女陰陽師
そこは、とあるラブホテルの前だった。ラブホテルの入り口を見下ろす位置に立つ電信柱の上に、一羽の大きなカラスがとまっていた。そのカラスには、どういうワケか、頭に小さな猫耳のようなものがついているように見えた。もっとも、それはただ単に、たまたま羽毛が逆立っているだけにすぎなかったのかもしれない。しかし、そんなことに目を留める人とてなく、誰にいぶかしがられるということもなかった。
カラスが、しばらくの間、じっと電柱の上にとまっていると、やがてラブホテルから連れだって出てくる男女の姿があった。カラスは、その男女の方に目を向けると、急にしきりにまばたきをし始めた。そして何故か、カラスがまばたきをする度に、妙な、カメラのシャッター音のような音が、カラスから発せられていたのだった。しかし、高い電柱の上にいるカラスのことであるから、そんな音を誰が聞くというでもなく、ラブホテルから出て来た男女は誰にも見とがめられずにその周辺から立ち去ることができて安心している様子だった。
男女の姿が完全に見えなくなると、カラスはバサッ、と羽を広げて、空に飛び立った。
*
「う~ん、おでんの具は、やはりタコに限るな」
事務所のデスクに座り、コンビニエンスストアのおでんを食べている桧藤の姿があった。相変わらず、長い前髪で右眼は完全に覆い隠されている。
その時、桧藤の後ろの窓ガラスが、外側からコツコツと叩かれた。桧藤が振り返ると、窓ガラスの外に大きなカラスがいて、ばっさばっさと羽ばたきながら窓ガラスを口ばしでしきりにつついている。
「戻ったか。ご苦労だった」
桧藤が窓を開けてやると、カラスは事務所の中へすーっ、と滑空してきて、床にサッと着地した。着地したかと思うと、ぼわん、とメイド服を着て頭に猫耳のついた背の小さな少女の姿になった。桧藤の助手の、スーリンであった。
「首尾は、どうだった?」
「それはもう、ばっちりですにゃ♪」
スーリンがくるり、と後ろを向くと、メイド服のスカートの下から、長い猫の尻尾がにゅーっと伸びてきた。伸びてきたかと思うと、その先っぽがポン、とUSBコネクタの端子に変化した。そしてその端子は、桧藤のデスクに置いてあったノートパソコンに接続された。
パソコンの画面上に、次々と画像が表示されていった。さきほどラブホテル前で、カラス姿のスーリンが自身の目で撮影してきた画像に他ならなかった。そこには、ラブホテルに入って行くところと、出ていくところの男女の姿がはっきりと映し出されていた。
「ようし、よくやったぞ。これで、依頼人の社長が納得してくれればいいが。もし、もっと決定的な写真を要求するようなら、調査料を値上げしてやろう。スーリン」
「はい、センセイ」
「冷蔵庫のアイスを、食べていいぞ」
「はーい♪」
冷蔵後からアイスをつかみ出して、スーリンがはしゃいだ。
「わーい、今日は『ガツガツくんソーダ味』ですにゃっ♪」
スーリンは、『ガツガツくんソーダ味』にガツガツと噛りついた。
「浮気調査は、けっこう金になるからな、おいしい仕事だ」
桧藤も、まだ食べ終わっていなかったおでんに喰いついた。
そこへ。
突然、バタン、と事務所のドアがノックもなしに開かれた。
桧藤は見えている左目だけをぱちくりさせて、きょとんとした表情でドアの方を見た。まだ、食べかけのおでんのタコが、口からはみ出たままになっている。スーリンも、アイスにかぶりついてくわえたまま、ドアの方を振り返っていた。
事務所のドアを開けて会釈もなしにいきなり室内にずかずかと入ってきたのは、一人の女だった。
