会おう」
言うなり、桧藤はナイフを自分の喉に突き立てようとした。
「えっ、ちょっ!」
佳津砂が慌てて止めようとした、その瞬間。
カシャーン、カラカラ。
鋭い音がして、桧藤の手からナイフが弾き飛ばされていた。ナイフはそのまま床に転がった。
床を見ると、何やら獣の角のような、あるいは何かのトゲのような、得体の知れない細くて先が鋭く尖った円錐形の物体が、床のタイルに突き刺さっていた。それが飛んできて、桧藤の手からナイフを弾き飛ばしたらしかった。
桧藤の首からは、少しだけ血が流れている。しかし、皮膚の表面を少し切っただけで、致命傷には至っていないようであった。
二人が、その尖った円錐形の物体が飛んできたとおぼしい方向、ななめ上方を見上げると、そこの天井付近に、何やら黒い霧のようなものが、もやもやと現れ始めていた。その黒い霧は、だんだんと何かの形をとり始めていた。まず、鬼を思わせるような凶悪な面構えの巨大な顔が現れた。肌の色は青みがかっていて、ぎょろりとした目玉、牙がのぞいた大きな口、頭からは二本の角が生えている。やがて、頭だけではなく体全体が現れてきた。そいつの体は、まるで蜘蛛のようで、8本ある脚のうち、最初の一対は筋肉隆々たる太い人間の腕になっていて、その肌も青みがかっていた。次の二対目、三対目は蜘蛛そのもののような脚で、先が鋭い鉤爪状になっている。最後の四対目は、四足獣の脚のような形状をしていて、これも青みがかった毛で覆われていた。それらの脚が生えている胴体部分の下には、濃い青と薄い青の縞模様もおぞましく、蜘蛛の腹にあたる部分がひときわ大きく張り出していた。
そのような、蜘蛛の姿をした化け物が、天井に張った蜘蛛の巣に張り付くようにして、桧藤と佳津砂の頭上に現れたのであった。
「な、なに、コイツは……?」
佳津砂が驚く。桧藤は、相変わらず無感動な目を怪物の方に注いでいた。すると、怪物の口からしわがれた声が、どことなく侮蔑をはらんだ尊大な調子で発せられた。
「人間ふぜいが、こしゃくな真似を。キサマに今、死なれては、わざわざわしの結界内に捕えた意味がなくなってしまうわい」
「ふん、やはり、そうだったか」
桧藤が、不敵そうな笑みを浮かべて、言った。
「おそらくそんなとこだろうと、思ったんでね」
「え? どういうこと?」
佳津砂が、聞き返す。
「こいつは、お前のような術者や、俺みたいなのを生きたまま捕えて、喰らうことでその力を自分のものにしてしまうんだ。そのために、気づかれないように結界内に誘い込み、閉じ込めてしまうのさ。もしこいつが、俺たちをただ殺すつもりなら、こんな面倒くさい結界に閉じ込めたりせずに、もっと直接的な攻撃に出てくるはずだ。それをしないのは、すぐに殺すつもりはない、ということ。つまり、俺たちがこの出口のない迷宮をさまよい歩いているうちに、だんだん弱って抵抗できなくなるだろうから、それを待って、それから喰らおうというハラだったんだろう」
「なんですって……」
それに、怪物が答えた。
「ぶぁははははは。その通り。キサマらのような……とくにそっちの男からは、強い魔力を感じる。お前のような強い術者を生きたまま喰らうことで、わしの力はますます強大になっていくのだ。死なれてしまっては、喰らう意味がないのでな。もう少し弱るまで待っていようかと思うとったが、なに、どのみち同じこと。今からキサマら二人とも、頭から丸呑みしてやろうぞ!」
大蜘蛛の化物は、言うなり天井から降りてきた。その巨体に似合わず身軽な動きで、軽やかに床に着地すると、ひと声、おおきく咆哮した。
「……いにしえに滅んだはずの邪神め。いつまでも冥府の底で、橋だけ架けておればよかったものを」
桧藤が、口の中でつぶやく。
「え? 何か言った?」
佳津砂が尋ね返した次の瞬間、大蜘蛛はその巨体からは想像もつかないような俊敏な動きで、桧藤の方へ突進してきた。
