5 入学のあの日
時は4月の頭。
入学式のことはあまり覚えていない。そんな人も多いのではないだろうか。
海斗とてそれは例外ではなく、中学校の時の入学式も、ましてや小学校の時の入学式なんて記憶領域の遥か奥にしかない。そもそも記憶が存在しているのかも怪しい。
そんな例外の中における更なる例外が、高校の入学式だった。
各々が期待と少しの緊張をもって臨んだであろう。中には式典など面倒だと感じた者もいたであろう。
海斗は、といえば。どちらかと言えば前者であった。期待と不安。謂わばどこにでもありふれた心持ち。
登校し、校門を通過しすぐの掲示板を見て自分がどこのクラスかを確認し、次に案内板に従ってその教室に向かう。教室に着くと今度は扉に座席表が貼られていて、それを見てから教室に入り席に着く。
さすがに入学式の日ともなればみんなおとなしいものだ。何人もの生徒が既に着席していたが、会話らしい会話は微かにしか聞こえない。たまたま運良く、同じ中学だった者が同じクラスになり、近い席にでもならない限り、すぐに打ち解けるのも至難というもの。
海斗も静かに自分の席に座った。慣れない椅子はいまいち馴染まない。
やがて、担任となる男が入ってきた。所謂強面ではない。線の細い、優しそうな風貌。出席簿を教卓に置いたその男はまず黒板に名前を縦書きに書いて生徒たちに向き直った。
「みなさん、初めまして。おはようございます。このクラスの担任となった木村、木村義孝といいます。担当科目は日本史です」
風貌に違わぬ優しい声音で告げられた内容に、海斗は少し項垂れる。
日本史は海斗の苦手分野だ。中学での成績は常にトップではあったが、得意ではない。友人にそれを言えば嫌みと取られてしまうのであまり言わないようにはしているが、いつも暗記するのに必死なのだ。
「それでは、早速だがすぐに体育館に向かいます。みなさんの自己紹介や名前の確認は戻ってきてからとなるので。じゃあ、端の席順に廊下に整列してください」
海斗はほんの少し憂鬱を味わいながら、他のみんなと同じように入学式のための引率に応じた。
体育館に近付くにつれて何人もの人が拍手で出迎えてくれた。教師だろうか、用務員だろうか。全員がスーツ姿なので判断はできない。
体育館に入るとより盛大な拍手が海斗の耳に届いた。
いつもはがらんとしているであろう体育館は内装から装飾され、土足でも構わないようにグリーンのシートが敷かれている。
保護者の方々がにこやかに拍手をし、いちばん通路側に座れた人は我が子の晴れ姿を写真に収めるべくスマートフォンを掲げている。
生憎、海斗の保護者は来ていない。小学校の時も中学校の時も、そして今も。いないのが当たり前だったので今ではもう寂しいとも感じない。式場に身内がひとりもいないとはいえ、拍手の祝福が貰えるだけでも海斗にとっては充分であった。
開会が宣言された。その後のしばらくのことは正直、あまり覚えていない。
校長先生が入学を認める旨を宣言し、続いてそのまま式辞。そこからは教師代表や来賓といった何人もの人たちが祝辞を送ってくれた。ありがたいことであるのだとわかってはいるが、如何せん長い。
退屈といえば退屈で、睡魔が襲ってくるのも無理ないというものだ。海斗は居眠りこそしないものの、眠ってしまいそうな人を責めるつもりもない。だって、無理もないのだから。
校歌の斉唱に入るまでにいつまでかかるのか。
「次に、新入生代表の挨拶です。新入生代表、石館庵くん」
「はい」
思ったよりも近くで司会者への応答が聞こえ、海斗を含む何人かの生徒たちが声の方へと注目した。
起立したのは同じクラスであろうひとりの男子生徒。まず印象に残ったのは彼の金の髪。淀みのない足取りで舞台へと上がっていく姿は新入生とは思えないくらいに堂々としている。登壇する前に来賓たちに一礼、登壇してからも全体に向けて一礼、そしてマイクの前でも一礼をするという徹底ぶりから、事前にリハーサルもしていたのだろう。
