外伝19 材料があれば
木曜日だった。
カラン。
ドアベルが鳴る。
若い男が店に入る。
「こんにちは」
「おう」
マスターが答える。
高橋もいた。
いつもの席。
いつもの新聞。
いつもの木曜日だった。
若い男が席に座る。
頼んでもいないコーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「頼んでません」
「知ってる」
高橋が笑う。
「もう定型文だな」
若い男も笑う。
そんな時だった。
カラン。
再びドアベルが鳴る。
見慣れない男だった。
大きなリュック。
歩きやすそうな靴。
首にはカメラ。
観光客らしい。
若い男は少し珍しく思った。
駅から少し離れている。
観光地の中心でもない。
この店に来る観光客は多くない。
観光客は少し疲れた様子で席についた。
メニューを見る。
しばらく眺める。
そして聞いた。
「あの」
「なんだ」
「何か食べられますか?」
若い男が思わず顔を上げる。
確かに。
メニューにはコーヒー。
紅茶。
トースト。
それくらいしか書いていない。
マスターは聞いた。
「何が食いたい」
観光客は少し考える。
「できれば」
「うん」
「温かいものを」
マスターは立ち上がる。
厨房へ向かう。
冷蔵庫を開ける。
棚を見る。
引き出しを見る。
しばらく考える。
そして戻ってきた。
「うどんだな」
観光客が笑う。
「あります?」
「材料はある」
高橋が新聞を下ろす。
若い男も笑う。
観光客だけが事情を知らない。
数分後。
奥から出汁の匂いがしてきた。
観光客が驚く。
「本当に作るんですか」
高橋が答える。
「材料があればな」
若い男も頷く。
「たぶん作ります」
観光客はまだ半信半疑だった。
さらに数分。
マスターが丼を持ってきた。
湯気が立っている。
シンプルなうどんだった。
観光客の顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
観光客は箸を取る。
出汁を飲む。
少し驚いた顔をした。
「美味しい」
マスターは何も言わない。
カウンターに戻る。
観光客は夢中で食べ始めた。
しばらくして。
「助かりました」
観光客が言う。
「駅前のお店全部混んでて」
「そうか」
「歩いてたら偶然見つけて」
「そうか」
マスターは相変わらずだった。
観光客は笑う。
そして聞いた。
「ここ何屋さんなんですか?」
若い男が吹き出す。
高橋も笑う。
マスターだけが真顔だった。
「喫茶店だ」
観光客はうどんを見る。
マスターを見る。
うどんを見る。
「喫茶店?」
「喫茶店だ」
誰も説明しなかった。
観光客がうどんを食べ終える。
満足そうな顔だった。
若い男が言う。
「マスター」
「なんだ」
「うどん作れるんですね」
マスターは少し考えた。
そして答えた。
「作ったことあるからな」
高橋が新聞を畳む。
「何でも作るぞこいつ」
若い男が笑う。
「何でもは言い過ぎでしょ」
高橋は当然のように言った。
「昔レストランで働いてたからな」
若い男が固まる。
「え?」
観光客も固まる。
「え?」
マスターはコーヒーカップを拭いている。
「高校の頃だ」
若い男は額を押さえた。
「また増えた……」
高橋が聞く。
「何がだ」
「マスターの謎です」
観光客も頷く。
「わかります」
マスターは首を傾げる。
「別に謎じゃない」
若い男は指を折り始めた。
「大型免許」
「持ってる」
「けん引」
「持ってる」
「Excel」
「やった」
「簿記」
「やった」
「料理」
「やった」
「コーヒー」
「やってる」
若い男は言った。
「喫茶店のマスターが謎じゃないわけないでしょ」
マスターは少し考えた。
そして答えた。
「喫茶店だ」
高橋が頷く。
「喫茶店だな」
観光客もつられて頷く。
「喫茶店ですね」
若い男は諦めた。
「もういいです」
店内に笑いが広がる。
帰り際。
観光客は会計を済ませる。
「また来ます」
「おう」
リュックを背負う。
ドアに手をかける。
そして振り返った。
「次は何食べられますか?」
マスターは即答した。
「材料があれば」
観光客は笑った。
高橋も笑った。
若い男も笑った。
喫茶店なのに。
今日もうどん屋だった。
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