「はあぁぁぁぁぁぁー」
桧藤の表情が、それまでの冷静で無感動な様子からは一変して、急に凶暴そうなものになった。そして、右眼を覆い隠していた前髪が一瞬にして上に跳ね上がると、大きな傷跡が縦断している右眼が、くわっ、と一気に開いた。ふつうの人間の目よりもはるかに大きく、真ん丸でしかも金色に鈍くかがやき、瞳は真紅の赤だった。
怪物があわや桧藤に衝突しそうなその寸前で、桧藤の禍々しい右眼から、どん、と大きな光球が発せられ、怪物の目の前で瞬時に巨大に膨れ上がり、怪物はそれへ真正面から突っ込んで、そして光球に弾き飛ばされて派手に後ろへひっくり返った。
テーブルや椅子を破壊しながら、怪物があおむけに倒れこんでいった。大蜘蛛の怪物は、ゆっくりと身を起こして、体勢を立て直した。桧藤が、また口の中でつぶやいた。
「並みの邪神程度なら、今の一撃でとっくに消滅するところだが。こいつは一筋縄ではいかないか……」
佳津砂は、呆気にとられてただ呆然とそのやり取りを見ているだけだった。そして口の中で、
「あれが、桧藤の魔眼……なんて強烈な気を放っているの……」
と、つぶやいた。
大蜘蛛は再び立ち上がると、ひときわ大きな雄叫びを上げて桧藤を威嚇した。
「キサマ、その力……我らと同じ力を持っているというのか?ただの人間ではなさそうだな……フフ、だがしかし、ますますお前の力、欲しくなったぞ」
大蜘蛛はそう言うと、口から無数のトゲを吐き出した。さっき、桧藤の手からナイフを弾き飛ばした、鋭い円錐形の物体だった。それが、たくさん桧藤の方へめがけて射出されたのだった。
「ふん!」
だが、今度も、桧藤がその無気味な右眼に気合いを入れると、目に見えないバリアーのようなものが張られて、飛んできたトゲはぜんぶ弾き落とされてしまった。
睨みあう、桧藤と大蜘蛛。そのとき、桧藤の右手から、青白い炎のような、一種のエネルギー体が吹き出してきたかと思うと、それはそのまま、ゆらめく炎が刀身そのものとなったような、一本の剣と化した。その剣は、たえずゆらゆらと刀身をゆらめかせ、青白い光を放っていた。
それを見て、大蜘蛛もその両腕の先から、赤い炎をほとばしらせた。そしてそれらも、赤くゆらめく刀身をもつ、炎のような剣へと変化した。
佳津砂は、ごくり、と生唾を飲み込んで、この戦いに息を飲んで見入っていた。
数秒間、大蜘蛛と桧藤は睨み合っていたが、両者ともほぼ同時に、相手へめがけて突進を開始した。
「だあぁぁぁぁぁぁー!」
桧藤が気合いとともに、大蜘蛛へ走り寄る。ものすごいスピードだ。
大蜘蛛も、その巨体に似合わない素早い動きで、桧藤へ向けて突進してきた。
そして、お互いの剣がぶつかり合う!
両者とも一歩も譲らず、激しく剣と剣とをぶつけ合った。
桧藤が大蜘蛛をなぎ払おうとすれば、大蜘蛛の左手の剣がそれを受け止め、大蜘蛛は右手の剣で桧藤へ攻撃を繰り出す。それを、身軽な動きで危うくかわし、再び大蜘蛛へ一撃を加えようとする。だが、大蜘蛛もなかなかの使い手で、そう易々とはダメージを与えることができない。大蜘蛛は二刀流であることに加え、他の四本の脚先についた爪でも桧藤に攻撃を加えようと、執拗に桧藤の隙を狙っていた。
大蜘蛛の頭を狙った桧藤の一撃を、大蜘蛛は両手の剣をクロスさせて受け止めた。そこへ、四本の脚先の爪で桧藤を突き刺そうとしてくる。桧藤は、アクロバティックな動きで体全体をくるくると回転させながらそれをかわし、そのままその回転の勢いを利用してもう一度斬りかかった。だが、またしても大蜘蛛の太刀に受け止められ、攻撃を当てることができなかった。
どちらも決定的なダメージを相手に与えることができないまま、激しい剣戟が続けられていた。いや、手数が少ない分、桧藤の方がやや不利、といえたかもしれなかった。
