第七話 あの頃のまま
店の中が静かになった。
ジャズは流れている。
コーヒーの香りもする。
なのに妙に音が遠い。
女性は壁の集合写真を見上げたままだった。
「まだ残ってたんだね」
俺はようやく口を開く。
「女房が飾った」
「そうなんだ」
女性は少し笑った。
昔と同じ笑い方だった。
四十年近く経っているのに。
不思議なものだ。
面影というのは残る。
高橋が先に立ち上がった。
「久しぶりだな」
「久しぶり」
女性も笑う。
高橋は俺を見る。
そしてニヤニヤし始めた。
嫌な予感しかしない。
「じゃあ俺帰るわ」
「帰れ」
「じゃあな」
若い男が慌てる。
「え、帰るんですか?」
「空気読め」
「何の空気ですか」
「大人の空気だ」
そう言い残して高橋は店を出て行った。
若い男は意味が分からない顔をしている。
俺も分からない。
高橋の考えることは昔から分からない。
女性が席に座る。
窓際でもなく。
カウンターでもなく。
店の真ん中の席。
「コーヒーください」
「ある」
「知ってる」
思わず笑った。
昔からこうだった。
会話が妙に短い。
コーヒーを淹れる。
手は勝手に動く。
だが少しだけ緊張していた。
「元気だった?」
女性が聞く。
「まあな」
「相変わらずだね」
「お前もな」
「お前って言うな」
「じゃあ何て呼ぶ」
「名前あるでしょ」
俺は少し考える。
そして。
四十年ぶりに口にした。
「佐伯」
女性が笑った。
それだけで十分だった。
若い男は完全に会話についていけていない。
だが帰る気配もない。
面白そうだからだろう。
若いってそういうものだ。
「店やるなんて思わなかった」
佐伯が言う。
「俺も思わなかった」
「トレーラー乗り続けると思ってた」
「そうかもな」
実際そうだった。
若い頃はそう思っていた。
十年後も。
二十年後も。
ずっと運転席に座っていると思っていた。
人生は大体予定通りにならない。
「奥さんのこと聞いた」
佐伯が静かに言った。
「ああ」
「残念だったね」
「そうだな」
それ以上は言わない。
それで十分だった。
若い男は黙ってコーヒーを飲んでいる。
気を使っているらしい。
案外いい奴だ。
佐伯が店内を見回す。
「いい店だね」
「そうか」
「うん」
少し間が空く。
そして。
佐伯は写真を見ながら言った。
「知ってる?」
「何を」
「私ね」
「うん」
「あの時、断ったの後悔してた」
俺はコーヒーカップを置く手を止めた。
若い男も固まった。
店内が静かになる。
だが。
佐伯は笑っていた。
「そんな顔しないで」
「どんな顔だ」
「変な顔」
確かに変な顔だったと思う。
「でもね」
佐伯は続ける。
「だからって違う人生を選びたいとは思わない」
その言葉に。
俺は少し笑った。
聞いたことがある話だった。
いや。
自分で言った話だ。
後悔と否定は別。
まさにそれだった。
佐伯も笑う。
「結婚したし」
「そうだな」
「子供も育ったし」
「そうだな」
「孫もいる」
「勝ったな」
「何に?」
「知らん」
二人で笑った。
若い男がぽつりと言う。
「それ、マスターが言ってたやつですね」
俺と佐伯が同時に振り向く。
「後悔と否定は別」
若い男は照れくさそうに笑う。
「なんか分かる気がします」
佐伯が感心したように頷く。
「いいこと言うね」
「俺じゃない」
「じゃあ誰」
「客だ」
若い男が吹き出した。
店の空気が少し柔らかくなる。
外では夕方の光が差し始めていた。
佐伯が立ち上がる。
「また来るね」
「勝手にしろ」
「相変わらず愛想悪い」
「営業妨害だ」
会計を済ませる。
ドアへ向かう。
その途中で佐伯は振り返った。
そして。
壁の集合写真を見た。
「みんな歳取ったね」
「そうだな」
「でも」
佐伯は少しだけ目を細めた。
「あの頃より今の方が嫌いじゃない」
俺は答えなかった。
答えなくても分かる気がしたからだ。
ドアベルが鳴る。
カラン。
佐伯が帰る。
静かになった店で。
若い男が言った。
「なんか思ってた話と違いました」
「何が」
「昔好きだった人って、もっとこう……」
言葉を探している。
俺は笑った。
「若いな」
「え?」
「人生は恋愛だけじゃない」
窓の外を見る。
夕日が街を照らしている。
俺は壁の集合写真を見た。
若い頃の俺たち。
未来しか見えていなかった頃。
だが今なら分かる。
人生は。
思い通りにならなかったことも含めて。
案外悪くない。
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