大きくぱっちりと開いた目に黒々とした瞳が、天井からの照明を反射してキラキラと綺麗な輝きを放っている。鼻は大きくも高くもないが、形よく可愛らしい印象だった。小さな唇はやや赤みがかった上品なピンク色に塗られ、ぷるんとつややかで爽やかな透明感があった。まぶたにはうっすらと青のアイシャドウが塗られ、メイクはばっちりだったが厚化粧ではなく、ひたすらナチュラルな感じに仕上げられていた。
さらに、つややかなストレートの黒髪を古風なボブカットにきっちりと切り揃えていて、下手をすると古代エジプトの壁画にでも出てきそうな髪型なのだが、彼女のその風貌ゆえ、まったく今風ではないにもかかわらず、むしろそれがよく似合ってしかも颯爽と決まっていた。えんじ色の少々派手な色使いのスーツに身を包み、膝よりもやや上の丈のタイトスカートからは、余計なぜい肉は一切ついていないが必要な筋肉はしっかりとついた、しなやかで伸びやかなすらりとした美しい脚が伸びていた。
スーツと同じ色に揃えたヒールで速足に桧藤のデスクの方へツカツカと歩いてくるその姿は、すらりと高く、かなり見栄えのするスタイルの持ち主であった。ほっそりとしてはいるが貧弱ではなく、必要な肉はちゃんとついている。日本人にしてはとても小顔で、美しさと可愛らしさを両方兼ね備えたような、なんだかマネキン人形がそのまま生命を持って動き出したらこうなるのではないか、と思われるような容姿であった。胸には五芒星形をモチーフとしたデザインの、どこか呪術的な雰囲気を漂わせた謎めいたブローチがつけられていた。耳にも、同様のイヤリングがつけられている。手にはどこかのブランド品なのであろう、ハンドバッグが下げられていたが、それがどこのどういうブランドなのか、桧藤にはよく分からなかった。その身なりやメイクから、一見して大人の女性らしく装ってはいるが、実際の年齢はそれほどまだいっていない様子に思われる。
だがその態度には、ただの若い女とは思えないものがあった。
初めて尋ねる事務所であっても、全く臆する様子も、遠慮する素振りもなく、大きくてキラキラ輝くその目には、何か大きな自信と強い意志力が宿っているかのようで、きりりと引き締まった眉も、彼女のその果断そうな気性を物語っていた。
女は、桧藤の前までくると、唐突に声を掛けた。
「私立探偵の桧藤焔というのは、あなたね?」
礼儀もへったくれも、あったものではない。
桧藤は、口にくわえたままだったタコの足を一気にごくり、と飲み込むと、
「いかにも、探偵の桧藤とは、この俺だが、何か?」
と切り返した。
「わたしは、こういう者よ」
女はそう言って、ハンドバッグから名刺を刺すと桧藤に差し出した。桧藤が名刺を受け取ると、女は、
「ここ、いいわね?」
と、デスクのすぐ前にいつも置いてある背もたれのない腰掛に、桧藤の返事も待たずに腰を下ろした。タイトスカートから、彼女の健康そうな太ももが露出してきた。
桧藤は、それへは一瞥もくれずに、渡された名刺に目を落としていた。
名刺には、次のように書かれていた。
内務省神霊対策局特殊事件捜査課
捜査主任 泉台守院 佳津砂
桧藤は、その突っ込みどころ満載の名刺を興味深げに少しの間眺めていたが、やがて口を開いた。
「……ええと、失礼ながら、お名前は何とお読みすれば?」
「わたしは、せんだいしゅいん、かずさといいます」
「それから、内務省というのは戦後、GHQによって廃止されたと思ったが」
「表向きは、ね。泉台守院家は代々、古くは平安時代から天皇家に、その後は将軍家、戦時中は軍部という風に、時の権力者に仕えて、神霊がらみの祟りや呪いから彼らを守護したり、霊的な障害を排除したりするのを生業として、この日本という国を陰から支えてきたのよ」
「そんな話は、一度も聞いたことがないぞ」