大蜘蛛の赤い剣が、左右から交互に桧藤に襲い掛かってくる。それを桧藤は、物凄まじいスピードで剣を左右に振って払いのけ、一瞬の隙を狙って大蜘蛛に攻撃を加えようとする。しかし、またしても大蜘蛛の剣先に受け止められてしまう。なおも下から、横から、上からと剣を振るい続けるが、ことごとく大蜘蛛の太刀に弾き返されてしまった。その間にも、四本の爪をもつ脚もちょこちょこと攻撃を仕掛けてくる。それらをかわすのに気を取られて、大蜘蛛の四足獣じみた後脚が、ひょいと繰り出されたのをかわすことができなかった。桧藤は、大蜘蛛の四対目の脚に思い切り蹴り飛ばされ、吹っ飛んで床に転がってしまった。そこへ、大蜘蛛がとどめを刺そうと両の剣先を下に向けて飛び掛かってきた。ころころと床を転がってそれを危うくかわす桧藤。床に空しく突き立った二本の剣をひき抜いて、また攻撃してくる大蜘蛛。桧藤は素早く、転がりながら体勢を立て直して、大蜘蛛の太刀を剣で受け止めた。また容赦なく大蜘蛛の攻撃が降り注いでくる。桧藤が大蜘蛛の、鋭い爪をもつ四本の脚を切り払おうとしても、大蜘蛛はすぐにそれらの脚を引っ込め、手に持った剣の方で攻撃を仕掛けてきた。いつまで経っても、決着がつきそうもなかった。
佳津砂は、しばらくそのあまりの激しさについつい見とれてしまっていたが、ふと我にかえった。
「はっ……そうだわ。式神の力を借りることはできないけど、私自身の呪力だけでも、攻撃できるはずよ!」
そう思い立つと、佳津砂はふところから、五枚の札を取り出した。その札には、それぞれ色の違う龍の絵が描かれていた。それらの色は、赤、青、黄、白、黒の五色だった。
「五龍の術!!」
佳津砂がそう叫んで、五枚の札を中空へ放り投げると、札に描かれた平面の龍たちが、みるみるふくらんで立体となり、絵ではなく本物の龍の姿に変化して、佳津砂の頭の上をぐるぐると飛び回り始めた。ただ、それらの龍は、長さが一メートルにも満たないくらいの、かなり小ぶりなものであったが。
「本来なら、龍神の力を借りてもっと大きな龍を使役できるところだけど、今は仕方ないわ。それっ、行け、龍たち!」
佳津砂の号令で、だいぶ小さめの五色の龍たちが、いっせいに大蜘蛛の化物へ向けて殺到した。
桧藤との剣戟に夢中になっていた大蜘蛛は、突然現れた、小蠅のような五色の龍たちに邪魔をされて、明らかに集中を乱されたようだった。桧藤の相手をしながらも、残った手や脚を器用に使って、どうにか五色の龍を払い落とそうと躍起になった。そこに、わずかな隙が生まれた。桧藤はすかさず、一瞬の隙をついて、大蜘蛛の右手を一刀のもとに斬りおとした。
「ぎゃーっ!!」
大蜘蛛が、恐ろしいばかりの絶叫をあげる。そして残った左手と四本の脚をばたばたとめちゃくちゃに振り回して、佳津砂の五色の龍をことごとく叩き落としてしまった。そして、少し後ろへ下がって体勢を立て直す。
「こしゃくな人間めが……よくもこのわしの腕を、落としてくれたな」
激しい憤怒に震えた声が、広い食堂内にいんいんと響き渡った。
桧藤は佳津砂の近くへ駆け寄って、言った。
「お前でも、少しは役に立つんだな」
「なんですって、それ、どういう意味!?」
「どうもこうも、そのまんまの意味だが」
「……ッ! し、失礼な……せっかく助けてあげたってのに、そんな言い方しかできないわけ!?」
「待て、怒ってる場合じゃなさそうだぞ」
「怒らせたのは、あんたでしょうが! ……って、うわぁ、確かに、なんだかヤバそうね」
見ると、大蜘蛛の体がいくつにも分身し始めている。二つ、三つ、四つとどんどん分身は増えて行き、最終的には六つに増え、そして桧藤と佳津砂の二人の周囲をぐるりと取り囲んでしまった。
「ぐはははははは。このまま一気に、二人とも喰らってくれるわ」
大蜘蛛の声が、それまでとは比較にならぬほどの大音量で響き渡った。
