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闇に潜むモノ

 一方、事務所を後にしたスーリンと花菜は、暗い通りを駅の方角へ向けて歩いていた。小さい割には速足でどんどん歩いていくスーリンに、花菜(はな)が尋ねた。

「あの、スーリンさんは、ずっとあの事務所で働いてらっしゃるのですか?」

「わたしですか?はい、ずっと働いてますにゃ」

 花菜は、内心、このしゃべり方はふざけているのだろうか、それとも素なんだろうか、とちょっと戸惑いながら、また尋ねた。

「あの、スーリンさんは、おいくつでいらっしゃるのですか?」

「わたしの歳ですか?今年で、ちょうど580歳になりますにゃっ!」

「はい???」

 花菜は、聞き間違えたかな、と思ってもう一度、尋ねようとした。しかしそのとき、目の前に見覚えのある二人の男が現れたのだった。

「あれ~? あんたは、さっきの!」

 さっき、桧藤(ひのふじ)の事務所へ行く前にからまれた、金髪と丸坊主の二人だった。二人は、桧藤の姿が近くにないことを確かめてから、花菜に近づいてきた。

「へっへ~、さっきの変なヤツはいねぇようだな。さて、話の続きをさせてもらおうかぁ」

「はっはっは~、そうそう、じ~っくりたっぷりと、ね」

「!」

 花菜が、思わず後ずさる。そこへ、前にずい、と出て二人と花菜の間に立ちふさがったのは、小さな猫耳娘のスーリンだった。

「……なんだ、このコスプレのガキんちょは」

「子どもにゃ、用はねぇんだよ。さっさと帰って寝ろ」

 次の瞬間。

 スーリンの小さな姿が、ぼわん、と巨大な猫の姿になっていた。

 身の丈3メートルはあろうかという、後ろ足で直立する巨大な猫で、灰色の体毛を逆立てて獰猛な牙をむきだし、巨人さながらにそびえたっていた。

「……?」

 何が起こったのか理解しきれず、絶句する二人の男。スーリンが化けた猫は、両手のツメをギラリと光らせて、フシャーッ、と威嚇した。

「ひっ……」

 今度は男たちが後ずさりした。そこへ、巨大猫スーリンの強烈な猫パンチが雷光のように鋭く、目にもとまらぬ速さで繰り出された。

「ぎゃひーっ‼」

「どほーっ‼」

 金髪と丸坊主、二人の男は10メートルほど向こうの方まで吹っ飛ばされ、ゴミ集積所のゴミ袋の山の中に突き刺さった。

 スーリンは、何事もなかったかのように一瞬でもとのメイド服姿の猫耳娘にもどって、

「さっ、行きましょうにゃ♪」

 と花菜を促した。

「は、はぁ……」

 花菜は、何がどうなっているのか、全く理解できずに、頭の上に「?」マークをたくさん飛ばしながら、スーリンの後についていった。

 ゴミの山からもがき出して、上半身だけのぞかせた金髪は、

「は、はは……今日は、もう帰って寝よう」

 そう言って、がくり、とまたゴミの上に突っ伏した。丸坊主は、ゴミの中に突っ込んだまま、足をピクピクさせているだけだった。


           *


 その頃、桧藤は事務所で独り言をつぶやきながら“作業”に入っていた。

「人探し、とは言っても、いつものペット探しと要領は一緒だ。まずは……」

 預かった歯ブラシを机の上に置いて、右手をかざした。そして左手に持った写真を見る。

「……動物でも人間でも、生命体はそれぞれに固有の生体オーラを放っている。そのオーラが放つ波動は、各個体によって特徴的で、一つとして同じものはない。そしてその波動は、いつも使用しているモノにも染みつく……まずは、その波動の持つ周波数とでも言うべきか、特有の波長、“霊波動”を感じ取るんだ」