「当然よ。わたしたちは、決して歴史の表舞台には現れないの。神霊対策局は明治六年に内務省が設置されたときに泉台守院家の者を中心として組織され、内務省の管轄下に置かれたんだけど、その存在は極秘中の極秘扱いとされ、ほんの一握りの権力者しか知ることはできなかった。そして、それは今でも変わっていない。わたしたちは、誰にも知られることなく、大物政治家や財界のトップに君臨する人たち、それに今の天皇家……そういった人たちの、霊的守護を仰せつかっているのよ。神霊対策局は、もともとが極秘の組織だったから、内務省の廃止後も、当時の総理大臣とGHQの意向により、政府直属の機関として秘密裡に残されたの。そのへんの経緯は、詳しく話し出すと長くなっちゃうんだけど」
「で、その政府御用達だか何だかの秘密機関が、うちみたいな零細企業に、どんな用があるというんだ?」
桧藤は、佳津砂の話には大して興味もなさそうに、尋ねた。
「それなのよ。実は、ちょっと素性を明かすわけにはいかないんだけど、ある政財界の大物が……彼は、もとはある大貴族の血筋を引いてるんだけど、今でも政界、財界に巨大な影響力を持っていて、政治家が総理大臣に就任できるかどうかは、ひとえに彼の心づもりひとつにかかっていると言われるほどだわ。巨額の金が動く大きな利権も、その大半を実質、彼が動かしていると言っていいの。この日本を、影で支配している本当の権力者のうちの一人、ということね」
佳津砂は、いったん言葉を切った。が、すぐに言葉を続けた。
「その大人物に、ある種の『呪い』がかけられたようなの」
「呪い?」
「そう、その人は……みんなは、いつも『閣下』と呼んでいるから、わたしも閣下と呼ぶことにするけど、閣下の具合が悪くなったのは、もう一週間ほど前のことになるわ。最初は軽い発熱だけだったから、ちょっと風邪をひいただけだと誰もが思っていたの。ところが、二日たっても三日たっても、熱が下がらないどころがどんどん上がる一方で、さすがにお抱えの医者を呼んで診察してもらったんだけど、どんな検査をしてもウイルスも細菌も何も検出されないし、臓器もどこも悪くない。医学的には何の問題もない、という結果しか出なかったのよ。これはおかしい、と皆がいぶかしんでいるうちに、閣下の胸に、妙な斑紋が浮き出してきてね」
「斑紋?」
「ええ、見たことのない、異様な文様でね。そこで、これは病気ではなくて、何か呪いとかそういう類のものだ、と判断されて、急遽わたしが呼ばれたんだけど……」
「うん、それで」
「泉台守院家は、先祖代々、陰陽道を家業としていてね。当然、わたしも陰陽師なんだけど、呪術の専門家ということで、わたしが呼ばれたっていうわけ。ところが、わたしもいろいろとそっち方面の仕事はこれまでもたくさんしてきたし、知識も経験もそれなりにあるつもりでいたわ。それなのに……悔しいけど、今回のこの一件は、このわたしでも、その『呪い』を解くことができないばかりか、『呪い』の正体をつかむことさえ、できなかったのよ」
「ほう……いや、ちょっと待ってくれ。陰陽師といえば、明治三年に『陰陽道禁止令』が出されて日本からいなくなったハズじゃないか?」
「あら、意外と詳しいのね。でも、それも、表向きでね。実は、陰陽道の呪術的すごさをよく知っていた当時の日本政府が、一般人がこれを使用して体制転覆を謀ったりされてはたまらない、と考えて、禁止しておいて自分たちだけが独占しようとしたのね。その結果、本当の陰陽師は、わたしたち泉台守院家の者だけになったのよ」
「……そんな、歴史の裏話を、俺みたいなのに語って大丈夫なのか?」
「あら、探偵には守秘義務があるでしょ。それに、あなたがそんなことを軽々しく他言するとも思えないわ」