佳津砂が、桧藤に尋ねた。
「ねぇ、どれが本物なの?」
「まずいな。こいつらは、どれが本物でほかは幻とか、そういうんじゃない。全部が全部、本物だ。ヤツは、本当に分身しているんだ」
それへ、怪物自らが答えた。
「その通り。人間ごときが使う目くらましとは、わけが違うぞ。我らは神なのだからな!さあ、覚悟するがいい」
「くっ、いっせいに襲い掛かられたら、俺一人ならともかく、佳津砂、お前まで守れる保証はないぞ」
佳津砂は、いかにも不服そうに答えた。
「あら、ずいぶんとわたしのことを、舐めくさってくれるわね?いい、見てらっしゃい!」
そう言うと佳津砂は、呪文を唱え始めた。
「左白虎右青龍前玄武後朱雀前後扶翼」
大蜘蛛は、ひと声、高らかに吠えると、いくつにも増えた分身の全部が、六方向からいっせいに二人に向かって突進してきた。
「急々如勅令!」
あわや怪物の牙が二人に喰らいつくかと思えた瞬間、佳津砂がちょうど呪文を唱え終えた。すると、二人の姿が突如として、消えた。
大蜘蛛は思わず、分身した体のそれぞれが頭からはちあわせをしてしまい、ぐちゃぐちゃの大混乱に陥ってしまった。
「お、おのれ……どこへ消えた!?」
大蜘蛛は、分身をやめてまた一つに重なり合い始めた。そして、再び一つの体に戻ったそのとき。
その背後で、佳津砂と桧藤の姿が、再びすーっ、と現れたのだった。
「陰陽道、身固式。邪悪なるものから、姿を見えなくする術よ」
佳津砂が、説明した。
「だぁあありゃあぁぁぁぁぁ!!」
桧藤の顔が、みるみる凄まじい形相へと変じ、大蜘蛛の背後から襲い掛かった。
背後から襲われた大蜘蛛は、慌てて振り返ろうとしたものの間に合わず、ばっさりと左腕と二本の脚を斬り落とされてしまった。
「ぎっ、ぎゃあああああああああああ!!!」
凄まじいばかりの、大蜘蛛の咆哮が耳をつんざく。
桧藤はそのまま、情け容赦もなく太刀を振るい、残る右の二本の脚も切り払い、そして大蜘蛛の頭へ刀身を突き刺した。そして思い切りそれを下へ切り下げ、横へ薙いで、続いてもう一太刀、浴びせかけ、その胴体をななめ斬りに一刀両断した。
大蜘蛛の上体が、ぐらり、と揺らいで、どう、と床に落ちた。
桧藤は右手にゆらめく剣を、すっ、と収めた。右眼が閉じて、前髪が覆いかぶさってくる。そうして普段の姿に戻ると、ふところから小瓶を取り出した。
「ジジャクサ、ガラムイ……」
謎めいた呪文を唱え始める。大蜘蛛の怪物の姿が、すーっ、と煙のように黒い気体へと変化して、小瓶の口元へ吸い寄せられてきた。
佳津砂はその様子を、興味深げに見つめていた。
黒い気体が、あらかた小瓶の中へ吸い込まれたかと見えた、そのときだった。
「なにっ!?」
突如として、黒い気体の流れが、逆流を始めた。黒い気体は、煙のように桧藤から遠ざかって向こうの方へ漂っていき、一箇所に集まり始めている。
「俺の封呪が効かないだと!?」
桧藤が、驚いて声をあげた。
一箇所に集まった黒い煙は、かたまってだんだんと何かの形をとりはじめた。
黒い気体が凝って、次第に形を現してきたのは、ふさふさした毛におおわれたボールのようなものだった。ふつうの人間の背たけよりは大きいようだが、それほど巨大というほどでもない。毛むくじゃらの球が、空中にふわふわと浮かんでいた。その球の下の部分には、小さな突起が二つ、下向きに突き出していた。その二つの突起は、どうも足であるらしかった。さらに、球の左右の両脇にも、それぞれ一つずつ、同じような突起がついている。それらは、どうやら手のようであった。そして、球の上部には、やや大きめの盛り上がりがあり、その盛り上がったところに二つの、赤く光を放つ目が輝いていた。ずんぐりとしたまん丸い毛むくじゃらの胴体に、頭と手足がちょこん、と少しだけ出っ張っている、そんな姿をした奇妙な物体であった。
