磯山③ 伊藤整備工場
木曜日だった。
午後の停車場。
若い男はカウンターの奥に掛けられた一枚の写真を眺めていた。
若い頃の高橋。
マスター。
そして、まだ若い磯山。
「高橋さん。」
「なんだ。」
「伊藤さんとは、どんな人だったんですか。」
高橋は少しだけ写真を見上げた。
「口数は少ない。」
「怖かったですか。」
「最初はな。」
「でも。」
高橋は笑う。
「話しかける奴が一人いた。」
若い男も笑う。
「磯山さんですね。」
「ああ。」
「あいつだけは平気だった。」
高橋の視線は、少しずつ昔へ戻っていった。
◇
夕方。
仕事を終えた磯山は、そのまま伊藤整備工場へ車を乗り入れた。
工場の中では、伊藤がエンジンをばらしていた。
「お疲れさまです!」
「……おう。」
顔は上げない。
工具の音だけが響く。
磯山は黙って隣へ立った。
伊藤の手元を見る。
レンチ。
ボルト。
部品を一つずつ外していく。
「すごいですねぇ。」
「……。」
「こんなの、自分にはできません。」
伊藤は返事をしない。
ただ黙々と手を動かす。
しばらく見ていると、伊藤が言った。
「十ミリ。」
「はい。」
磯山は慌てて工具箱を見る。
「これですか。」
「違う。」
「あ、こっち。」
「違う。」
伊藤は黙って手を伸ばし、一本のレンチを取る。
「これ。」
「あぁ。」
磯山は頭をかいた。
「難しいですね。」
「覚えろ。」
一言だけだった。
また工具の音が響く。
磯山は笑った。
「はい。」
その返事だけは大きかった。
翌週。
また仕事帰りに寄る。
「お疲れさまです!」
「……。」
また翌週。
「こんばんは!」
「……。」
さらに翌週。
「今日は何やってるんですか。」
「デフ。」
「デフ?」
「見るか。」
「見ます!」
伊藤は説明しない。
部品を外す。
組む。
締める。
それを磯山は黙って見ていた。
「分かったか。」
「半分くらい。」
「十分。」
伊藤はそれだけ言った。
帰り道。
高橋が聞いた。
「毎週行くのか。」
「行きます。」
「教えてくれるのか。」
磯山は少し考えた。
「教えてはくれません。」
「だろうな。」
「でも。」
嬉しそうに笑う。
「見せてくれるんです。」
高橋は少し驚いた。
そうか。
あいつは、見せてもらってると思ってるのか。
「変わってるな。」
「そうですか。」
「ああ。」
磯山は笑ったまま頷く。
「でも、分かるんですよ。」
「何が。」
「車が好きなんだなぁって。」
高橋はそれ以上何も言わなかった。
伊藤は教えなかった。
磯山は聞き続けた。
不思議と、それで二人は通じ合っていた。
◇
現在。
若い男は静かに呟いた。
「伊藤さんらしいですね。」
高橋は頷く。
「ああ。」
「教える人じゃなかった。」
一拍置いて笑う。
「見て覚えろ。」
その一言で済ませる人だった。
でも。
磯山だけは、毎週楽しそうに整備工場へ通っていた。
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