伊藤⑥ 最初の仕事
老人はコーヒーを飲み終えた。
若い男が静かに聞く。
「伊藤さん。」
「ん?」
「皆さんが会社を始めた時。」
「最初の仕事って何だったんですか。」
老人は少し笑った。
「俺だ。」
若い男は目を丸くした。
「え?」
◇
会社を立ち上げた。
とは言っても。
事務所は借り物。
机も中古。
電話は一台。
仕事は、まだ一つもなかった。
四人とも口には出さない。
だが、不安だった。
そんなある日。
整備工場へ呼ばれた。
伊藤は一枚の伝票を差し出した。
「これ。」
高橋が受け取る。
荷物の配送依頼だった。
「伊藤さん……。」
「うちの仕事だ。」
伊藤はぶっきらぼうに言う。
「今日から、お前らの仕事にした。」
四人とも黙っていた。
「できるか。」
高橋は伝票を握りしめる。
「できます。」
「そうか。」
それだけだった。
伊藤は工具箱を閉じる。
「じゃあ行け。」
四人は頭を下げた。
工場を出る。
誰も振り返らなかった。
振り返ったら。
涙が出そうだったから。
◇
「その仕事。」
老人は笑う。
「ちゃんと終わったんですか。」
「ああ。」
「無事にな。」
「それから少しずつ仕事が増えた。」
「紹介もした。」
「紹介?」
「ああ。」
「俺が運べなくなった仕事は。」
「全部あいつらへ回した。」
若い男は思わず笑う。
「最初から、そのつもりだったんですね。」
老人は首を振る。
「違う。」
「もったいないからだ。」
「もったいない?」
「仕事が。」
「誰かが運ばなきゃならん。」
老人は照れくさそうに笑った。
「だったら。」
「あいつらが運べばいい。」
◇
高橋が新聞を畳んだ。
「その仕事。」
「今でも覚えてますよ。」
老人は笑う。
「覚えてるか。」
「忘れるわけないでしょう。」
マスターがコーヒーを置く。
「どうぞ。」
「頼んでない。」
「知ってる。」
三人が笑う。
若い男は壁の集合写真を見上げた。
人を育てるというのは。
難しいことを教えることじゃない。
信じて。
最初の仕事を任せることなのかもしれない。
停車場には今日も、静かな時間が流れていた。
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