伊藤④ 相談
老人はコーヒーカップを両手で包みながら、小さく笑った。
「珍しかったな。」
「何がです?」
若い男が聞く。
「あいつが。」
老人はカウンターの向こうを見る。
「相談に来た。」
若い男も思わずマスターを見る。
マスターは何も言わず、静かにカップを磨いていた。
◇
夕方だった。
整備工場では、その日の仕事が終わっていた。
シャッターは半分だけ閉まり、工場の中には西日が差し込んでいる。
工具を片付けていると、足音が聞こえた。
「伊藤さん。」
振り向くと、マスターだった。
一人だった。
高橋もいない。
磯山も。
柴田もいない。
珍しいこともあるものだと思った。
「どうした。」
マスターは少しだけ間を置いて言った。
「相談。」
伊藤は思わず笑う。
「お前がか。」
マスターは黙ってうなずいた。
工場の外では、ヒグラシが鳴いている。
少しの沈黙が流れた。
「……佐伯なんだけど。」
その一言で十分だった。
伊藤は苦笑いする。
「なるほどな。」
マスターは照れくさそうに視線を落とした。
「どうしたらいいと思う。」
「本人に言ったか。」
「まだ。」
「じゃあ言え。」
それだけだった。
マスターは少し考え、それからうなずく。
「そうか。」
「そうだ。」
それ以上、話は続かなかった。
相談は終わっていた。
帰り際。
マスターは工場の入口で立ち止まる。
「ありがとう。」
伊藤は工具を片付けながら答えた。
「礼はいらん。」
「結果だけ教えろ。」
マスターは少し笑って帰っていった。
◇
数日後。
仕事終わりだった。
工場へ入ってきたマスターを見て、伊藤は何となく分かった。
「だめだったか。」
マスターは少し笑う。
「ああ。」
その笑顔は、少しだけ寂しそうだった。
伊藤は何も聞かない。
理由も。
返事も。
聞かなかった。
「腹減ってるか。」
マスターは少し驚いた顔をしてから笑った。
「ああ。」
「飯食って帰れ。」
「そうか。」
二人は並んで工場を出た。
夕焼けの中を歩きながらも、恋の話は一度もしなかった。
それでよかった。
◇
老人は静かにコーヒーを飲んだ。
「それっきりだ。」
若い男は少し意外そうな顔をする。
「聞かなかったんですか。」
「聞かん。」
老人は笑う。
「言いたくなったら、自分から話す。」
「それで十分だ。」
若い男は壁の集合写真を見上げる。
笑っている仲間たち。
あの写真の中には。
誰にも話さなかった想いも、きっと写っているのだろう。
マスターはカップを置き、小さく答えた。
「知ってる。」
※佐伯については、第七話「あの頃のまま」、外伝10「勝手な想像」、高橋②にも登場しています。
気になった方は、ぜひ読み返してみてください。




