伊藤① 隣の整備工場
木曜日ではなかった。
午後の停車場。
若い男はホットコーヒーを飲みながら、壁の集合写真を眺めていた。
トレーラーの前に並ぶ大勢の社員。
その中には、マスターも、高橋も、磯山も、佐伯もいる。
そして、その写真を撮った柴田だけは写っていない。
高橋から聞いた昔話を思い返していた。
会社を立ち上げたこと。
最初の仕事。
缶コーヒー一本で喜んだ日。
一枚の写真の向こうには、まだ知らない時間が残っている。
カラン。
扉が開いた。
「おう。」
老人だった。
帽子を脱ぎ、いつもの席へ腰を下ろす。
「暑いな。」
「そうか。」
マスターは短く返し、コーヒーを淹れ始める。
若い男はその様子を見ながら笑った。
この二人の会話は、いつも短い。
それでも不思議と、ちゃんと会話になっている。
コーヒーが置かれる。
老人は一口飲み、小さく頷いた。
「うまい。」
「知ってる。」
若い男は思わず吹き出した。
老人も笑う。
「相変わらずだな。」
店の中に、ゆっくりとした空気が流れる。
若い男は老人へ向き直った。
「伊藤さん。」
「ん?」
「高橋さんから、昔のお話を聞きました。」
「あいつからか。」
「会社を立ち上げた話です。」
老人は静かにカップを置いた。
「余計なことまで喋ったな。」
そう言いながらも、その顔はどこか嬉しそうだった。
「伊藤さんは、皆さんが若い頃から知ってるんですよね。」
「ああ。」
短い返事だった。
若い男は続ける。
「昔から仲が良かったんですか。」
老人は少しだけ写真を見上げた。
「仲が良かった……か。」
少し考えてから笑う。
「気付いたら、毎日顔を合わせてた。」
「毎日?」
「ああ。」
「工場の隣が運送会社だった。」
「朝も会う。」
「昼も会う。」
「仕事が終わっても会う。」
「帰れって言っても帰らん。」
若い男は笑う。
「そんなにですか。」
「そんなにだ。」
老人はコーヒーを飲みながら続けた。
「高橋はよう喋る。」
「磯山はトラックばっかり見てる。」
「柴田は勝手に工具を触る。」
「マスターは……。」
そこで少し笑う。
「あいつは、人の話ばっかり聞いてた。」
若い男はマスターを見る。
今と変わらない。
話すより、聞く。
教えるより、考えさせる。
そんな姿が、若い頃から変わっていなかったことが少し嬉しかった。
「最初はな。」
老人が静かに口を開く。
「ただ隣で働いてる兄ちゃんたちだった。」
少し間が空く。
「でもな。」
「毎日顔を合わせてると。」
「気付いたら弟分になってた。」
若い男は何も言わなかった。
兄貴分になろうと思ったわけじゃない。
弟分になろうと思ったわけでもない。
ただ毎日、同じ時間を過ごした。
それだけだった。
老人は壁の写真を見上げる。
「まったく。」
「手のかかる奴らだった。」
マスターは静かにコーヒーカップを磨きながら言った。
「知ってる。」
窓の外を、一台のトラックが走り抜けていく。
その音を聞きながら、若い男は思った。
会社を作る前から。
あの人たちは、もう仲間だったのかもしれない。
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