その男、庵は封筒から原稿用紙を取り出して広げると一呼吸置いてから話し出した。
「誓いの言葉」
庵の声がマイクを通して体育館に響いた瞬間、海斗は自然と姿勢を正していた。庵は原稿用紙こそ広げているが目線はほぼ会場へと向けていたから。庵の声は震えているということもなく、よく研ぎ澄まされていた。
「春の美しい花が咲き始めた今日この頃、私たちは無事に高等学校の入学式を迎えることができました。本日は、私たち新入生のために、このような素晴らしい式を執り行って戴き、誠にありがとうございます」
ここまでは誰もが考えるであろう挨拶。
「高校とは、自主性と責任が求められる場所でもあります。私たちは、高校生であるという自覚と誇りを持ちつつ、『自主自律』『文武両道』の精神の下、勉学を始め、部活動、行事、慈善活動などの諸々において自主性を持って取り組むことで、己の経験、そしてこの学校への貢献としていく所存であります。私たち新入生一同、家族や先生方、そして今日までこの学校の歴史と伝統を築き、守ってこられた先輩方に恥じることのないよう、自明の理の真なる価値と大切さを再認識し、光陰矢の如し三年間の日々を精進し、そして研鑽とし、邁進していくことをここに誓います。最後に、校長先生をはじめ先生方、来賓の方々、先輩方、そして私たちを理解し支えてくれる保護者の皆様、多くの方への感謝の気持ちを表し、新入生代表挨拶とさせていただきます。本日は、誠にありがとうございました。……新入生代表、石館庵」
最後の感謝の言葉の時点で庵は既に原稿用紙を畳み始め封筒に入れ、名を名乗る時点ではすっかり彼の手は空きすぐに一礼となった。
参加していた全員がすっかり唖然としてしまっていたのか、会場全体が数秒だけ静まり返る。しかしすぐに体育館に拍手が鳴り響いた。
そんな拍手の音に乗せて、どこからか誰かの声が聞こえてきた。
「あいつの挨拶、堅苦しいよな」
「ちょっと引く……」
「住む世界が違うっていうか」
思えば、この言葉が海斗に先入観を与えてしまっていたのかもしれない。
彼と自分は住む世界が違う、と。
ただ、他者と海斗には違う点がひとつだけ。それは、『敬遠』と『興味』であった。
式典は滞りなく進んだ。
新入生たちから退場となり、入場の時と同じように拍手に包まれて行進する。
教室に戻り自分の席に座った庵は、何人かの生徒からの視線を感じたがどうでも良かった。
用があるならば話し掛ければ良いだけ。話し掛けてこないということは用は無いということ。それだけだ。
担任の木村が入ってきて、改めてホームルームとなる。出席簿を閲覧しながらクラスメイトたちの自己紹介の時間となったが、庵にとっては面倒であった。
早く終わらないものだろうか。そして本日同行してくれた親が買ったであろう教材の数々に早くお目にかかりたい。
「次は、石館」
「はい。……石館庵です」
庵は起立し、名を名乗り一礼するだけで着席する。特段庵が特別なわけではなく、庵の前の出席番号の者たちも同じような挨拶しかしていない。
ただ、つい先ほどの入学式での新入生代表の挨拶はクラスメイト全員の印象に残っているらしく、庵は注目を集めていた。東洋人らしからぬ容姿も理由だろう。
「よし、次はー……」
「すみません、遅れました!」
木村の声を遮って慌ただしく入場してきたのはひとりの男子生徒。
さしもの庵も驚いて教室の入口を注目するがすぐにまた窓の外を眺めだした。
これでまた時間を無駄に浪費してしまう。面倒だ。それが庵の正直な気持ちだった。そして、この時のお騒がせ生徒こそが。
「おいおい、入学式早々からどうした。名前は?」
「最上です、最上海斗」
他ならぬ最上海斗であったが、この時の庵には海斗にまったく興味がなく、海斗を覚えるつもりも更々無かった。
「最上、だな。遅刻したのか」
「ち、違います。ちゃんと式には出席しました!」
「じゃあ何で早速そんなに服が泥だらけなんだ」
海斗の姿を指摘してきた木村に、海斗は照れくさそうに頬を指先で掻いてから腹を括って正直に口を割ることにした。
