第三話 会う理由
電話を切ったあと。
しばらく受話器を握ったままだった。
「マスター?」
若い男の声で我に返る。
「ああ」
受話器を戻す。
いつもの店内。
いつものジャズ。
いつものコーヒーの香り。
なのに妙に落ち着かない。
「知り合いですか?」
若い男が聞く。
「昔のな」
それ以上は言わなかった。
老人はニヤニヤしている。
全部分かっている顔だ。
「会うんだろ?」
「知らん」
「会えよ」
「なんで」
「三十年ぶりだぞ」
俺は返事をしなかった。
老人は昔からこうだった。
余計なことばかり言う。
そして大体当たる。
営業が終わったあと。
一人で店を片付ける。
椅子を上げる。
床を掃く。
カップを洗う。
最後に照明を少し落とす。
毎日同じ。
二十年以上続けている。
だがその日は違った。
帰ろうとして。
ふと壁の写真の前で足が止まった。
若い頃の集合写真。
真ん中に俺。
右端にアイツ。
名前は高橋。
同い年だった。
いや。
今も同い年か。
写真の中の高橋は笑っている。
実際は無口な男だった。
俺が喋る。
高橋が聞く。
そんな関係だった。
トレーラーで全国を走った。
雪道も走った。
真夜中の港も走った。
若い頃は仕事が終われば酒を飲み、休みになれば釣りに行った。
家族より長い時間を一緒にいた気がする。
だが。
ある日を境に会わなくなった。
喧嘩したわけじゃない。
裏切られたわけでもない。
ただ。
人生が別々の方向へ進んだ。
俺は結婚した。
子供が生まれた。
仕事も変わった。
高橋もどこかへ行った。
気付けば連絡しなくなっていた。
それだけだ。
それだけなのに。
三十年はあっという間だった。
俺は写真を見ながら呟く。
「相変わらずデカいな」
当然返事はない。
店の鍵を閉める。
外は夕暮れだった。
スマホが震える。
メッセージ。
送り主は昨日の老人。
一行だけ。
『日曜日、港にいるぞ』
俺は思わず笑った。
勝手に決めやがる。
昔からそうだ。
断る理由を考える。
忙しい。
予定がある。
遠い。
いくらでもある。
だが。
不思議なことに。
会わない理由より。
会う理由の方を考えている自分がいた。
日曜日まであと三日。
たった三日なのに。
妙に長く感じた。
翌日。
開店して間もなく。
若い男がまたやって来た。
「おはようございます」
「また来たのか」
「また来ました」
男は笑う。
もう常連みたいな顔だ。
コーヒーを置くと。
男が突然言った。
「転職、決めました」
「ほう」
「やります」
俺は少し驚いた。
「そうか」
「昨日、帰って考えたんです」
男は照れくさそうに笑う。
「後悔と否定は別だって話」
俺は黙って聞く。
「失敗するかもしれないけど」
「うん」
「今のまま何もしない方が後悔しそうだったんで」
俺は頷いた。
悪くない顔だった。
若い頃の人間はそういう顔をする。
未来に賭ける時の顔だ。
男はコーヒーを一口飲む。
そして聞いた。
「マスターは?」
「ん?」
「会いに行くんですか」
俺は苦笑した。
若い奴は遠慮がない。
「さあな」
「行った方がいいと思います」
「なんで」
男は少し考えてから答えた。
「会わない理由より、会う理由の方を考えてる顔してますから」
その言葉に。
俺は初めて返事に詰まった。
窓の外では風が吹いていた。
日曜日まで。
あと二日だった。
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