正常性バイアス
お店の中を走ると言うのは、なかなかしないことなので新鮮だった。ガキのころにふざけて走ったこともあったが、大人になってからは全く無い。電気の止まったエスカレーターを、狂ったピエロみたいにかけ降りて、一階に到達するとそこはフードコートだった。
生鮮食品は見事に腐り、蜘蛛と、その他の動物達の根城とかして、今は無き人間の帰りを待つだけにすぎなかった。
製麺の屋台からは湯気が上がるのを幻視したが、実際にはそんなこともなく、ただただ感染した店員が手を伸ばすのみ。ひしめき合ったお客様方は、大変な数がいらっしゃり、みんな席に座って何かを待っているようである。
中には、生前、席を取るために荷物を机に置いたまま逃げてしまったのか、持ち主不明の荷物や、車の鍵と、持ち主のものと思われる血濡れの指が転がっていたりしていてとても抜けられそうになかった。
仕方なく、非常用出口から外に出てぐるりとまわるようにして映画館を目指した。
この商業施設では安全上の問題から朝早くと夜遅くは店が閉まる。レイトショーなどがある映画館だけはその時間帯でも客を出入りさせるために独立した入り口があった。
入り口は裏通りに面していて人通りも少なかった。ただ、放置され横倒しになったスクーターが不気味だった。運転手がいなかったため、ホッと一息を付く。
サビの浮かんだ手すりをつかんで寂れた階段を上がる。今時映画は配信で見るものとなり、映画館は大変だろうと思う。電気代も上がって、普通に見るだけで2000円を徴収されるので贅沢な趣味となっていた。
1つだけ開いていた扉から中に入ると、おかしなことにエスカレーターが動いていた。
この町の電気は止まっている。それは交差点の信号機を見れば明らかであったが、ここはまだ生きているらしかった。
エスカレーターで上がっていくと、発券機の前にでる。驚くべきことに、鑑賞を待つ人々の姿がそこにはあった。40~50人はいたのではないか。皆、まるで夢を見ているみたいに、モニターに写る上映の予定表を見ていた。
ここだけ感染など無かったみたい。
おかしいよね?おかしいと思って券売機横の売店でさりげなく見る予定の映画のパンフレットを持ってレジに立った。
「あの、日本中が大変なことになっていること、ご存じですか?」
店員は女性だった。暇そうにボーッと客の群れを見ていたようだった。俺のことをちらとみて、パンフレットを受け取った。
「はい知ってますよ」
「なんで逃げないんですか?」
「1200円になります」
「あ、はい」
こんなときにピッタリ小銭がなく、仕方なく、1万円を出す。
ポップコーンの甘い匂いがする。すごい行列で、なかなか買えないだろうな、と思った。
足元の厚手のカーペットにはポップコーンが零れていて、誰かが踏んでペチャンコになっていた。
「逃げるってどこに逃げれば安全ですか?」
絶対に安全な所など、無い。
自分の映画が始まる20分も前から四角い椅子に座って時間が来るのを待った。
トイレに行きたくなるので飲み物は買わない。ガサガサ音を立てたくないのでポップコーンも買わない。
外からは感染者の悲痛な叫びが聞こえているが、皆、気にしていない風だった。
やがて自分の見る映画の題名が呼ばれて電子機器にコードをかざして入場する。
壁の裏側にm870ショットガンを構えた特殊部隊風の装備に身を固めた人がいたが見ないふりをした。
そりゃ、丸腰で普通の生活はできんわな。この映画館を守っているのか。
これから始まる映画の旅をお楽しみください。そんなアナウンスで非日常は始まった。