外伝17 誕生日
午後だった。
カラン。
ドアベルが鳴る。
若い男が入ってくる。
「こんにちは」
「おう」
マスターが答える。
店内を見回す。
高橋はいなかった。
木曜日ではない。
いつもの席は空いている。
若い男はカウンターに座る。
コーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「頼んでません」
「知ってる」
いつものやり取りだった。
若い男はコーヒーを一口飲む。
そして少し間を置いて言った。
「マスター聞いてくださいよ」
「なんだ」
「今日」
また少し間が空く。
「誕生日なんです」
マスターが頷く。
「そうか」
それで終わりそうになった。
「終わらないでくださいよ」
若い男が言う。
マスターは少しだけ笑う。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
若い男は頷く。
そして小さくため息をついた。
「でもですね」
「うん」
「いいことが一つもなくて」
マスターは黙って聞いている。
若い男は続ける。
「上司に指摘されて」
「うん」
「凹んで」
「うん」
「事務の女性にも指摘されて」
「うん」
「さらに凹んで」
「うん」
「まぁ」
少し苦笑する。
「自分のミスなんですけど」
「そうか」
店内が静かになる。
若い男はコーヒーを見つめる。
「誕生日なのになぁ」
ぽつりとこぼす。
マスターはカップを拭いていた。
そして言った。
「よかったじゃないか」
若い男が顔を上げる。
「何がです?」
「指摘されたんだろ」
「されました」
「よかったじゃないか」
若い男は納得できない顔をする。
「全然よくないです」
マスターは首を振る。
「指摘されるってことは」
カップを棚に戻す。
「期待されてるってことだ」
若い男は黙る。
マスターは続ける。
「どうでもいい相手なら」
「誰も言わん」
「勝手に困らせて終わりだ」
若い男は少し考える。
確かに。
怒られたというより、
直してほしいと言われていた気もする。
「でも」
「うん」
「誕生日なのに」
マスターは頷く。
そして言った。
「誕生日でよかったじゃないか」
若い男は首をかしげる。
「どういうことです?」
マスターは少し考える。
「誕生日から」
「はい…」
「指摘されたってことは」
「はい…」
「今日から直せるってことだ」
若い男は黙る。
マスターは続ける。
「昨日までのお前は」
「そのままだった」
「今日気付いた」
「はい…」
「じゃあ明日からは違う」
若い男はコーヒーを見る。
マスターの言葉はいつも少し遠回りだ。
でも妙に残る。
「誕生日ってな」
マスターが言う。
「歳を取る日じゃない」
「はい…」
「少しだけ」
「はい…」
「マシになる日だ」
若い男は笑った。
「そんな都合よくいきますかね」
「知らん」
即答だった。
二人とも少し笑う。
しばらくして。
若い男は立ち上がる。
「帰ります」
「おう」
会計を済ませる。
扉を開ける。
その時だった。
「誕生日おめでとう」
マスターが言った。
若い男が振り返る。
マスターはカップを洗っている。
こちらを見ていない。
若い男は少し笑う。
「ありがとうございます」
ドアベルが鳴る。
外は夕方だった。
誕生日はまだ終わっていない。
たぶん。
悪い日ではなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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