「入学式の後、体育館を退場してからその……トイレに行きたくなってしまったんです。それで、列から外れたのは良いんですけど、迷っている内に別校舎裏に辿り着いて」
「ほう、それで?」
「で、そこで……猫にまとわりつかれてしまいまして」
「猫!?」
木村の素っ頓狂な声のツッコミで教室に微かな笑みが溢れ始めた。
「まったく。校舎裏に不良でもいて乱闘でもしたのかと心配したぞ、驚かせるな!」
「え、そんな不良いるんですか?」
「今後お前がそうならなければ、いないな」
「いや、なりませんから!」
教室に一気に笑いに包まれる。あれだけ緊張に満ちていた空間がすぐさま和んだ。
「先生ー、許してやってくださーい。そいつ、中学の時から動物に好かれやすいんですよー」
「ははは、怒ってはいない。とにかく席に着け、最上」
海斗はそこで藤波駿の助け船によって解放され席に戻ることができた。
席に着くなり海斗は周囲の生徒たちから話し掛けられことになる。クラスの者たちが打ち解ける切っ掛けになった。
「ほらほら静かに! じゃあ、自己紹介の続きいくぞー!」
早くホームルームが終わり解散となった他クラスの誰もが、入学式の日だけですっかり賑やかになっているクラスがあることに驚いていた。
そんな中で庵は。自分の後続の者たちがおどけた空気感で自己紹介をしていくのを聞きながら、自分の番が早々に終わっていることに心から安心していた。
今思うと、あの入学式での新入生代表挨拶の際に使用した原稿の文字も流れ字だったのだろうか。
そんなことを考えながら、今日も海斗は朝のホームルームでの小テストの採点をする。
庵の字は相変わらず独特で解読に時間を費やしてしまうが、初日よりも読みやすくなっている。
恐らく、庵なりに何か思うものがあったのだろう。
庵の頭が良い理由のひとつがそこなのかもしれない。と海斗は分析した。
頭の回転が速すぎる人は執筆の速度との噛み合わなさから字が流れてしまうことがあるという。庵はそのタイプなのかもしれない。この分であればきっと彼のノートもそうなのだろうが、そもそもノートとは自分が習った箇所を見返すための道具であり教師に見せるためのものではない。勉強をする、という行為に基づいた結果の流れ字。己のみが後々に読めれば良いだけのもの。実は非常に合理的なのだ。合理的すぎるきらいはあるが。
「最上、人の答案をまじまじと見てないでさっさと返せ」
庵の声で海斗は我に返りすぐにプリントを返した。
「ごめんごめん。本当に石館くんはすごいね、どんな教科でもスラスラ解いて。いつもプリント配られて2分くらいで終わらせる上に満点だし」
「お前は日本史だけ異常に正答率が低いな」
「……はい、仰る通りです」
「いつも当てずっぽうで書いてるだろ」
「はい……」
「鎌倉時代の問題なのに江戸幕府で制定されたの法の名前を書くやつがあるか」
ふたりのやり取りを聞いた周辺の生徒たちが話の輪の中へと入ってくる。
小テストに費やす時間などたかが10分程度。授業が始まるまでの残りの10分は、特別な連絡事項がない限りはただの生徒たちの雑談の時だ。
「海斗の日本史ダメっぷりは筋金入りだよな。石館に見てもらえよ」
その言葉で庵はかねてより疑問となっていた事柄を問いかけた。
「だが最上は、テストではいつも良い点を取るじゃないか」
「いやいや、こいつテスト前すげー必死なんだって! 日本史のテストの日とか見てみ。げっそりした顔で学校来るから!」
「……はい、仰る通りです」
同じ返答でまったくもって否定しない海斗の態度からも、テスト前日に根を詰めているのは事実らしい。庵は軽くため息を吐いた。
海斗は地頭が悪いわけでは決して無いのだろうに、なぜこんなにも日本史だけは覚えが悪いのだろう。わからない。
「お前ら席戻れー、授業始めるぞー」
数学担当の教師が入室してきて生徒たちが各々の席に戻る。
いつもと同じ、いつもの光景。
そこにほんの少しの『変化』が生じていたことに、庵は気付いていなかった。