そして、その“毛玉”から、人間のものとも思えない無気味な笑い声と、それからくぐもった、聞き取りにくい声が、いったいどこでしゃべっているものか、発せられた。
「ぶぉっ、ぶぉっ、ぶぉっ、ぶぉっ。よくも、我の眷属神を倒してくれたな。だが、我らの魂、“神魂”はおぬしには渡さぬ」
「神魂? 神魂って、何?」
佳津砂が尋ねた。それへ桧藤が答える。
「ヤツらは、その肉体は倒せても、魂だけは永遠不滅でな。しばらくすると、いずれ自然に復活してくるのさ。その不滅の魂を、神魂、と呼んでいる」
「へえ、するとあなたは、それが復活できないように、その神魂というのを封じている、ってわけね」
桧藤は、それには何も答えなかった。そんな二人のやり取りにはお構いなく、毛玉の怪物がしゃべり続けた。
「ぶぉっ、ぶぉっ、おぬしらが閣下と呼ぶあの男、あやつに憑りついて、その心を操れば、この日本という国を我らの思うがままにできると思ったのでな、あの大蜘蛛めを遣わしたのだが、あの男、なかなかに強情で、我らの支配を受け入れようとせん。それゆえ、あのようにして苦しめておったのだが……あやつが折れる前に、おぬしらのような者どもが邪魔に入るとは、とんだ計算違いじゃったわ」
「なんですって、お前らみたいな怪物が、日本を支配する、ですって!?」
「ぶぉぶぉぶぉぶぉ、怪物、とはまた、言うてくれるのぅ。我らは、怪物などではないぞ。我らは、おぬしら人間がかつては崇め、奉っておった、神じゃ。神そのもの、なのじゃぞ。さあ、おぬしも、我の前にひれ伏すがよい。ぶぉっぶぉっぶぉっ」
「だ~れが、お前みたいな毛玉の怪物に、ひれ伏すっていうのよ!」
佳津砂が、身構えて戦闘態勢をとった。
「ぶぉっ、ぶぉっ、おおっと、今、おぬしらと一戦交える気は、ないのでな。そうはやるでない。まだ、我の復活は完全ではないゆえ。だがいずれ、我がすべての力を取り戻したあかつきには、おぬしらのような人間ごとき、一吹きでこなごなに打ち砕いてくれようぞ。ぶぉっ、ぶぉっ、ぶぉっ……」
佳津砂は、相変わらず油断なく身構えながら、桧藤に尋ねた。
「わたしも、これまで妖怪とか物の怪、悪霊や怨霊といったものとはさんざん戦ってきたけど、そういうヤツらとは、気の強さが桁違いだわ。あいつ、復活は完全でない、なんて言ってるけど、ものすごい気を感じる。さっきの大蜘蛛といい、こいつといい、いったい何なの? 神だなんて言ってるけど……」
桧藤が答える。
「コイツらは、太古の昔、人間が地球上に現れるよりはるか以前から地球上に存在したモノたち……つまり、ヤツの言うとおり、神、ということだ」
「神? コイツらが?」
佳津砂が驚いて聞き返す。
「そうだ。かつては、人間たちの信仰を集めていたこともあったのだ。だが、その本性が、人間を恐怖で支配し、生け贄を捧げさせたり、気まぐれに大災害を起こして人々の生活を破壊したり、いいように人間をもてあそぶような、そんなものだったので、時代を経るにしたがい、邪悪な存在、つまり邪神とみなされるようになり、信仰を失い、その力も大半を失って、人間界に姿を現すことなどほとんどなくなっていたのだが……最近になって、次々に復活をとげているんだ」
「いったい、なぜ? なぜ、今ごろになって、そんな太古の邪神が復活なんて……?」
桧藤は、ぎりっ、と歯がみしただけで、佳津砂の疑問には何も答えなかった。代わりに、毛玉の怪物が、
「ぶぉーっ、ぶぉっ、ぶぉっ、我らの復活については、そこの、それ、おぬしがよ~く知っておるのではないのか?」
桧藤を見ながらそう言った。佳津砂は息をのんで、桧藤を見つめた。桧藤は、いつもの冷静な彼としては珍しく、悔しげな、どこか感情を無理やり押し殺しているような、思いつめた表情を浮かべながら立ちつくしていた。