 桧藤の、歯ブラシにかざされた右手から、ぼんやりと緑色の光が放たれ始めた。まるで歯ブラシをスキャンしてでもいるかのように。

「さらに、写真でその対象となるものの姿を確認すれば、より精度が増す」

 桧藤は、誰に言うともなく、言う。

 しばらく、そのまま右手をかざしていたが、もう十分だと思ったのか、すっ、と右手を引いた。

「よし、これで、ターゲットの霊波動は完全に把握した。次は……」

 地図を取り出して、机の上に広げた。

「地図を用いた、ダウジングを行う。ただし、俺は地図以外の道具は使わない……この右手があれば、十分だ」

 そう言って、右手を地図上にかざした。地図の上を隅から隅まで、かざした右手を移動させていく。右手は、相変わらず緑色の光を放っている。

「地図上に、ターゲットの居場所があれば、すぐに右手が反応する……」

しばらくの間、そうして地図の上に右手をかざし続けていた。

 やがて、急に桧藤の眉根が曇った。

「……おかしい。いつもなら、すぐに居場所が見つかるのだが」

 今度は、地図をもっと広範囲のものに取り換えて、同じように右手をかざしてみた。さっきよりも長く、右手をかざし続けていた。しかし、結果は同じであった。

「どうしたことだ。ターゲットが見つからない。日本国外まで連れ去られた、という可能性も考えられなくはないが……俺のダウジングには、距離は関係ない。たとえ地球の裏側だろうが、どこにいようと波動をキャッチすることができる。時間さえ掛ければ、必ず見つけ出すことが可能だが、しかし今回の場合は……」

 そこへ、花菜を無事に駅まで送り届けたスーリンが帰ってきた。花菜は、どうやら終電には間に合ったようだった。

「ただいまです、センセイ」

「おぅ、スーリンか。いいところへ戻ってきた。ちょっと、連続怪死事件の資料を出してくれないか」

「はい、センセイ」

 スーリンが書棚から資料を出している間も、桧藤は独り言を続けていた。

「……もし万が一、ターゲットが死亡していたとしても、霊波動はしばらくの間は死体からでも出続けているから、感知できないということはない。完全に火葬されてしまえば別だが、まさかそれはないだろう。だとすると……」

 スーリンが、連続怪死事件に関する新聞記事、週刊誌記事、そしてインターネットのプリントアウトなどの資料を、桧藤の机の上にどさっ、と置いた。

「この一連の、連続怪死事件との関連を疑わなければならない、ということだ」

「……どういうことですかにゃ?」

 桧藤は、資料にざっと目を通しながら、説明を続ける。

「今起こっている連続怪死事件は、被害者が失踪してから3日後に、カラカラに干からびてミイラ化したような遺体となって発見される、というものだ。被害者はさっきのニュースで5人となったが、それぞれ年齢、性別、職業、家族構成その他に、共通点は何一つとしてない。まったく無作為に選ばれているとしか、思えない。そして5回も連続しているこの事件の最大の特徴は、毎回毎回必ず、遺体発見とほぼ時を同じくして、次の犠牲者が失踪しているらしい、ということだ。今回のターゲットが失踪したのが昨日で、さっきのニュースで言っていた5人目の犠牲者が発見されたのも昨日、となると、失踪したターゲットも明日には、同様の遺体となって発見される可能性が非常に高い……さらに」

 桧藤は、言葉を続けた。

「遺体を直接見たワケではないが、人間の死体が2~3日やそこらで完全にミイラ化する、などというのは、極めて異常なことだ。そんなことは、物理的な作用の産物では、決してあり得ない。これは明らかに、物質的な肉体ではなく精神体、アストラル体の側から、生体エネルギーを直接吸い取られ、吸い尽くされた結果、そのような状態になった、と考えるのが自然だ。となると……今回のこの一連の怪死事件、犯人は明らかに人間などではなく、闇に住まい、闇に潜むもの……邪悪な妖魅の類に間違いない。だとすれば、ターゲットの居所が俺のダウジングをもってしても感知できない理由は、二つ考えられる」

 それへ、スーリンが答えた。

「被害者の生体エネルギーが、完全に吸い尽くされてなくなってしまった場合ですにゃ」

「そう。それと、被害者が何らかの結界の中に捕らわれていて、霊波動が外に漏れ出さない、という場合だ。おそらく、今ならまだ被害者は完全に生体エネルギーを吸い尽くされてはいないだろう。明日になってしまったら、もう手遅れかもしれないが。よし、すぐに動くぞ」

「どうするんですかにゃ?」

「スーリン、さっきのニュースに映っていた現場がどこか、分かるか?」

「それはもう、すぐに分かりますにゃ。伊達にいつもあちこち、飛び回ってませんにゃっ」

「今から現場に行って、怪死事件の犯人の手掛かりを探すぞ。案内してくれ」


              *


「ここが遺体発見現場か……」

 そこは、遺体の発見現場としてはありふれた、人気のない寂れた河川敷だった。付近に民家などの建物はなく、木立に遮られて見通しも悪い。人の手が入らずほったらかしの河川敷には、背が高く伸びた雑草が生い茂っていた。

