外伝3 エクセルの向こう側
昼下がりだった。
カラン。
ドアベルが鳴る。
若い男が店に入る。
「こんにちは」
いつものように声をかける。
だが今日は少し様子が違った。
窓際の席に見慣れない男が座っている。
三十代半ばくらいだろうか。
ワイシャツ姿。
ネクタイは少し緩めている。
ノートパソコンを開いて何かを見ていた。
その隣にはマスターが立っている。
画面を覗き込みながら話していた。
若い男と目が合う。
マスターは軽く手を上げた。
「おう」
そしてサラリーマン風の男に一声かける。
「ちょっと待ってろ」
「はい」
マスターはカウンターへ向かう。
何事もなかったようにコーヒーを淹れる。
そして若い男の前へ置いた。
「どうぞ」
「頼んでません」
「知ってる」
いつも通りだった。
マスターはそのままサラリーマン風の男の席へ戻る。
若い男は席についた。
なんとなく会話が聞こえてくる。
「だからな」
マスターが言う。
「IFを三つも四つも重ねるから分からなくなる」
「ああ……」
男が頭を抱える。
「まず条件を整理しろ」
「はい」
「人間が分からんものはエクセルも分からん」
若い男はコーヒーを吹きそうになった。
どうやらExcelの話らしい。
しばらくすると。
「なるほど!」
男が声を上げた。
「そういうことか!」
マスターが頷く。
「そういうことだ」
どこかで聞いたような流れだった。
簿記講座の時と同じ顔をしている。
男はキーボードを叩く。
数秒。
画面を見つめる。
そして笑った。
「できた!」
「よかったな」
「助かりました」
マスターは当たり前のようにコーヒーを飲む。
まるで自分が何かしたとは思っていない顔だった。
やがて男はパソコンを閉じる。
会計を済ませる。
「本当にありがとうございました」
「また分からなくなったら来い」
「喫茶店ですよね?」
「そうだ」
男は笑った。
そして帰っていった。
ドアベルが鳴る。
静かになる店内。
若い男は待っていた。
そしてすぐに聞いた。
「何教えてたんですか?」
「エクセルだ」
「話聞こえてたんでそこは分かります」
マスターはコーヒーカップを洗う。
「そうか」
「そうかじゃないですよ」
「エクセル関数は面白いよな」
「答えになってないですけど」
高橋がいたら笑っていただろう。
若い男は呆れている。
マスターは構わず続ける。
「昔な」
「はい」
「エクセルVBAでゲーム作ったことがある」
若い男の動きが止まった。
「は?」
「やってみるか?」
マスターはカウンターの下をごそごそ探し始める。
そして一台の古いノートパソコンを取り出した。
年季が入っている。
少し黄ばんでいる。
だが大事に使われているのが分かる。
電源を入れる。
立ち上がるまで妙に時間がかかる。
若い男は半信半疑だった。
「ゲームって……」
「ゲームだ」
「エクセルで?」
「エクセルで」
「嘘でしょ」
「本当だ」
やがて画面が立ち上がる。
シンプルなウィンドウ。
キャラクター名入力。
HP。
攻撃。
防御。
素早さ。
運。
見た目は簡素だった。
だが。
妙に作り込まれている。
若い男は画面を見つめた。
「これマスターが作ったんですか?」
「ああ」
「なんで?」
マスターは少し考えた。
そして答えた。
「作りたかったから」
それだけだった。
若い男はゲームを始める。
最初の敵が出る。
戦う。
勝つ。
少しレベルが上がる。
気付けば十分。
二十分。
三十分。
あっという間に時間が過ぎていた。
マスターはコーヒーを淹れている。
若い男は画面から目を離さない。
やがて。
ようやく顔を上げた。
「面白いです」
「そうか」
マスターはそれだけ言った。
若い男はふと思う。
この人は本当に何者なんだろう。
大型免許。
トレーラー。
喫茶店。
簿記。
包丁研ぎ。
Excel関数。
そしてVBAゲーム。
話を聞けば聞くほど分からなくなる。
だが。
ひとつだけ分かることがあった。
たぶんマスターは。
面白そうだと思ったことを。
ずっとやってきた人なのだ。
窓の外では夕日が傾き始めていた。
店内にはコーヒーの香りが漂う。
そして若い男は。
もう一回だけ戦闘を始めた。
「最後に一回だけです」
「みんなそう言う」
マスターは笑った。
その言葉だけは妙に慣れていた。
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