「ぶぉっ、ぶぉっ、いずれにせよ、おぬしらが生きていられたら、また会うこともあるかもしれん。では、この場はひきあげることとしよう。ぶぉーっ、ぶぉっ、ぶぉっ、ぶぉっ……」
毛玉の怪物は、最後にさも愉快そうに笑うと、すーっ、と消えてしまった。
その途端。
ぐらぐらぐら、と桧藤と佳津砂の二人が立っている床が、揺れ始めた。
「これって、まさか?」
佳津砂の問いに、いつの間にか普段通りの態度に戻った桧藤が答えた。
「そう、そのまさかだな。結界が崩れるぞ」
「えっ、と、いうことは……」
見上げると、天井がまるで砂の城が崩れるように、いっせいに細かい粒子となって落ちかかってきた。だが、その粒子のひとつひとつは、空中でどんどん消滅していき、二人に降りかかってくることはなかった。天井がそうやって砂粒のようになって崩れ落ちていった後は、壁も同じように崩れ始めた。天井がなくなったところから見える空間は、何もない暗黒の闇だけだった。遠くの方に、何やらうすぼんやりと紫色や赤、青、黄色といったさまざまな色の光を放つ渦巻きがいくつか見えたが、それ以外は何もない、空虚な漆黒の空間が広がっているだけである。
壁がすべて崩れ去ると、今度は床が崩れ始めた。どんどん、桧藤と佳津砂の二人がいる方へ崩壊が迫ってくる。ざーっ、と床は砂粒に変わって、何もない暗闇へと落ちて消えていった。桧藤と佳津砂は、どうすることもできず、ついにはその足元の床さえも崩れ去り、二人は何もない真っ暗な空間に投げ出された。
「わああああああっ!」
「きゃあああああっ!」
踏みしめる地面も、手をかけるところも、何もない空虚な空間に放り出され、どっちが上でどっちが下かも分からない無重力のような暗い闇の中を、ただどこへともなく漂っていくだけだった。
永久に、この時空の狭間を漂い続けることになるのか。
そう、思われた次の瞬間。
巨大な黒々とした影が、どこからともなく猛然と現れた。その影は、人型をしているようで頭と腕が認められた。だが下半身はあいまいな煙が渦巻いているような状態で、足は見えなかった。全体に、濃いグレーの影のような存在で細部がどうなっているのか判然としない。顔には細くて吊り上った黄色い目が輝いており、本来鼻と耳があるべきところが少し盛り上がっているだけで、口は見えなかった。そしてその大きさは、かなり途方もないものであった。
桧藤は、何が現れたのか、と驚き警戒するように巨人を見た。
しかし佳津砂は、その巨大な黒々とした姿を見つけた途端に、ぱっ、と明るい表情を浮かべ、嬉しそうに言った。
「まだ、いてくれたのね!」
その巨人は、桧藤と佳津砂の二人を、ひょい、とその両手で受け止めた。二人が乗っても、その両手のひらはまだかなりの余裕がある広さだった。
「これは?」
巨人の手のひらの上にしりもちをついて、桧藤が佳津砂に尋ねた。
「へっ、へーん、わたしの式神よ!」
佳津砂が、得意そうにふふん、と鼻を鳴らして、ほっそりと形の良いあごをそびやかした。
「結界に入れずに、もう帰ったかと思ってたけど、ちゃんと待っててくれたのね! 頼りになるわあ~♪」
佳津砂が一人で悦に入った。桧藤は、きょとん、とした表情で、ただ巨人のてのひら上にしりもちをついているだけだった。
やがて巨人は、両手のひらで二人を包み込むようにした。遠くの渦巻きさえも何も見えなくなり、ますます暗い闇が二人を包んだ。次の瞬間、どちらが上か下か分からなくなって目が回るような感覚がして、ふっ、と二人とも意識を失った。
*
気が付くと、二人は閣下の屋敷の、玄関を入ってすぐの吹き抜けになったホールに倒れていた。
「どうやら、無事に戻れたようだな」
桧藤が、起き上がりながら言った。
「佳津砂、お前の式神のおかげで、助かったよ」
「少しは、わたしの実力ってものが、分かった?」
佳津砂も、立ち上がりながら自慢げに言った。
