6 接近
10月。2学期の中間考査の時期が近付いてきた。
庵の気持ちは落ち着かない。それは他ならぬ隣の席の存在が理由だ。
あの1学期の期末考査の結果を、庵は忘れたことなどない。あの日から毎日、庵は勉強に打ち込んできた。夏休みは特に猛勉強したものだ。
いよいよ、その成果を確認できる。
必ず1位に返り咲いてみせる。それが庵のモチベーションだった。
毎日の朝のホームルーム時に簡単な課題プリントをこなしていることで海斗の実力もある程度は把握できている。
なるほど、確かに海斗は優秀な男だった。日本史以外の教科でミスをすることはほとんど無い。ミスをしたとしても次回からはしっかりと補完されている。……日本史以外は。
海斗は致命的に日本史を苦手としている。国語や英語の成績の良さを考えれば暗記力に乏しいわけではないだろう。それ以上に理数系の成績が並外れているのもあるが、だからといって文系が苦手でもないだろうに。不思議なものだ。
そんな海斗はというと。
「はい、石館くん」
返ってきた答案のプリントを見て、庵は僅かに肩を震わせこめかみをひくつかせる。
プリントには庵の悪筆を指摘する文章が矢印と共に赤文字で書かれていた。
『ここ、網なら✕、綱なら○なんだけど、どっち??』
海斗に悪気はない。実際に海斗から筆跡のことで揶揄されたことなど一度たりとて無い。無いが、無いからこそ。
腹立たしい!
庵は回答を書き直して再度海斗にプリントを見せた。すると海斗は納得して頷き、無言のまま笑顔でハンドサインを送ってきた。
その海斗の悪意のなさが。心からの優しい笑顔が。無駄に整った造形が。本当に。本当に。苛々する!
庵はそっぽを向いてプリントを机の中に入れた。
初日以来、筆跡には注意するようにしようと考えているが、やはりふとした瞬間には気が抜けてしまいいつも通りの文字になってしまう。そもそも生まれて15年、庵はこの文字と付き合ってきたのだ。矯正は困難を極める。
改めて、中間考査の回答の際には注意しようと庵は思えた。
そして更に時は流れ、迎えた中間考査結果発表の日。
テスト対策は万全だった。回答に窮する問題は無かった。日本史のテスト当日の海斗のやつれ気味の顔とやらも拝めた。
それなのに。
それなのに、なぜ。
「おお海斗、お前1位じゃん!」
「最上くんすごいね!」
「ありがとう。ヤマが当たったのかな」
なぜ、追い付いていないのだろう。また自分の字のせいなのだろうか。それとも細かなミスをしてしまったのだろうか。
2位。劇的に多くのミスをしたわけではないのであろう結果が、辛い。
クラスメイトたちに囲まれて称賛を浴びている海斗の姿に、苛立つ。
海斗のように誰からも慕われるようになりたいわけではない。自分はそんな器ではない。気質ではない。でも、だからこそ。成績だけは、決して誰にも負けたくないのに。
苛立つ。苛立つ。
自身の心の脆弱さを認識してしまうことが、たまらなく悔しくて、惨めで。どうしようもなく、苛立つ。
海斗は、悪くないのに。ただ己の未熟さが原因なだけなのに。
やり場の無い悔しさだけが、庵を教室から遠ざけた。
そんな中間考査が終わって数日後のホームルームにて。
教室では文化祭での出し物についての話し合いが行われていた。
クラスの連帯感もそこそこ養われてきたこの時期にうってつけの行事。話し合いは大いに盛り上がり、その末にクラスの教室を簡単に飾り付けての喫茶店を開くこととなった。
庵にとっては何でも構わなかった。文化祭という存在の意義は分からないではなかったが、己にできることなどたかが知れている。積極的に雑用をこなしていれば誰も文句は無いだろう。
それよりも庵にとっては中間考査の結果の方が遥かに重要で、未だ尾を引いている。さすがにこういった話し合いの場でまで教科書を広げるようなことはしないが、本音を言えば早く勉強がしたい。
「じゃあ、買い出し係を決めます。誰か立候補はいますか?」
クラス委員長の声で室内が一時静まり返る。
金銭が絡む事柄ともなれば責任は重大だ。迂闊なものを購入したとなれば今度はクラス全体からひんしゅくを買うことになるだろう。なかなか自ら好んでやりたがるものではない。
「はい、僕がやります」
海斗の挙手と申し出に、庵は一瞥をくれただけでまた窓の外を眺めた。
「それと、石館くんも」
「……。……ん!?」
早く終わらないものかと思案していた庵は数秒経ってから名を呼ばれていたことに気付き教室を見回した。
全員が庵に注目している。