「スーリン、その辺に、刑事が張ってたりはしないか?」

 桧藤の声に応えて、スーリンの瞳が猫のそれのように変化して怪しい光を放ち始め、辺りの気配を探っている様子だった。少しして、スーリンが答えた。

「……人間は誰もいませんにゃ」

「そうか。人間以外のモノは、いるのか」

「いえ、人間でないモノも、何もいませんです。せいぜい、カラスか野良猫くらいですにゃ」

「なら、いいんだが。それでは、と……」

 桧藤は、生い茂る雑草をかき分けて進みつつ、また右手をぼうっ、と光らせて、辺りに何か手がかりとなりそうな気配や、妖気といったものが感知できないかどうか、探り始めた。

 しばらくの間、そうやって辺りを調べていたが、やがて口を開いた。

「う~ん、ダメだな」

「ダメですかにゃ?」

「ああ。何の痕跡も、残っていない。人間を3日でミイラにしてしまうほどの力を持つヤツなら、何か怪しい『気』のようなものを残しているかと思ったのだが……」

 桧藤は、ちょっと考え込んだ。

「こうなったら、死体そのものに当たるしかないかな。あのミイラ化した死体になら、何か痕跡が残っているかもしれない。そうだな、さっきのニュースでは、遺体は昨日発見された、と言っていたな」

「はい、センセイ」

「司法解剖は、普通、大学病院の中にある法医学教室で行われるが、まだそちらに廻されてはいないだろう。よし、警察署の死体置き場に忍び込むぞ」


           *


「もう深夜の2時過ぎか……」

桧藤が警察署の近くまで来て、辺りの様子をうかがいながらつぶやいた。深夜でも、当然ながら警察署には明かりが灯っている。事件や事故があれば、すぐにでも当直の警察官が飛び出してくるだろう。しかし深夜ともなれば、辺りに人影はなく、表に警察官が立って見張っているということもない。通りに面した広い駐車場の端の方から入ると、正面入り口の奥にいるであろう警察官に見とがめられることもなく、敷地内に易々と入って行くことができた。桧藤たちは、そのまま正面を避けて建物の横の方へまわり、裏手へと進入していった。

「……裏口の扉は、ちゃんと施錠されているな」

 用心深く手袋をはめた手で、裏口のドアに触れて桧藤がつぶやいた。

「スーリン、すまんが、中に入って鍵を開けてくれないか」

「分かりましたにゃ♪」

 言われるとすぐに、スーリンはぼわん、と猫の姿に化身した。桧藤の事務所にいた、見事な毛並みのヒマラヤンだった。そのままスタタタタと駆けて行き、堂々と正面入り口へ向かった。

 正面入り口は自動ドアになっていて、スーリンが近づくと鈍い音をたてて左右に開いた。入り口を入ってすぐは来署する人のためのロビーになっていて、警察官はカウンターの奥に座っている。正面入り口の自動ドアが開いたので、カウンター越しに当直の警察官が「うん?」とそちらへ目をやった。しかし、猫に化身したスーリンの小さな姿は、カウンターの下に隠れて警察官からは見えなかった。

 警察官は、自動ドアが開いたにもかかわらず誰も入ってくる様子がないので、怪訝そうな顔をして同僚に声をかけた。

「おい、今、自動ドアが開いたぞ」

「あ~ん?」

 何かの雑誌に読みふけっていた同僚が、面倒くさそうに顔をあげた。そして、今はもう閉じてしまっている正面の自動ドアを見た。

「別に、何ともないぞ」

「いや、今、確かに開いたんだよ。でも、誰もいないんだ。おかしいと思わないか」

「誰かのイタズラじゃないのか~?心配なら、見てこいよ」

「ああ、ちょっと見てくる」

 そんなやり取りの間、猫のスーリンはカウンターの下を通って、まんまと警察署内に入り込んでいた。

 正面入り口の付近を見回ってきた警察官は、特にこれといった異常は見つからず、誰もいないので、何だったんだろう、といぶかしく思いながらも、仕方なく戻ってきた。

「なんだか、変な感じだなぁ。あの薄気味悪い仏さんのこともあるしなぁ……」

「お、おい。よせよ、こんな時に。何もあるわけないって」

「だったら、いいんだけどよ。でもなぁ……考えてもみろよ、人間が、たった数日であんなカラカラに干からびたような状態になると思うか?ありゃぁ、どう考えても人間業じゃねぇよ。」