「まぁ、確かに。で、話の続きは?」
「あ、そうそう。それで、この不可解な『呪い』の一件を、あなたに解決してもらいたい、と思ってね。わたし自らが、こうして出向いてきた、ってわけ」
なんだか自信満々に語る佳津砂の言葉を聞いて、桧藤はちょっと呆れたように沈黙してから、口を開いた。
「……いや、あのな。ウチはただの探偵事務所であってだな。そんな『呪い』だとか呪術だとか、そんなオカルトとは全く関わりなんぞ、ないんだけどな」
すると佳津砂は、さっきよりもさらに得意げな表情になって、
「あ~ら、今さら何をすっとぼけてるのかしら。あなたのことは、すでに調査済みよ。探偵稼業の裏で、この世のものでないような悪鬼、妖怪の類を斃してるって。こないだの、連続ミイラ化事件も、表向きはいまだに未解決事件ということになってるけど、原因となった『モノ』をあなたが封じたことは、もう調べがついているわ。わたしたちの調査網を、甘く見ないでちょうだい」
佳津砂が、ふふん、と鼻息を荒くした。桧藤は、冷静さを崩さなかった。
「……やれやれ、何の話だか。俺にはさっぱり分からんな。とにかく、ウチはペット探しや人探し、それに浮気調査といった、ごく普通の探偵業をメインにしてる、零細にすぎん。用がないんなら、さっさと帰ってくれ。スーリン」
「はい、センセイ」
佳津砂の長話の間に、アイスを食べ終わって横でずっと話を聞いていたスーリンが答えた。
「お客様のお帰りだ」
「はい、センセイ。さっ、お帰りくださいませにゃ」
スーリンは、佳津砂に近づいて、帰るよう促した。佳津砂も、負けてはいなかった。
「な、なによ。わたしはまだ帰らないわよ。ちょっと、あなた、何よこの使い魔は。これは、あなたの趣味なわけ?」
スーリンのメイド服姿を見て、佳津砂が桧藤に詰問した。それへは桧藤は何も答えず、代わりにスーリンから返答があった。
「ご主人様にお仕えするときの、正式な服装ですにゃ。文句を言われる筋合いはありませんにゃっ!」
「……っ!さっきから聞いてれば、にゃ~にゃ~、にゃ~にゃ~って、何なのよ、そのしゃべり方はっ!イライラするのよっ!」
佳津砂が、なんだか切れたようだった。
それまで可愛らしかったスーリンの表情が、にわかに物騒なかげりを帯びて、目が猫のそれのようになってつりあがり、口からは牙がのぞいて、凶暴そうな様相を呈してきた。そしてスーリンはひょい、と書棚の上に飛び乗って、猫のように四つん這いの姿勢で、佳津砂の方を睨みつけてフシャーッ、と威嚇の声を発した。
「……人間の女が、何かほざいてますにゃ」
スーリンから、妙に冷静な声が発せられた。その冷静さが、逆に恐ろしげな雰囲気を醸し出していた。桧藤が、割って入った。
「おいおい、事務所でケンカは止めてくれ。ええと、佳津砂さん、とかいったかな」
「佳津砂、でいいわよ」
「では、佳津砂。とにかく、そういう特殊な案件は、ウチでは取り扱ってないんでね。お引き取り願うしか、ない。よろしいかな」
「あなたも、強情ね。分かったわ、じゃあ、これでどう?」
佳津砂はそう言うと、持っていたハンドバッグから、いきなり札束を取り出して、ドン、と机の上に置いた。見たところ、軽く三百万円はありそうだった。
桧藤が左目を丸くして、札束を見ていると佳津砂が続けた。
「とにかく、依頼の内容はどうでもいい、わたしといっしょに来てくれるだけでいいわ。足りなければ、後から成功報酬でいくらでもお支払いするわよ。なんだったら……私の陰陽道で、あなたを呪縛して無理やり引っ張っていってもいいんだけど」
それは、脅しかそれとも駆け引きだったか、どちらであるにせよ、桧藤がその程度の術にかかるとも思えなかった。
