外伝11 昔は回せた
午後の日差しが少し傾き始めた頃だった。
若い男は停車場へ向かっていた。
そして。
店の前で足を止めた。
人だかりができている。
正確には。
子供だかりだった。
小学生が五人。
いや六人か。
店の前に集まっている。
何かを囲んでいる。
中心にいるのは。
当然のようにマスターだった。
「何やってるんですか」
若い男が聞く。
マスターはしゃがみ込んだまま答えた。
「たぶんできそうだったからやってみようと思って」
「何が?」
「まぁ見てろ」
意味が分からなかった。
⸻
地面にはバケツが置かれていた。
普通のバケツだった。
その口を覆うように白い布が張られている。
ビニール紐でしっかり縛られていた。
布の中央は少しだけ凹んでいる。
何かの準備らしい。
小学生たちは期待に満ちた目で見ている。
若い男だけが状況を理解していない。
マスターは立ち上がる。
ポケットに手を入れる。
取り出したのは。
金属製の小さな物体だった。
若い男は首を傾げる。
円盤のような。
独楽のような。
何かだった。
「何ですかそれ」
マスターは手のひらを見た。
「べいごま」
「べいごま!?」
「そうだ」
「初めて見ましたよ」
「そうか」
マスターは気にした様子もない。
それで会話は終わった。
若い男は思った。
説明しないのか。
⸻
マスターは紐を巻き始める。
慣れた手つき。
だが少し遅い。
「久々だからな」
そして。
振りかぶる。
「俺の前に立つなよ」
子供たちが慌てて避ける。
シュッ。
べいごまは飛ぶ。
飛んで。
飛んで。
バケツを通り過ぎた。
カラン。
地面に落ちた。
沈黙。
「なんだよー」
「失敗じゃん」
「そうだな」
マスターは気にしていない。
「もう一回」
再び紐を巻く。
今度は少し真剣な顔だった。
振りかぶる。
放つ。
シュッ。
べいごまが飛ぶ。
布の中央。
少し凹んだ場所へ。
着地。
回った。
子供たちが歓声を上げる。
「おおーー!!」
「すげー!」
「乗った!」
マスターの顔が少しだけ明るくなる。
「急げ急げ!」
そう言いながら次のべいごまを準備する。
二個同時に回したかったらしい。
紐を巻く。
放つ。
今度は失敗した。
べいごまは布の端に当たり。
地面へ落ちた。
カラン。
終了だった。
「ありゃ」
マスターが言う。
子供たちは笑う。
⸻
数分後。
「じゃあ帰るー」
「俺もー」
「ゲームしよーぜ」
子供たちは去っていった。
興味を失うのも早かった。
店の前には。
若い男とマスターだけが残る。
地面にはべいごま。
布を張ったバケツ。
少しだけ静かな風。
「何だったんです?」
若い男が聞いた。
マスターはべいごまを拾う。
「昔な」
「はい」
「こうやってバケツに布を張って」
「はい」
「その上でケンカごまして遊んでた」
「できたんですか?」
マスターは少し考えた。
そして言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「できた気がする」
若い男が笑う。
「曖昧ですね」
「昔の話だからな」
べいごまをポケットにしまう。
バケツを片付ける。
白い布を外す。
その動作はどこか楽しそうだった。
「悔しくないんですか」
若い男が聞く。
マスターは店の扉を開けながら答える。
「別に」
「本当ですか」
「たぶんな」
絶対少し悔しい。
若い男はそう思った。
⸻
店に入る。
高橋がいた。
新聞。
コーヒー。
いつもの席。
「できたか」
高橋が聞く。
「半分」
マスターが答える。
高橋が笑う。
「そうか」
それだけだった。
⸻
その日の営業が終わった。
最後の客が帰る。
静かになった店内。
マスターはカップを片付ける。
テーブルを拭く。
照明を落とす。
そして。
店の奥から何かを持ってきた。
バケツ。
白い布。
べいごま。
昼間の続きだった。
店の前に出る。
誰もいない。
若い男も。
高橋も。
子供たちも。
いない。
布を張る。
紐を縛る。
中央を少しだけ凹ませる。
昼間と同じ。
マスターは黙って紐を巻く。
シュッ。
失敗。
カラン。
もう一回。
シュッ。
失敗。
また巻く。
また投げる。
また失敗する。
気が付けば空は暗くなっていた。
何回目か分からない挑戦。
一つ目が布の中央に入る。
静かに回る。
マスターはすぐに二つ目を放つ。
シュッ。
二つ目も布の上に着地する。
二つのべいごまが回る。
ぶつかる。
離れる。
またぶつかる。
少しずつ位置を変えながら回り続ける。
三秒。
六秒。
十秒。
やがて一つが弾かれる。
もう一つも止まる。
静かになる。
マスターは口元だけ少し緩めた。
「できたな」
誰もいない。
拍手もない。
歓声もない。
それでも。
満足そうだった。
片付けながら。
少し皮が剥けた指をさする。
「昔はもっと上手かったんだがな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして。
少しだけ笑った。
⸻
翌日。
若い男は知らない。
高橋も知らない。
子供たちも知らない。
ただ。
店の前のアスファルトには。
べいごまが何度も落ちた跡が増えていた。
停車場は今日も営業中だった。
喫茶店なのに。
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