「ばかやろ、人間じゃなかったら、誰がやるってんだよ」

「それは、知らないけどさ。聞いてるか?上の判断じゃ、あの事件は表向き、捜査本部を立ち上げたことにしちゃあいるが、捜査する気はぜんぜんないって。結局、時間が経てば迷宮入り、っていういつものパターンだよ」

「ああ、看板だけの捜査本部だよな。あんな気味の悪い事件になんざ、誰だって関わりたくはねぇさ」

「ああ、全くだ。だけどよぉ、そんな死体が、今夜はここにご宿泊、ってんだから、俺たちもつくづくツイてねぇよなぁ」

「だから、何もありゃしねぇって。余計なこと言うんじゃねぇよ、こんな夜中によぉ」

「わ、分かったよ、すまなかった」

 そしてその頃、裏口の方では。

 裏口の扉が、内側からガチャ、と開けられた。中から出て来たのは、またメイド服姿の猫耳少女になったスーリンだった。

「センセイ、お待たせしましたにゃ」

「おう、早かったな」

 桧藤が、素早く中にすべりこむ。

「ついでに、死体置き場の鍵もくすねてきましたにゃ」

「さすが、仕事にソツがないな。さてと、死体置き場は地下かな」

 桧藤とスーリンの二人は、足音もたてずに素早い足取りで地下へ向かった。こういう隠密行動のときには、桧藤は靴音のしない特殊な靴を履いてきているのだった。

「ここだな」

 誰に会うこともなく、死体置き場はすぐに見つかった。さっそく、スーリンが持っていた鍵で扉を開ける。

 中に入ると、部屋の中央には検屍台が置かれ、奥には机も設置されている。左側の壁には、抽出し式に開けるようになっている遺体保管庫が、まるでコインロッカーの扉のようにいくつも並んでいた。その扉のひとつひとつには、番号がふられていた。

 桧藤はそちらの方へ近づいて行き、扉の番号を眺めながら、つぶやいた。

「どうやら、23番だな。ここに入った瞬間から、異様で邪悪な妖気が芬々(ふんぷん)と漂ってきやがる」

 そう言いざま、23番と番号のふられたその抽出しを、ガーッと一気に引き開けた。引き出された保管庫の中には、寝袋のような袋に収められた遺体が横たわっている。桧藤は何のためらいもなく、遺体収容袋のジッパーをスーッと引き下ろして開けた。中から出て来た遺体は、見るも無残なものであった。

 それは、体中の水分という水分が一瞬にして蒸発し尽くしたかのように、骨と皮ばかりに干からびていた。干からびてまぶたが縮んでしまったため、カッと見開かれた眼球が大きく露出しており、また唇も同様に縮んでいるので、歯がまるでガイコツのようにむき出されている。肌の色も、ただ乾燥しただけにしては異様な変色を起こしていて、暗褐色や暗紫色が入り混じったような忌まわしい色合いに変じてしまっていた。ミイラ化、と言っていいものかどうか、どうもそれともまた全然違った、異常で尋常ならざる変死体であった。

「こいつは、ヒドいな……」

 桧藤は、ちょっと眉根を曇らせてから、その変死体の口のあたりに右手をかざして、そしてその右手をまたぼうっ、と光らせた。

「……うん、この被害者の生体エネルギーを吸ったヤツの妖気が、まだたっぷりと残っているぞ。なるほど、こいつは……」

 そう言いながら、しっかりと“犯人”の残した妖気が放つ波動を把握しているようだった。

 そのとき。

「センセイっ、誰か来ますにゃ!」

 スーリンが小声で急を告げた。

「!」

 桧藤は、一瞬のためらいとてなく、干からびた死体の上に覆いかぶさるようにして身を横たえ、素早く抽出しを閉めて死体と一緒に遺体保管庫の中に入ってしまった。スーリンは猫の姿に化身し、奥の机の下に隠れた。

