高橋⑦
木曜日だった。
午後の停車場。
高橋は新聞を読み終え、コーヒーを一口飲んだ。
若い男は静かに尋ねる。
「マスターは、どうして喫茶店を始めたんですか。」
高橋は少しだけ考えた。
「ある日な。」
「急に言い出した。」
「喫茶店でもやろうと思う。」
若い男は思わず笑う。
「本当に急ですね。」
「ああ。」
「俺たちも笑った。」
店の中にジャズが流れる。
高橋はコーヒーカップを見つめながら続けた。
「理由を聞いたんだ。」
「そしたらな。」
少し間を置く。
「人が帰ってくる場所を作りたい。」
若い男は、その言葉をゆっくり聞き返した。
「帰ってくる場所……。」
「ああ。」
高橋は頷く。
「事務所って不思議だった。」
「仕事が終わると、みんな戻ってくる。」
「磯山も。」
「柴田も。」
「俺も。」
「伊藤さんまで、用もないのに来る。」
若い男は思わず笑う。
「仕事が終わったら、缶コーヒー飲んで。」
「どうでもいい話して。」
「笑って。」
「また帰る。」
高橋も笑う。
「毎日そんな感じだった。」
カウンターでは、マスターが静かにカップを磨いている。
高橋はその背中を見ながら言った。
「いつも事務所にいたのは、あいつだからな。」
「だから気付いたんだろう。」
「帰ってくる場所って、いいもんだって。」
若い男は店の中を見渡した。
新聞を読む高橋。
静かにコーヒーを淹れるマスター。
流れるジャズ。
自分も、いつの間にか木曜日になるとここへ来ている。
「だから喫茶店だったんですか。」
高橋は静かに頷いた。
「大きな店じゃなくていい。」
「立派な店でもない。」
「仕事帰りに寄れる。」
「誰かがふらっと帰って来られる。」
「そんな場所を作りたかったんだと思う。」
しばらく誰も話さなかった。
ジャズだけが静かに流れている。
マスターは洗い終えたカップを棚へ戻した。
乾いた音が、小さく響く。
「思ったより。」
マスターがぽつりと言う。
「長居する奴が多かった。」
高橋が吹き出した。
「お前も嬉しかっただろ。」
「知ってる。」
店の中に笑いが広がる。
若い男も笑った。
気付けば、自分もその一人だった。
窓の外では、一台のトラックが静かに走り過ぎていく。
その音を聞きながら、若い男は思う。
この店は、コーヒーを飲みに来る場所じゃない。
帰ってくる場所なのかもしれない。
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