「ええと、石館くん。大丈夫ですか?」
「あ、はい。…………」
思わず考えるよりも先に了承の意を表してしまった。
委員長が黒板の買い出し係の項目に庵と海斗の名を書き出していくのを見てようやく状況をしっかりと理解する。
そして、隣の海斗を思い切り睨み付けようとした。なに勝手なことを言ってくれるのだ、と罵倒したかったのだ。
「がんばろう、石館くん」
それがこんなにも嬉しそうな顔で挨拶などされれば。
庵は観念するが、せめて盛大にため息を吐き出してやってからまたそっぽを向いた。それによくよく思えば、これで他の係に任命されることはないのだし、早々に役目が決まったのならばそれはそれで良い。今回のことで海斗をこれ以上責めるのはやめよう。そう考え直した。
次々と他の係も決まっていき、放課後となって。海斗は庵の席の方に少し椅子をずらしてきた。
さっきの庵のため息のことなど気にもしていないのだろうか。海斗のこの鋼の精神力に、庵はある意味感服した。
「石館くん。さっそく次の休日と文化祭前日の買い出しのことなんだけど」
「ん。まずは必要な物のリストアップだな。コンセプトリーダーの意見はお前が聞いておけ。どういう系統の喫茶店にするのか」
「うん、分かった」
「コンセプトに関わらず必要そうな物は俺が先に書き出しておく」
「ありがとう。クラスのみんなで用意できそうな備品もあればそれも知らせるよ」
「分かった」
「土曜と日曜、どっちが良い?」
「それはどちらでも。最上に合わせる」
「なら……日曜で頼めるかい?」
「構わん」
役目が与えられたのならば手を抜くつもりは毛頭無い。庵はルーズリーフを取り出してリスト用の1枚を作成しておいた。
やる気があるのやらないのやら。庵の気難しさすらも海斗にとっては面白い。決して生き方まで賢いとは言えない庵から目が離せない。
クラスのみんなの意見を参考に買い出し品のリストを作り上げ、海斗と庵は日曜の買い物の予定を立てた。
迎えた日曜日。
庵は集合時間の30分前に現地に到着した。海斗はまだ来ていない。それを責めるつもりはない。むしろ好都合だ。
庵はショッピングモール前の広場に設置されているベンチに座ってスマートフォンを取り出して小説を読み始めた。
庵自身は紙の本が好きなのだが、集中してしまうとすっかり視野が狭くなる時がある。その点、スマートフォンならば急な連絡が入った際にも対応ができる。便利なものは上手く使うべし。
やけに動物に好かれる男が小説の登場人物として出てきた。海斗を思い出す。
海斗が学校で動物騒動を起こしたのは実は1度や2度ではない。入学式の時点では海斗に大して興味もなかったが、海斗を意識するようになってからはやけに彼が動物と縁があるのが分かった。
そうして10分ほど小説を読み進めたところで。
「石館くん、おはよう」
スマートフォンから目線を外し声の方へと見上げてみると、海斗がいた。
「早いね。待たせたかな」
「いいや、本を読みたかっただけだ」
「ああ、なら読んでしまうかい?」
「……待ってくれるのか?」
「良いよ。もともと集合時間はあと20分後なんだし。きみなら15分も掛からないでしょ」
「なぜ分かる」
「え。だって、いつも休み時間で何かしらひとつ読み切ってるじゃないか。速読できるのってすごいよね」
「…………」
よく見ている。こんなにもよく見られていたのか。驚くと同時に、改めて庵は気恥ずかしくなった。
庵はスマートフォンに目線を落とすことで平静を装った。
「……あと少し待て」
「うん、ごゆっくり」
海斗は庵の隣に腰を下ろして庵と同じようにスマートフォンを操作し始めた。
庵は本の続きを読み始める前にいちどだけ海斗を見てみる。
スマートフォンの画面まで覗き込むような非礼はしないが、海斗はやけに真剣な表情だ。切れ長の目と大きめの瞳が細められ、元々の端正な顔立ちもあってとても凛々しい。教室での人当たりの良い態度からは想像も付かない。
庵はスマートフォンに目線を戻し読書に専念した。
思えば、海斗の成績にしか興味がなかった。いま海斗を一方的にライバル視しているのも、成績のことがあったからだ。こいつは、普段は何をしているのだろう。何を好むのだろう。知らない。知る必要がなかったから。
だが、いま。こうして、今日。共に過ごす機会ができたのならば。
この最上海斗という人間の何かを知ることができるのではないだろうか。
庵は生まれて初めて、火急の用以外で読書を切り上げて立ち上がり、海斗に手を差し伸べた。