 そこへ、新しい遺体を運んで来たらしい者たちが入って来たのだった。死体と一緒に抽出しの中に隠れている桧藤には、その話し声だけが聞こえてくる。

「まったく、ここの鍵は誰が持って行きやがったんだ? しかも、鍵開けっ放しで」

「ああ、見つけ出して、厳重注意してもらわないとな」

 そして、遺体を検屍台の上に置いているらしい音がする。

「……それより、今日の仏さん、いい体してんなぁ、おい?」

「ああ、こういう若い娘のときは、検屍の先生がえらく入念に時間を掛けるそうじゃねぇか」

「そりゃあ、先生だって、いろいろとお楽しみなんだろうよ」

「まったく、趣味が悪いというか、あんな仕事してると、そうなっちまうのかねぇ」

「いや、だけどよ、ちょっとその先生の気持ちも、分からなくはない気がしねぇか?」

「ま、まあな。こんだけキレイなご遺体を見ちまうとな」

「だったらよぉ、俺たちだってちょっとくらい楽しんでも、構わねぇと思わねぇか?」

「そ、そうだな、ちょっとだけなら、な。くへへへへ」

 そして何やら、遺体にけしからぬことを仕掛けている気配がする。冒涜的な邪淫に耽る男どもが、小声でささやき合っているのが聞こえてくる。

「検屍の先生が来るまでは、まだもう少し時間があるよな?」

「ああ、それまでは、もう少し楽しませてもらっても大丈夫だろうよ」

「じゃあ、こいつで……」

「あっ、なんだよ、じゃあ俺も……」

 そして、何やらカメラのシャッター音のようなものが、しきりに聞こえてきた。

 いったい、いつまでやっているつもりなのか。少し桧藤が焦りを感じ始めたそのとき。

「ふにゃーごっっ!!」

 奥の机の下から、突然、猫が飛び出して来た。

「な、なんだっ!?」

 猫のスーリンは、身軽に検屍台の上に飛び乗ると、男の一人の顔に飛びついて思いっきり爪を立てて引っ掻いた。

「ぎゃーっ、痛てててて!」

「あっ、こん畜生!待てッ!」

 一撃を食らわせたスーリンは、そのまま出口の方へ逃げ去ろうとする。猫のくせに、器用に扉を開けてアッという間に廊下へ出てしまった。顔を引っ掻かれた男が、激高してその後を追う。

「コノヤローッ、とっ捕まえて叩き殺してやる! おい、お前も来いよ、あんなのに署内をめちゃくちゃにされたら、えらいことだぞ」

「そ、そうだな、早く捕まえよう」

 そう言い残して、どたばたと二人の男が出て行った。

「まったく、鍵を開けっ放しにしたヤロウのせいで、変な猫が入り込みやがった……」

 男どもの声が、遠ざかっていく。

 もう誰もいないのを見計らって、スーッ、と遺体保管庫の23番が内側から開いた。中から、桧藤がひょっこりと顔を出す。

「やれやれ、あんな連中につき合わされて、死体と抱き合ったまま一晩明かす羽目になるところだった」

 死体の収容された抽出しからひょい、と降り立って、ふと検屍台の上へ目をやった。

 そこには、まだ若い女の、傷ひとつない美しい死体が、全裸で横たえられていた。それへちょっと気の毒そうな目を向けてから、長居は無用とばかりに素早い身のこなしでその部屋から出て行った。

 幸い、スーリンが騒ぎを起こしてくれたおかげで、誰にも見つからずに裏口を出ることができた。そのまま駐車場の端の方を抜けて表通りへ出て、ちょっと離れた物陰に隠れてスーリンが来るのを待つ。

 ものの数分と経たずに、猫の姿のスーリンが暗闇に紛れて桧藤のもとへと駆けよってきた。桧藤の前まで来ると、すぐにまたぼわん、と猫耳メイド服少女の姿になった。

「早かったな」

「はい、それはもう。ついでに、鍵もこっそり返しておきましたにゃ」

「それは、グッジョブだ。事務所に帰ったら、アイスを二個食いしていいぞ」

「わーい、本当ですかにゃ?」

「ああ、本当だ。すぐに戻る!」


                *


 そして、桧藤の探偵事務所。

 また、地図の上に右手をかざして、ダウジングを行っている桧藤の姿があった。その横では、スーリンが床に直接座り込んで、アイスクリームを二個同時に、うまそうに食べていた。