「ぷっ、くくく……あーっはっはっはっはっ」
突然、桧藤が笑い出した。今度は、佳津砂が目を丸くして桧藤を見た。
「はぁ、はぁ。やれやれ。分かったよ、依頼内容は、聞かなかったことにしよう。とにかくいっしょに来てほしい、依頼の中身については後で、ということで、金の重みに応えようじゃないか。スーリン、いい加減、降りてきなさい」
スーリンの顔が、すぅっ、と元の少女の顔に戻り、さっ、と床に降り立った。
「じゃあ、ちょっと出かけてくるから、留守番を頼む。おい、さっさと行くぞ」
「え、ちょっと、待ってよ」
桧藤は、さっさと事務所を出て行った。後から、佳津砂が慌ててついて行く。スーリンは、出ていく二人へ一礼すると、最後にベっ、と舌を出しておいて、机の上に置かれた三百万円を持って奥の部屋へ入って行った。奥の部屋には、金庫でも置いてあるのに違いなかった。
*
「ごめんなさいね、無理やり連れてきたみたいで」
黒塗りのベンツの後部座席で、佳津砂が言った。
桧藤は、佳津砂の隣に座り、目隠しをされていた。
「その上、勝手なお願いばかりしてしまって」
どうやら、目隠しの件について謝りたいらしい。
「いや、構わんよ」
桧藤は、特に気にする風でもなく、平然と答えた。
二人を乗せたベンツは、寡黙な運転手に操られてどんどん郊外の方へと走ってゆく。
「これから向かう、閣下の邸宅は、一般人にはその所在を知らせてはいけないことになってるのよ。ちょっと不自由させてしまうけど、勘弁してね」
「ああ、依頼人の事情には、配慮するさ」
「ありがとう。閣下はね、さっきも言ったとおり、影でかなりの権力をふるっていて、影響力も極めて大きいわ。だから、当然、敵も多くてね。これまでも、さんざん『呪い』だの『呪詛』だのを仕掛けられてきたわ。その度に、わたしが『呪詛返し』を行ったり、あるいは呪いが届かないようにあらかじめ結界を張って防いだり、いわば霊的ボディーガードを務めてきたの。ところが今回だけは、そのわたしでさえも何をやっても歯が立たない有様で……ちょっと、聞いてる?」
桧藤は、佳津砂の話を聞いているのか、いないのか、なんだか眠っているように見えた。
「……まあ、いいわ。詳しいことは、閣下に直接会ってもらえば分かるでしょう」
黒塗りのベンツは、だんだん山の方へと入っていくようであった。そして建物らしい建物もすっかり見えなくなり、人気のない山道を、運転手は慣れた様子ですいすいと車を走らせて行った。
しばらく走ると、前方に巨大な門が見えてきた。西洋風の鉄門で、白く塗られた鉄格子状の門扉からは、中の様子がよく見えた。門は高さが五メートルはあろうかという大きさで、上の部分は全て鋭く尖っており、まるでたくさんの槍が生えているようであった。ベンツが近づいて行くと、鉄の門は金属がきしむ音をたてながら、内側から開いた。ベンツを中へ通すと、門はまた、妙に甲高いきしみを発して閉じられた。自動的に開閉する仕組みなのか、それとも誰かがどこかで操作しているのか、それは分からなかった。
門の内側に入っても、屋敷はまだ見えてこなかった。そこは芝生や木立、それに池などが配置された広大な庭になっていて、ベンツはそれらの間をぬうようにしてどんどん奥へと進んでいく。途中、芝生の上に、執事服姿の男がいて、芝刈機を使っているのが見えた。
ほどなくして、ベンツはようやく、豪壮な洋館の前の車寄せに停車した。
「着いたわ。もう目隠しを外していいわよ」
佳津砂に言われて、桧藤は無造作に目隠しをとった。ベンツから降りると、目の前に巨大な洋風建築がその堂々たる姿を誇示するかのようにそびえ建っていた。
