外伝20 どっちでもいいが一番困る
カラン。
午後だった。
若い男が店に入る。
「こんにちは」
返事がない。
珍しい。
カウンターを見る。
マスターがノートパソコンとにらめっこしていた。
眉間に皺が寄っている。
何か悩んでいるらしい。
カウンターには二人。
整備工場の老人。
そして見慣れない女性。
五十代くらいだろうか。
上品な雰囲気だった。
足元には木彫りの小物が入った箱。
土産物のようにも見える。
若い男には、それ以上は分からなかった。
若い男が席につく。
今日は頼んでもいないコーヒーも出てこない。
本気で悩んでいるようだった。
若い男は老人に聞く。
「何かあったんですか?」
老人が笑う。
「相談だ」
「相談?」
女性が頭を下げた。
「工芸品店をやっているんです」
「どうも」
「今まで帳簿を手書きでつけていたんですが、最近パソコンを買いまして」
若い男が頷く。
「それで?」
「数字は入力できるんです」
「はい」
「でも計算は結局電卓でやってるんですよ」
若い男が笑った。
「それだとパソコンの意味ないですね」
「でしょう?」
女性も苦笑いする。
「だからどうしたらいいか分からなくて」
老人が口を開く。
「それで相談に来たんだ」
「俺のところにな」
若い男が老人を見る。
「整備工場にですか?」
「そうだ」
老人は頷く。
「帳簿は分からん」
「パソコンも分からん」
「だから言った」
「なんて?」
「マスターに聞け」
若い男は納得した。
なるほど。
いつもの流れだった。
だが。
マスターはまだ悩んでいる。
画面を見る。
腕を組む。
また画面を見る。
ため息をつく。
若い男が驚く。
「珍しいですね」
「何がだ」
「悩んでるじゃないですか」
マスターは画面から目を離さない。
「悩んでる」
認めた。
若い男が聞く。
「何で悩むんです?」
ようやく顔を上げる。
「VBAで作るか」
「はい」
「関数で作るか」
「はい」
「どっちも一長一短だ」
女性は困ったように笑う。
「私には分からないの」
「そうだろうな」
「どっちでもいいし」
マスターは天井を見た。
「それが一番困る」
老人が笑う。
「そうなんだよな」
若い男が聞く。
「マスターならどっちで作るんです?」
「俺ならVBAだ」
「ですよね」
「だが」
「だが?」
「この人は俺じゃない」
店内が静かになる。
マスターは女性を見る。
「毎日使うか?」
「使います」
「誰かに任せる予定は?」
「ありません」
「自分で直したいか?」
女性は少し考えた。
「できれば」
マスターは頷いた。
「なら関数だ」
あっさり決まった。
女性が聞く。
「でも、ぶいびいえー?の方が便利なんでしょ?」
「便利だ」
「じゃあそっちじゃないの?」
マスターは首を振る。
「便利と使えるは違う」
老人が笑う。
「始まったな」
若い男も笑う。
たまに出る。
マスターの少し長い話だった。
「関数なら式が見える」
「壊れても追える」
「VBAは便利だ」
「でも中が見えない」
若い男が頷く。
「毎日使うなら」
マスターは続ける。
「自分で理解できる方がいい」
「分からなくなったら」
「便利さは役に立たん」
女性は静かに頷いた。
「それがいいかもしれません」
「おかしくなったら持ってくればいい」
「その時はお願いします」
「見てみる」
それはマスターなりの保証だった。
ようやくマスターはノートパソコンを閉じた。
方針が決まったらしい。
若い男が言う。
「結局作るんですね」
「そうだな」
「いくら取るんです?」
マスターは少し考えた。
「コーヒー一杯」
女性が笑う。
老人も笑う。
若い男は呆れた。
「安すぎません?」
マスターは立ち上がる。
そしてようやく。
頼んでもいないコーヒーを若い男の前に置いた。
「どうぞ」
「遅いですよ」
「忙しかった」
若い男は笑う。
「今日はちゃんと喫茶店の仕事してください」
マスターはカップを拭きながら答えた。
「今してる」
店内に笑いが広がる。
喫茶店なのに。
今日もだった。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
勝手ではありますが、次回より掲載時間を変更させていただきます。
次回から毎日17:30更新(できる限り毎日)を予定しております。
夕方の少し落ち着く時間に、『停車場』のゆったりとした空気をお届けできればと思っています。
これからも、マスターや高橋、若い男たちの日常を楽しんでいただけたら嬉しいです。
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今後とも『停車場』をよろしくお願いいたします。