「さっきの死体に残されていた怪しい妖気の持ち主がいるのは……」

 桧藤はそれがいつもの癖なのか、独り言をつぶやきながら、地図の上に右手を這わせている。そして、あるところでピタリと右手を止めた。

「ここだ。ここは、廃工場になっていたな。ここから、さっきの邪悪極まりない妖気と同じ波動が出ているのを感じる」

 桧藤は、立ち上がった。

「スーリン、ちょっと出てくる。お前は、留守番してくれていていいぞ」

「はい、センセイ♪」

 アイスがよほど好きなのか、幸福そうな笑顔でスーリンが答えた。桧藤は、そのまま夜明け前のまだ暗い夜の闇へと飛び出して行った。


             *


 そこは、町外れにある廃工場だった。建物の外壁やタンク、鉄製のハシゴなどが赤茶色に錆び果てて、ボロボロになっている。滅多に人が寄り付かない、寂しい廃墟だった。その中の、とある奥まった一室に、何やら怪しい影が動いていた。荒れ果てて、金属屑やガラスの破片などが散乱する暗い室内に、一人の男が横たわっている。それへ、ズル、ズル、と不愉快な音をたてて近づく、小山のような黒い影。やがてそれは、男の上に完全にのしかかり、そして何やら無気味に蠕動(ぜんどう)運動し始めた。

 そこへ。

 カツーン、コツーン、と靴音が近づいてきた。暗闇の怪物は、それには全く頓着する様子もなく、気味の悪い動きを繰り返している。

 ギィー、と錆びた蝶番(ちょうつがい)をきしませて、部屋の扉が開けられた。室内に足を踏み入れて来たのは、探偵の桧藤であった。

「どうやら、間に合ったようだな。なるほど、キサマが結界を張っていたせいで、ターゲットの霊波動を感知することができなかった、というワケか」

 桧藤がずけずけと、何の遠慮会釈もなく怪物に話しかけた。

 怪物は、そこでようやく、顔らしきものを上げて、こちらへ向けた。ちょうど、夜明けが近い東の空から、薄明りが射してきて、破れた窓からほのかな光が入り込んできたところだった。まだ薄暗い室内にぼんやりと姿を現したその怪物の姿は。

 そいつの顔と思しき部分の中央からは、まるで象の鼻を思わせるような長い“(ふん)”がダラリとぶら下がり、その先端はのしかかっている男の口に挿入されていて、しかもふくらんだり縮んだり気味の悪い蠕動運動を繰り返していた。顔の左右には、五本ずつのヌメヌメする触手が生えており、それぞれの触手の間には膜が張っていて、まるで象の耳を思わせた。その総計十本の触手どもも、ウネウネと常に厭らしい動きを続けているのが、おぞましかった。その頭部らしきものは直接胴体につながっており、胴体からは二本の腕が生えていた。その獣じみて筋張った腕は、左右で大きさ、形状が大きく異なっていて、その異常な奇形じみた不均衡さが見る者に不快感を与えた。小山のように大きくて真っ黒な腹の下には、脚はなく、代わりに無数の太くて短い触手が、てんでんばらばらな方向へ無秩序に生えていた。たまたま下向きに生えた触手は足の代わりをし、そうでないものはただ無意味にグロテスクさを増すだけの役割しかせず、これらもモソモソと奇怪な動きを繰り返していた。

 そして、頭部らしき部分の、長く伸びた口吻のちょうど真上に、大きなひとつ目があって、鈍く青い光を放ち、桧藤を睨みつけていた。

「ぶごにゅ、ぐばぬらばおむむぬぅ」

 怪物の口吻が、横たわる男性の口から離れて、意味不明な音声を発した。その音声には、どこか怒気を含んでいるようにも聞こえた。発した音声は意味不明だったが、桧藤の頭の中には、怪物の思念が直接伝わってきていた。

(我が結界を破り、侵入してくる人間がいるとはな)

 桧藤は、それへごく普通の会話のように答えた。

「並みの人間なら、お前の結界に阻まれてこの工場内へ足を踏み入れることさえできないだろう。だが、お前程度の結界なら、俺にはそこらの垣根ほどにも邪魔にならん」

「ぐばごっ、ぼがびゃまみょごゆごゆぎや」

(お前がどんな術者だか知らんが、我が結界内に侵入したからには、生かしておかん)