「まっ、でも今回の一件だけは、わたし一人の力ではどうすることもできなかったと思うわ。あなたの力も、そうとう、大したもんよ、探偵さん」
桧藤は、口元で軽く笑っただけで、何も答えなかった。
そこに、執事長の瀬場が、二人を発見して走り寄ってきた。
「佳津砂様っ、それに、桧藤様もっ、いったい、どちらにおいででしたか? お二人の姿が屋敷内から消えたので、みなで探し回っていたところでございます」
「えーっと、それは、そのぅ。あっ、そうそう、閣下の様子は、どう?」
佳津砂は、とりあえず誤魔化した。
そこへ、奥の方から一人のメイドが、
「瀬場さん! 閣下が、意識を取り戻されました!!」
と叫びながら駆けてきた。
「なんですってっ、閣下がっ!? 行きましょう!!」
瀬場に促されて、佳津砂と桧藤も、閣下の寝室へ向かった。
「閣下っ!!」
瀬場がドアを開けて寝室へ入った。桧藤と佳津砂も、その後について中に入る。
閣下は、もうすっかり顔色もよくなって、ベッドの上に上体を起こしていた。そして、瀬場の顔を見るなり、
「おお、捨庵か」
と声をかけた。桧藤は、瀬場の名前が自分の懸念したとおりだったので、軽くずっこけた。
「閣下、お体の具合は、大丈夫なのでございますか?」
「ああ、もうすっかり、良いようだ。おや、そちらの客人は?」
閣下が、桧藤に気づいて尋ねた。
「こちらは、閣下にかけられた呪いを解くために、佳津砂様が特別にお呼びしました、桧藤様でございます」
「そうか、では君が、私に憑りついておったあの忌々しい怪物めを退治してくれたのだな。私もこれまで、幾度となく呪いを掛けられたり、怨念を受けたりしたものだったが、あんなヤツに憑りつかれたのは、初めてだった。高熱にうなされている間、頭の中にしつこく、『我を受け入れよ、我を受け入れよ』と何度も何度も迫ってきおった。だが、そう簡単に意識を乗っ取られてしまう私ではないわ。病んだ体で抵抗するのはけっこうきつかったが、いや、君のおかげで、すっかり憑き物が落ちたようだ。礼を言うよ。そうだ、礼金は君の言い値で、いくらでも支払おう。さあ、いくら欲しい?」
桧藤は、いきなりそう尋ねられて、ちょっと思案してから、
「では、お言葉に甘えて」
右手の指を五本立てて見せた。
「分かった、五千万だな。すぐ用意させよう」
「ご、五千……?」
桧藤は、五百万円のつもりだったらしい。桧藤が目を白黒させていると、すぐに小さめのアタッシュケースが運ばれてきた。執事長の瀬場が受け取って、パチン、と開けて中身を桧藤に確かめさせた。中には札束が並べられていた。
「どうぞ、お持ちください」
瀬場は再び、アタッシュケースを閉じると桧藤に手渡した。桧藤は、ちょっと困惑した表情を浮かべながらも、それを受け取って、
「……まいどあり」
とだけ、返事した。
*
佳津砂と桧藤は、来たときと同じベンツの後部座席に乗せられて、帰路についていた。またしても、桧藤の目には目隠しがされている。佳津砂が口を開いた
「ねぇ、あの結界の中に閉じ込められたときだけど」
「なんだ?」
「あのとき、あなた、死のうとしたわよね。あれは、必ず邪魔が入る、と確信していたからなの?」
桧藤は、口元をにやり、とさせて答えた。
「確信はしてないさ。一か八か、だ」
「ええっ!? 一か八か、って、もしあそこで、あの化物が出てこなかったら、あなた死んでたかもしれないのよ?」
驚く佳津砂に、桧藤はいつもの、冷静な、どことなく人を喰ったような調子で答えた。
「俺は、あのくらいじゃ、死なないんだよ」
「え?」
佳津砂には、それが本気で言っているのか、それとも冗談なのか、はかりかねるようだった。ふと、桧藤の首筋を見ると、あのときの傷がきれいに消えてなくなっている。佳津砂は、怪訝そうな顔で、目隠しをされてますます何を考えているのか分からない桧藤を、まじまじと見つめて次の言葉が見つからない様子だった。




