第五章 頓挫した城塞
俺はリーンハルトに案内されて、ヴェスタリア辺境伯領の城塞改修現場に立っていた。
現場までの道のりを、俺は彼女の馬と並んで歩いた。
道中、彼女は領地のことを、ぽつりぽつりと語ってくれた。
ヴェスタリア辺境伯領は、王国の最北端。
冬は雪に閉ざされ、夏は短く、土地は痩せている。
領民の半分は石工。残り半分は、麦と羊を細々と育てる小作農。
しかし、北の国境を守る最後の防衛線として、王国にとっては絶対に手放せない場所だった。
その辺境を、彼女の父、ヴィルヘルム辺境伯が四十年、守ってきた。
「父は、若い頃、王都の宮廷魔術師として将来を嘱望されていたそうです」
リーンハルトは静かに語った。
「しかし、北の魔王軍の脅威が増した時、誰も辺境に行きたがらなかった。父は、自ら手を挙げて、ここに来ました」
「立派な、お父様ですね」
「ええ。立派、すぎるくらい」
彼女の声が、わずかに震えた。
「だから、王都の貴族たちには、煙たがられているのです。『あいつは清廉すぎる』、『あいつは身分の高さを利用しない』、と」
俺は黙って頷いた。
俺の世界の、清廉な現場監督と、似ていた。
現場での丁寧な仕事を、本社の営業や経営は、評価しない。
「数字に響かない」と言って、誰も見ない。
でも、現場の人たちは、ちゃんと、見ている。
そして、その積み重ねが、いつか、何かを変える。
城塞の現場が、丘の向こうに、見えてきた。
高さ十五メートル、長さ三百メートル。
国境を守る巨大な石造りの城壁が、半分まで積まれたところで、ぴたりと止まっている。
遠くから見ても、止まっているのが分かった。
工事現場特有の、賑やかさが、まるでなかった。
石材を運ぶ荷馬車も、ハンマーを振る職人も、見当たらない。
現場というのは、健康な時は、生き物のように動いている。
止まった現場は、死んだ獣のように、静かだった。
「半年です」
とリーンハルトは静かに告げた。
「半年、工事が止まっています。資材は届きません。職人たちは士気を失っています。予算は底をつきかけ、父は王都に追加予算を申請していますが、回答はありません」
彼女の声に、抑え込まれた焦りが滲んでいた。
「魔王軍が、いつここに攻め込んでくるか分かりません。この城壁が完成しなければ、領民が……」
俺は黙って現場を歩いた。
まず、足場の組み方。
悪い。手摺がない箇所が多すぎる。落下事故が出る。
日本の建設現場では、二メートル以上の高所作業には、必ず手摺と安全帯の二重対策が必要だ。
ここの足場は、十メートルの高さに、何の手摺もない。
いつ誰が落ちても、おかしくない。
次に、資材置き場。
悪い。重量物の下に脆弱物を置いている。崩落の危険。
大きな石材の下に、加工用の木材が押し込まれている。
もし石材が滑り落ちたら、下の木材を割って、職人を巻き込む。
次に、石材の搬入経路。
最悪。搬入と職人の動線が交錯している。これでは効率が出ない上に、職人が怪我をする。
現場の動線設計、というのは、地味だが、最も重要な仕事の一つだ。
人と荷物の流れが、衝突しないように、緻密に計画する。
ここは、まったく、計画されていなかった。
「すみません、こちらの工程表を見せていただけますか」
「工程……表?」
リーンハルトは首を傾げた。
ない。
ないのか。
俺は天を仰いだ。
この世界に、工程表という概念がない。あるのは、職人頭の頭の中の「だいたいの段取り」だけだ。
それで半年、止まっている理由が、よくわかった。
ガロン親方のような熟練の石工が、頭の中で全工程を組んで、それを全員に伝えている。
でも、ガロン親方の頭が一つしかない以上、彼が他の作業に手を取られると、全体が止まる。
誰も、彼に代わって判断できない。
「もし、よろしければ」と俺は言った。
「三日、お時間をいただけますか。三日あれば、この現場の段取りを、立て直せると思います」
リーンハルトは、ぱちりと瞬きをした。
「三日……ですか? 半年止まっているのですよ」
「ええ。三日で、再開させます」
彼女は、しばらく俺の顔をじっと見つめた。
その目には、半信半疑の光と、藁にもすがる切実さが、同居していた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。あなたを、信じます」
「ありがとうございます」
「ただし」
彼女は付け加えた。
「もし、三日で動かなかった場合、あなたは、ご自分の正体を、お話くださいませ」
「は」
「あなたが、ただの旅人でない、ということ。それだけは、分かっておりますから」
俺は、苦笑して、頷いた。
俺はその夜、現場事務所代わりの天幕に篭った。
羊皮紙と、神官たちから貰った鵞ペンと、インク。
天幕の中は、簡素だった。
粗末な木の机。
獣脂のランプ。
風が吹くたびに、天幕の布が、ぱたぱたと音を立てた。
俺は机に向かい、現場の全工区、全工種、全資材を書き出し、それを依存関係でつないだネットワーク図に変換していく。
ネットワーク図、というのは、現代の建設工程管理の基礎だ。
各作業を点で表し、その前提条件と後続作業を、矢印でつなぐ。
その図の中で、最も長い経路――それが、クリティカルパス。
俺は、現場で十年、この図を書き続けてきた。
今、この異世界の城塞のために、もう一度、それを書いている。
獣脂のランプの灯りが、紙の上で、揺れていた。
夜明け前、図は完成した。
俺は赤いインクで、その上に丸を描いた。
「クリティカルパスは、ここ」
つまり、北東角の石組みと、その後の上部胸壁の組み上げ。
ここさえ集中的に進めれば、あとの工程は並行で回せる。
夜が明け、職人たちが現場に集まってきた。
俺は彼らの前に立った。
二十名ほどの石工と、十名の補助作業員。
みな、疲れ切った顔をしていた。
半年の停滞は、職人の心を、確実に蝕む。
「皆さん、はじめまして。今日から、こちらの段取りを少しいじらせていただきます」
職人たちは、見たこともない異邦人を訝しげに見ていた。
その中で、一人――背が低く、顎髭の濃いドワーフが、前に進み出た。
「人族の坊や。あんた、誰だ」
俺は深く頭を下げた。
「ただの、現場のオッサンです」