 怪物の青いひとつ目から、突然光線がほとばしり出て、桧藤を貫き通さんとした。

 しかしそれは、桧藤の直前で、ビシッ、と目に見えない力によってはじき返された。

「びょごむっ!?」

 怪物が、何事か、とひとつしかない目を丸くさせた。そして。

 桧藤の、ずっと右眼を覆い隠していた前髪が、風もないのにさわさわ、とうごめき始め、勝手に動いて上にはねのけられた。右眼を縦断する大きくて醜い傷が露わになる。すると、その動きそうもない右眼のまぶたが、少しずつ上に開き始めた。開いてゆくまぶたの間から、金色の光が漏れ出してきた。まぶたは、通常の人間のそれよりも異常に大きく開いていった。まぶたが開ききると、そこには大きくて丸くて、鈍く金色に光る眼球が現れ、その中央には赤く不吉に輝く瞳が無気味に鎮座していた。

 どう見ても、人間の目ではなかった。

 怪物が、桧藤の見せた変化にうろたえたそのほんの一瞬。

 今度は桧藤の無気味な赤い瞳から、怪物へ目がけて光線のようなものがビッ、と鋭く放たれた。

「……ぶむごッ!!」

 桧藤の右眼から放たれた光線は、怪物の胸の辺りを貫き、大きな風穴を開けていた。さらに、二発、三発と情け容赦なく、桧藤の右眼から飛び出す光線が、怪物の体を次々に連続して何度も貫いていった。最後に、怪物のひとつ目をズバッ、と貫いたところで、怪物の巨体がぐらり、と大きく傾き、床に倒れこんでいく。倒れながら、怪物の最期の思念が桧藤の頭の中に伝わってきていた。

(キサマ、ただの人間では……ない、な……その力は……まさか、お前は……)

 どう、と怪物が床に倒れた。

「あまり、人間だと思って甘く見るなよ」

 桧藤の右眼がすう、と閉じて、再び前髪が垂れ下がってきた。

「太古の邪神の一柱か。いつの間に復活したか知らんが、お前らの好きにはさせん」

 桧藤はそう言うと、内ポケットから何やら小瓶のようなものを取り出した。それは、手のひらに収まるくらいの大きさの、ガラス製の小さな小瓶のようで、ふたには何やら怪しげな文様が彫り込まれていた。

 桧藤は小瓶のふたを取って、倒れた怪物の方へその口先を向けた。

「ジジャクサ、ガラムイ、メゴムノニ、ゴサ……」

 意味不明な呪文のようなものをつぶやくと、怪物の体がすうーっと気体状に変化して黒い煙のようになり、小瓶の口の方へ吸い寄せられたかと思うと、すごい勢いで全部小瓶の中に吸い込まれてしまった。

 桧藤が小瓶のふたをパチン、と閉めると、小瓶のガラスの中で何やら黒い流動するものがぐるぐると渦巻いているだけになった。

 桧藤は、にやり、と笑みを浮かべて小瓶をまた内ポケットにしまい込むと、倒れている男性のもとへ駆け寄った。しゃがみ込んで男性の息を確認し、念のため脈をとってみる。

「だいぶ衰弱しているが、まだ息はあるようだ。今、救急車を呼んでやるからな」

 外からは、朝日が昇ってきたことを示すように、やわらかな陽光が室内に差し込み始めていた。


                 *


 それから、数日後。

 桧藤の探偵事務所を訪れている双葉花菜の姿があった。

「父を見つけていただいて、本当にありがとうございました」

「お父さんの具合は、その後、大丈夫なの?」

「はい、おかげさまで、順調に回復しています。もうすぐ退院できるだろう、って」

「それは、何よりだ。では、報酬の残りをいただけるかな」

「はい、ちゃんと持って来ました……はい、どうぞ」

 桧藤は、花菜から受け取った金を確かめると、

「確かに頂戴した。この度は、ご依頼ありがとうございました」

 どことなく、慇懃無礼(いんぎんぶれい)な調子でそう言った。

 花菜は、何度も頭を下げて礼を言いながら、帰って行った。デスクに座ったままそれを見送ると、一匹のヒマラヤンがひょい、と机の上に飛び乗ってきた。ヒマラヤンはふあ~っとひとつ大きなあくびをすると、そのまま机の上でうたた寝を始めた。桧藤は何を言うでもなく、黙って机に座っているだけだった。


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