第五話 木曜日の指定席
高橋が初めて店に来たのは、その週の木曜日だった。
別に約束していたわけじゃない。
昼過ぎ。
客も少ない時間。
カラン。
ドアベルが鳴る。
顔を上げる。
高橋だった。
作業着。
白髪。
相変わらず無駄にでかい。
「よう」
「おう」
それだけ。
三十年ぶりの再会から五日。
会話は昨日の続きみたいだった。
高橋は店内を見回した。
「狭いな」
「帰れ」
「コーヒー」
「ある」
「じゃあ座る」
勝手な男だ。
昔から変わらない。
窓際の席へ向かおうとして。
高橋の足が止まる。
先客がいた。
若い男だ。
例の転職した客。
パソコンを開いて何か作業している。
高橋が俺を見る。
俺が高橋を見る。
高橋が別の席へ座る。
それだけのことなのに少し面白い。
世代の違う常連が同じ空間にいる。
不思議な感じだった。
コーヒーを置く。
高橋が一口飲む。
数秒。
黙る。
さらに一口飲む。
また黙る。
そして言った。
「うまいな」
「そうか」
「そうだ」
それだけだった。
だが。
たぶん一番嬉しい感想だった。
夕方近く。
若い男が席を立つ。
会計を済ませながら言う。
「マスター」
「ん?」
「転職先、初日終わりました」
「どうだった」
「疲れました」
俺は笑った。
「そうだろうな」
「でも面白かったです」
顔が少し明るい。
良い顔だった。
若い頃の人間は。
何かを始めると顔が変わる。
男は帰り際。
高橋を見て会釈した。
高橋も軽く頭を下げる。
ただそれだけ。
名前も知らない。
互いの歳も知らない。
それでも同じ店に通う人間同士だ。
妙な連帯感がある。
男が帰ったあと。
高橋が聞いた。
「あれ常連か」
「最近な」
「若いな」
「若い」
高橋はコーヒーを飲む。
しばらくして言った。
「お前に似てる」
俺は吹き出した。
「どこがだ」
「いろいろ手を出しそうな顔してる」
「顔で分かるか」
「分かる」
全然分からないと思う。
だが。
少しだけ納得もした。
若い男の話を聞いていると。
昔の自分を見ているような時がある。
落ち着きがない。
好奇心ばかりある。
でも妙に真面目。
そういうところは似ているかもしれない。
高橋が突然言った。
「そういや」
「ん?」
「あの写真」
壁の集合写真を見る。
「まだ残ってたな」
「女房が飾った」
「そうか」
高橋は少し笑った。
そして。
写真の後ろの方を指差した。
「覚えてるか」
俺は目を細める。
若い頃の集合写真。
トレーラー。
仲間たち。
そして後列の端。
腕を組んで立っている一人の女。
「ああ」
思い出した。
高橋が珍しくニヤニヤしている。
嫌な予感しかしない。
「お前、好きだったよな」
「黙れ」
「懐かしいな」
「黙れ」
「振られたよな」
「帰れ」
高橋が大笑いした。
店中に響くくらい笑った。
俺はため息をつく。
六十歳になっても。
こういう話を掘り返す友人はいるらしい。
だが。
不思議と嫌じゃなかった。
壁の写真を見る。
若い頃の自分たち。
必死だった頃。
未来しか見ていなかった頃。
その中に。
確かに彼女もいた。
忘れていたわけじゃない。
ただ。
思い出さなかっただけだ。
高橋はコーヒーを飲み干して立ち上がる。
「また来る」
「勝手にしろ」
「木曜な」
「なんで」
「休みだから」
なるほど。
どうやら木曜日が高橋の指定席になるらしい。
ドアベルが鳴る。
カラン。
高橋が帰る。
店内に静けさが戻る。
俺は壁の集合写真を見る。
そして。
何十年ぶりかに。
後列の端に立つ彼女の顔をじっくり見た。
外では夕日が傾いていた。
コーヒーの香りが漂う。
だがその日だけは。
少しだけ昔の匂いが混じっている気がした。
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