それは、おそらく明治時代にでも建てられたのであろう、鹿鳴館時代を彷彿とさせる建築様式で、白く塗られた壁に西洋風の窓がいくつも開いており、屋根はさすがに時代を感じさせてくすんだ青色だったが、窓枠の上や屋根のへりに彫り込まれた装飾がいかにもかつての大貴族の邸宅らしく豪華で華やかな雰囲気を醸し出していた。見たところ、屋根裏部屋を含めると三階建てのようで、しかも正面の玄関部分は建物から張り出した角塔になっていて、そこは四階分くらいの高さがありそうだった。そして重厚な玄関入り口には、列柱に支えられた屋根がついていて、屋根の上はどうやら角塔の二階部分から入れるテラスになっているようだった。
すべてが、往時の権勢と豪奢を物語っていたが、今はどことなく古びて、寂れた印象を与えてしまうことは否定しきれなかった。その手の建築マニアでもあれば、そこがまたいい味わいだと評したかもしれない。しかし桧藤に限っては、そのような情趣に心を動かされるということはまったくないようだった。
玄関前には、執事の格好をした男が一人、待ち構えていて、佳津砂と桧藤が近づいて行くと、腰を直角に曲げて深々と一礼した。
「お待ちしておりました、佳津砂様」
「例の客人をお連れしたわ。私立探偵の桧藤さんよ。あ、こちらは、このお屋敷で執事長を務めていらっしゃる、瀬場さんという方よ」
佳津砂が、桧藤に執事長の瀬場を紹介した。
「お初にお目にかかります」
「ああ、こちらこそ、よろしく」
ぶっきらぼうに挨拶を返した桧藤は、執事長の瀬場の、下の名前まではあえて聞こうとは思わなかった。彼のフルネームが、瀬場捨庵とかいうのだったら、イヤだな、などと秘かに考えたからだった。
「閣下の容体は、どうなの?」
佳津砂が、瀬場に尋ねた。
「思わしくありません。本来であれば、お客人をおもてなしするところですが、今は危急の事態です。どうか、すぐに閣下にお目通り願いたい」
「分かっているわ。じゃ、急ぎましょう、探偵さん」
佳津砂が桧藤を促した。そして二人は、瀬場に案内されて屋敷の中へ入って行った。
玄関の、重々しいが華麗な装飾を施された扉を開けて中に入ると、そこは天井の高いホールになっていた。二階まで吹き抜けになっていて、見上げると二階の廊下の手すりが見える。その手すりや、二階部分を支える柱、それに壁とすべての部分に品のいい模様が彫刻されていて、全体に落ち着いたセピア調の色合いで統一されていた。奥には階段が見え、階段は途中で2回ほど直角に曲がって、階上へと続いているようだった。
瀬場はもちろんのこと、佳津砂もこの屋敷の勝手はよく知っているようで、どんどんと奥へと歩いて行く。桧藤は、二人の後からただついて行くだけだった。廊下にはときどき、大理石の彫像や、油絵が飾られていたが、桧藤にはそれらの価値についてはよく分からなかった。途中、何人かのメイドや、まだ若そうな執事とすれ違ったが、彼らはみな一様に、執事長の瀬場、佳津砂、それに桧藤へも丁重な礼をするのを忘れなかった。
ひときわ奥まった一室の前まで来ると、執事長の瀬場がドアを静かにノックした。そして中からの返事を待たずに、ドアを開けて室内へ入った。佳津砂と桧藤も、その後に続いて室内へと足を踏み入れた。
そこは、この屋敷の主の寝室になっていた。広い室内の、奥には天蓋付きの巨大なベッドが置かれ、壁際には暖炉があった。寝室ということであまり派手な装飾はなく、この屋敷の他の部分と同じく、落ち着いた色調で整えられていた。
