高橋①
木曜日の午後。
停車場には、いつものようにジャズが流れていた。
窓から差し込む柔らかな陽射しが、店の中をゆっくりと照らしている。
カラン。
ドアベルが鳴った。
「こんにちは」
若い男が店へ入る。
「おう」
マスターはカウンターの中でカップを磨いていた。
その返事も、もう聞き慣れたものだった。
店内を見回す。
窓際には誰もいない。
カウンターにも客はいない。
奥のいつもの席。
そこだけは変わらなかった。
高橋が新聞を広げている。
湯気の立つコーヒーカップ。
読みかけの新聞。
静かな横顔。
毎週木曜日に見る景色だった。
若い男が席へ座る。
ほどなくして、コーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「頼んでません」
「知ってる」
高橋が新聞をめくりながら笑う。
「もう挨拶みたいなもんだな」
若い男も笑った。
「本当ですね」
店内はまた静かになる。
新聞をめくる音。
カップを置く音。
ジャズ。
停車場では、それだけで十分だった。
若い男はコーヒーを飲みながら、高橋を見た。
少し前までなら。
毎週新聞を読みに来る、おだやかなおじさん。
そのくらいの印象しかなかった。
でも違う。
この前知った。
高橋は運送会社の専務だった。
社員三十人ほどの会社で、代表の磯山、取締役の柴田と共に会社を支えている。
知ってしまうと、不思議なものだった。
新聞を読む姿まで違って見える。
「今日は会社、大丈夫なんですか?」
若い男が尋ねる。
高橋は新聞から目を離さない。
「今日は木曜だからな」
「木曜?」
「午後はなるべく空けるようにしてる」
「ここへ来るためですか?」
新聞の向こうで笑った。
「まあな」
マスターがコーヒーを淹れながら口を開く。
「会社にも言ってある」
「木曜の午後は捕まらん」
若い男は驚いた。
「そんなことできるんですか?」
高橋は新聞を閉じる。
「できるようにした」
「毎週来るって決めたからな」
その言葉が妙に印象に残った。
仕事が忙しいから来られない。
そんな人はたくさんいる。
でも高橋は違う。
来ると決めたから、その時間を作っている。
その時だった。
テーブルの上で、小さな電子音が鳴った。
高橋のスマートフォンだった。
画面を見る。
一瞬だけ表情が引き締まる。
新聞を静かにたたみ、電話に出た。
「高橋です」
若い男は何となく耳を傾ける。
「ああ」
「場所は」
「けが人は?」
短い言葉だけが続く。
慌てる様子はない。
声を荒げることもない。
だが。
さっきまで新聞を読んでいた人とは、どこか違って見えた。
「……そうか」
少しだけ間が空く。
「分かった」
「今から戻る」
電話を切る。
スマートフォンをポケットへしまい、高橋は立ち上がった。
「悪い」
マスターを見る。
「会社戻る」
マスターは短く聞く。
「事故か」
「ああ」
「事故らしい」
それだけだった。
「気を付けろ」
「おう」
若い男は思わず声を掛けた。
「忙しいんですね」
高橋は少しだけ笑う。
「今日はたまたまだ」
そう言って店を出ようとする。
その背中は、さっきまで新聞を読んでいた人とは別人のようだった。
専務として会社へ向かう人の背中だった。
カラン。
ドアベルが鳴る。
店内には再び静かなジャズが流れ始める。
若い男は、高橋が座っていた席を見つめた。
新聞だけがきれいにたたまれたまま残っている。
「高橋さんって……」
思わず口をつく。
マスターはカップを磨きながら答えた。
「仕事になると別人だ」
若い男は静かに頷いた。
毎週新聞を読んでいる人。
その印象は変わらない。
でも、その一枚向こうには。
まだ自分の知らない高橋という人がいる。
そんな気がした。
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