外伝2 木曜夕方の簿記講座
木曜の夕方だった。
高橋はいつもの席に座っていた。
窓際から少し離れた奥の席。
コーヒーは半分ほど減っている。
店内には高校生が三人いた。
男子二人。
女子一人。
近所の高校の制服を着ている。
テーブルの上にはノートと参考書。
三人とも何かを待っているような顔をしていた。
高橋は特に気にしていない。
木曜になるとこの店では時々変なことが起きる。
今さら驚くことでもない。
その時だった。
カラン。
ドアベルが鳴る。
若い男が入ってくる。
「こんにちは」
そして店内を見回した瞬間、足が止まった。
高校生が三人。
ノートを広げている。
高橋がいる。
そして店の奥からマスターが大きなホワイトボードを引っ張ってきた。
若い男は二度見した。
ホワイトボードである。
間違いない。
喫茶店にあるサイズではない。
「なんですかそれ」
思わず聞いた。
マスターが振り返る。
「ん?」
「それです」
「見ればわかる」
「ホワイトボードですよね」
「そうだ」
会話が進まない。
高橋がコーヒーを飲みながら笑っている。
若い男はさらに聞く。
「何が始まるんですか」
「そのうち分かる」
マスターはホワイトボードを高校生たちの前へ運ぶ。
それからカウンターへ戻る。
若い男の前にコーヒーを置いた。
「どうぞ」
「頼んでません」
「知ってる」
若い男は完全に諦めた。
いつものことである。
席に座る。
高橋の方を見る。
「何なんですかこれ」
「知らん」
「知らんって」
「聞いてない」
高橋は本当に知らないらしい。
ただ。
特に気にもしていない。
その温度差が若い男には不思議だった。
高校生たちがノートを開く。
マスターがペンを取る。
そしてホワイトボードに大きく書いた。
『資産』
『負債』
『純資産』
若い男が固まった。
「簿記?」
女子生徒が頷く。
「はい」
「なんでここで?」
男子生徒が答える。
「分かりやすいので」
「誰が?」
三人同時にマスターを見る。
若い男も見る。
高橋も見る。
マスターだけが平然としていた。
「まずな」
ペンでホワイトボードを叩く。
「借方と貸方を暗記しようとするな」
高校生たちが一斉に頷く。
どうやら本格的に始まるらしい。
若い男はしばらく眺めていた。
そして少し得意そうな顔になる。
「簿記かぁ」
高橋が見る。
「ん?」
「俺も少し分かりますよ」
「そうなのか」
「昔ちょっと勉強したんで」
そう言うと若い男は席を立った。
コーヒーを持ったまま高校生たちのテーブルへ近付く。
高校生たちも少し期待した顔になる。
若い男はホワイトボードを見る。
マスターを見る。
説明を聞く。
さらに聞く。
また聞く。
三分後。
黙った。
五分後。
腕を組んだ。
七分後。
静かに席へ戻った。
高橋が笑いを堪えている。
「どうした」
若い男はコーヒーを飲む。
「いや……」
「うん」
「マスターの方が分かりやすいです」
高橋が吹き出した。
「だろうな」
「俺の説明だとたぶん余計混乱します」
「だろうな」
若い男は素直だった。
マスターはホワイトボードの前で話を続けている。
車を買った場合。
現金で払った場合。
掛けで払った場合。
例え話が妙に分かりやすい。
高校生たちの表情もどんどん明るくなる。
「だから車を買ったら資産が増える」
「はい」
「現金は減る」
「あっ!」
女子生徒が声を上げる。
「そういうことか!」
マスターが頷く。
「そういうことだ」
その顔は少し嬉しそうだった。
高橋はコーヒーを飲みながら見ている。
若い男が小声で聞く。
「昔、先生だったんですか?」
高橋は首を振る。
「違う」
「じゃあなんで」
「知らん」
「またそれですか」
高橋は少し考えた。
そして言った。
「昔からだ」
「何がです?」
「聞かれたら教える」
それだけだった。
車のことも。
仕事のことも。
人生のことも。
そして今日は簿記らしい。
講座は一時間ほど続いた。
やがて高校生たちが立ち上がる。
「ありがとうございました!」
「試験頑張れ」
「はい!」
三人は元気よく頭を下げて帰っていった。
ドアベルが鳴る。
静かになる店内。
若い男が呟く。
「先生みたいでしたね」
マスターは嫌そうな顔をした。
「先生じゃない」
「でも教えてましたよ」
「聞かれたから答えただけだ」
高橋が笑う。
「昔からそうだ」
若い男はコーヒーを飲む。
そして店内を見回した。
喫茶店。
包丁研ぎ。
人生相談。
高校生向け簿記講座。
やっぱり分からない。
「結局、この店何屋なんですか?」
マスターはカップを洗いながら答えた。
「喫茶店だ」
「本当に?」
「コーヒー出してるだろ」
確かにその通りだった。
だが若い男は思う。
たぶんこの店は。
コーヒーだけを出しているわけじゃない。
そんな気がした。
外はもう夕暮れだった。
停車場の一日は、今日も少しだけ変だった。
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