巨大なベッドには、見事な白髪に、これまた真っ白な立派な口髭をたくわえた老人が眠っていた。老人とはいっても、体つきは大柄でがっしりしていそうな様子が布団の上からでもうかがえた。顔つきも横幅が広く精悍で、たくましくて剛毅そうな印象を与える。ただ、病床に伏しているため、目の下に隈ができて、若干やつれて憔悴した様子であることは誰の目にも明らかであった。
老人は高熱にうかされているようで、苦しげに息を荒くしていた。
「ご覧の通り、閣下はもう1週間ほど、お熱がいっこうに下がる気配もありません。それだけではなく……」
執事長の瀬場は、そう言うと老人の布団を少しめくって、彼の胸元をはだけさせた。閣下と呼ばれる老人の、露わになった胸には、奇妙な文様が浮き出していた。それは、黒い斑点と、筆で描いたような三日月型の曲線が複数組み合わされたような見たことのない模様で、どことなく梵字に似ていなくもなかったが、見れば見るほど梵字ともまた違う、何か別なものであるとしか思えなかった。
「かような不可解な文様が閣下の胸元に浮き出すに至りまして、こちらの佳津砂様を急遽、お呼び立てして陰陽道の式占によりその原因を探っていただいたのですが、これが何らかの『呪い』の類であることは間違いないものの、その正体までは探り出すことができず、どうにも途方に暮れていたところ、佳津砂様がこうした案件に打ってつけの人物をご存じだと申されます故、貴殿に急ぎおいで願ったという次第でございます」
瀬場が桧藤に説明すると、佳津砂が続けて言った。
「まぁ、そんなようなわけなんだけど、どう? あなた、この文様に見覚えはあって?」
桧藤は、閣下の胸に浮き出した、無気味な文様を見たくもなさそうに見ていたが、
「……さあな。俺にも、これが何なのかは、さっぱり分からん」
素気なく、答えた。
「な、なんと……」
瀬場が、がっくりと肩を落とした。心の底から落胆した様子であった。それへ、桧藤が言葉を付け加える。
「ただ、見覚えはないが、この文様、何かに似ている気がする」
「何か、って、なに?」
「う~ん、俺の記憶だと、これは、おそらく……超古代文字の一種なんじゃないかと思う」
「超古代文字?」
「そう。この一件……もし、俺の予想が当たっているとしたら、かなりやっかいなことになりそうだな」
「やっかいなことに……あなた、やっぱり何か分かったのね?」
「いや、分かったわけじゃないさ。今はまだ、推測の域を出ない」
そこへ、瀬場が必死な面持ちで桧藤に懇願してきた。
「お、お願いします、これ以上高熱が続けば、閣下といえどもお命が危のうございます。どうか、どうか閣下をお救いください!」
「う~ん、救う、といってもなぁ。俺は病気治療や、呪いのお祓いは専門外なんだがなぁ」
桧藤が、困ったように言った。
「今回は、あなたの専門だと、思ったんだけどねぇ……」
佳津砂が、ちょっと残念そうに言う。それへ桧藤は、気楽そうに返した。
「まっ、ここでこうしていても、埒は空くまい。ええと、瀬場さんといったかな」
「はい、何でございましょう」
「ちょっと、屋敷の中を見て回っても、いいかな」
「屋敷の中、でございますか。あまり外部の者に入られては、具合の良くない部屋も多数ございますゆえ、それはいかがなものかと……」
「閣下を救う手がかりが、見つかるかもしれないとしても?」
「そ、それは……そのぅ……そうですな、そういうことでしたら、致し方ありませんな。では、廊下だけでしたら、どこなりとご自由に見て回ってもらって構いません。ただし、あまり勝手に扉を開けて部屋にお入りになることは、ご遠慮願えますかな」
「ああ、構わんよ。では、俺はこれで」
そう言うなり、桧藤は部屋を出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ!」
佳津砂が、あわててその後を追った。




