伊藤③ 見て覚えろ
若い男は老人の顔を見た。
そういえば、高橋が笑いながら話していた。
――柴田は、よく伊藤さんに怒られていた。
その言葉が少し気になっていた。
「伊藤さん。」
「ん?」
「柴田さんには厳しかったんですか。」
老人はコーヒーを一口飲む。
少しだけ考えるようにカップを見つめ、それから静かに笑った。
「ああ。」
「一番怒ったな。」
若い男もつられて笑う。
「やっぱりですか。」
「でもな。」
老人はゆっくり首を振った。
「怒りたくて怒ってたわけじゃねぇ。」
その一言で、店の空気が少しだけ変わった。
マスターは何も言わない。
ただ静かにカップを磨いている。
◇
整備工場の一日は長い。
夕方になると、ようやくエンジン音が途切れ、工場には静けさが戻ってくる。
工具を元の場所へ戻す音だけが響いていた。
「伊藤さん。」
振り向くと、柴田が車の前でしゃがみ込んでいた。
開いたボンネットの奥を、真剣な表情でのぞき込んでいる。
「何してる。」
「ちょっと見てました。」
伊藤は近寄る。
柴田の手には工具が握られていた。
「見るだけならいい。」
「手ぇ出したな。」
柴田は少し困ったように笑う。
「少しだけです。」
伊藤はため息をついた。
器用だからこそ、つい触ってしまう。
昔からそうだった。
「少しが一番厄介なんだ。」
柴田は黙って工具を戻そうとする。
「待て。」
伊藤は工具を受け取り、エンジンルームへ目を向けた。
「何が分かった。」
柴田は答えを探すように視線を動かす。
「……たぶん。」
「ここかなと。」
「たぶんはいらん。」
短い言葉だった。
でも怒鳴るわけではない。
静かな工場に、その声だけが残る。
「分からんなら。」
「分からんと言え。」
柴田はゆっくりとうなずいた。
「……分かりません。」
「そうだ。」
伊藤はエンジンを始動させた。
低く、落ち着いた音が工場いっぱいに広がる。
二人とも何も話さない。
ただ音だけを聞いていた。
伊藤にとって、この音は毎日聞いてきた音だった。
調子のいい日もある。
少し疲れている日もある。
人の声と同じで、毎日聞いていると、小さな違いが分かるようになる。
「聞こえるか。」
柴田は耳を澄ませる。
しばらくして、小さく首を振った。
「まだ分かりません。」
「それでいい。」
伊藤は静かにうなずく。
「分からんもんは分からん。」
「でもな。」
「毎日聞いてりゃ、そのうち分かる。」
柴田はもう一度エンジン音へ耳を傾けた。
さっきより少しだけ、真剣な顔をしていた。
工場の入口では、高橋が腕を組んで笑っている。
「また怒られてる。」
磯山も笑う。
「今日は長いな。」
マスターは何も言わない。
柴田を見ている。
伊藤は工具箱を閉じた。
「見て覚えろ。」
一拍置いて続ける。
「でも。」
「分からんことは聞け。」
柴田は深く頭を下げた。
「はい。」
その返事を聞いて、伊藤はようやく笑った。
「よし。」
「缶コーヒー飲むぞ。」
さっきまでの空気が嘘のようにほどける。
五人は工場の外へ出た。
夕焼けに照らされたトラックが赤く光っている。
缶コーヒーを開ける音が重なった。
誰も、さっきのことは話さない。
それでよかった。
教わったことは、言葉よりも、その時間ごと覚えていくものなのだろう。
◇
老人は静かにカップを置いた。
「柴田は器用だった。」
「だから厳しくなった。」
若い男は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
厳しかったのではない。
期待していた。
そういうことなのだと分かった。
「できる奴には。」
老人は少し照れくさそうに笑う。
「できるようになってほしいもんだ。」
マスターはカップを磨く手を止めることなく、小さく答えた。
「知ってる。」
老人も笑った。
「お前も見てたからな。」
若い男は壁の集合写真を見上げる。
笑顔だけが残った一枚の写真。
けれど、その笑顔の向こうには。
叱られた日も。
教わった日も。
缶コーヒーを飲みながら笑った日も。
きっと同じ数だけ積み重なっていたのだろう。
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