伊藤② 仕事終わり
老人は壁の写真を眺めたまま、小さく笑った。
「仕事が終わるとな。」
「毎日、誰か来る。」
若い男は黙って耳を傾ける。
老人の目は写真を見ているようで、その向こうの景色を見ているようでもあった。
◇
夏の夕方だった。
整備工場の中には、まだ昼間の熱気が残っている。
一日中響いていたエンジン音も止み、コンプレッサーの音も消えた。
静かになった工場へ、工具を片付ける音だけが響く。
伊藤は工具箱のふたを閉め、大きく息をついた。
今日も終わった。
そう思う頃になると、不思議と誰かがやって来る。
「伊藤さん。」
最初に顔を出したのは高橋だった。
工場の入口からひょいと顔をのぞかせる。
「終わりました?」
「見りゃ分かる。」
「じゃあ缶コーヒー一本。」
「勝手に取るな。」
高橋は笑いながら冷蔵庫を開ける。
「あとで払います。」
「その”あとで”を見たことがねぇ。」
そんなやり取りをしていると、また足音が聞こえた。
「お疲れさまです。」
マスターだった。
手にはドライバーが一本。
「返しに来ました。」
「ちゃんと返すのはお前だけだ。」
伊藤が受け取ると、マスターは何も言わず工場の隅へ腰を下ろした。
少し遅れて、トラックの音が近付いてくる。
磯山だった。
車から降りるなり、真っ先にトラックの周りを一周する。
「今日もよく走ったな。」
車へ話しかけるようにつぶやく姿に、伊藤は思わず笑う。
「お前は本当に車が好きだな。」
「好きですね。」
磯山は照れもせず答えた。
工場の奥から、何かを探す音がする。
「柴田。」
名前を呼ぶと、小さく返事が返ってきた。
「はい。」
見ると、もう工具箱を開けている。
「また勝手に触ってる。」
「見てるだけです。」
「見てる奴は工具を持たん。」
工場に笑い声が広がる。
誰かが呼んだわけではない。
約束をしたわけでもない。
仕事が終わると、自然とここへ集まっていた。
缶コーヒーを飲みながら話をする日もある。
何も話さず、それぞれ好きなことをしている日もある。
高橋はよくしゃべる。
磯山は車ばかり見ている。
柴田は工具に夢中になる。
マスターは、その様子を黙って見ている。
伊藤はそんな四人を見ながら思う。
用なんかない。
それでも帰らない。
ここへ来れば誰かがいる。
ただ、それだけでよかった。
あの頃は、それが当たり前だった。
◇
老人はコーヒーを一口飲んだ。
「毎日そんな感じだった。」
若い男は壁の集合写真を見上げる。
一枚の写真に残っている笑顔。
けれど、本当に大切だったのは。
写真を撮った、その一日ではない。
その前にも、その後にも続いていた。
何気ない毎日だったのだろう。
老人は静かに笑った。
「帰れって言っても帰らん。」
「まったく。」
「手のかかる弟分だった。」
マスターはカップを置き、小さく答える。
「そうか。」
若い男は思った。
停車場ができる前。
あの整備工場は、もう一つの停車場だったのかもしれない。
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