第四章 お荷物の従者、辺境送り
召喚から三日が過ぎた。
ここはアルディアン王国の王都、王宮の客間。
大理石の柱、金箔の天井装飾、巨大なシャンデリア。
歩くたびに、靴音が、磨き上げられた床に長く響いた。
神島はすっかり「勇者様」として歓待を受けていた。
毎晩、贅沢な料理、美しい侍女、貴族令嬢たちの面会。
白いテーブルクロスの上に、銀の食器が並び、葡萄酒の杯が満たされる。
貴族の娘たちが、争うようにして神島の隣の席を欲しがった。
俺は隣の小部屋で、神島の身の回りの世話をする「従者」として置かれていた。
与えられたのは粗末な麻のシャツと、固いパン、薄いスープ。
俺は別に構わなかった。建設現場の弁当より、ずっと食えた。
むしろ、客観的に状況を把握する余裕ができた。
俺は神島の世話のついでに、王宮の構造を観察していた。
各居室の配置、警備兵の交代時間、廊下のランタンの間隔。
職業病だ。
建設現場で十年、毎日「他人の建物の図面」を見続けると、知らない場所に入っても、無意識に、構造を頭に入れてしまう。
その日、俺は王宮の通用門で、若い使用人がこぼれた水でずぶ濡れになって叱られているのを見た。
俺は通りすがりに、彼の運んでいた水桶の取っ手を見て、ぼそりと呟いた。
「金具の付け根が緩んでる。明日も使うなら、楔を打ち直した方がいい」
使用人の少年は、ぽかんと俺を見上げた。
その後ろで、彼を叱っていた厨房長らしい男が、目を見開いて俺の去り際を見送った。
翌日、王宮の厨房から、俺の小部屋に一切れのチーズが届いた。
差出人は書かれていなかった。
俺はそれを、丁寧に半分に割って、神島の朝食の皿に置いた。
神島は気付かずに食べた。
残りの半分を、俺は薄いスープに浸して、ゆっくりと味わった。
久しぶりの、まともな食事だった。
問題は、神島の聖剣が、あの最初の一回以来、二度と鞘から抜けないということだった。
「貴様の魔力が乱れているからだ! お前みたいな無能の従者を連れているから、俺の力が制限されている!」
神官たちを前に、神島は俺を指差して叫んだ。
「こいつを辺境にでも追い払え! そうすれば、俺の真の力が解放される!」
神官たちは困惑した表情で顔を見合わせる。
神島の言い分には、何の根拠もなかった。
ただ、神島が、俺を視界から外したいだけだった。
俺の存在が――俺が「真の勇者かもしれない」という、神官たちの密かな疑念を呼び起こすからだ。
その中で、最も位の高い神官長――白髭の老人――が、深いため息をついた。
「……勇者殿が、そうお望みであれば」
神官長の視線が、ちらりと俺に向く。
彼の目は、奇妙に静かだった。怒りでも憐れみでもない、何かを見極めようとするような目。
「では、こちらの従者殿は、北のヴェスタリア辺境伯領へ送ることといたしましょう」
「北の辺境?」と神島が眉を寄せた。「魔王軍の侵攻ルートの近くだったか?」
「左様にございます」
「ちょうどいい。せいぜい、魔物の餌にでもなれ」
神島は俺を見て嘲笑った。
俺は黙って一礼した。
神官長は、俺にだけ聞こえる声で、ぽつりと呟いた。
「……あの従者の方が、よほど落ち着いた目をしておられるが、な」
その一言を、俺はちゃんと聞いた。
でも、表情は変えなかった。
翌朝、俺は一頭の老いた馬と、わずかな食料、そして木製の指示書を渡された。
「ヴェスタリア辺境伯ヴィルヘルム閣下の元へ届けるように」
俺は馬に乗り、北へ向かった。
王宮の正門を出る時、衛兵たちは俺を見ようともしなかった。
ただ、通用門の脇で、あの厨房長らしき男だけが、こちらに向かって深く一礼していた。
俺はその一礼に、軽く頷きを返した。
王都の中心街は華やかだった。
石畳の大通り、白漆喰の商家、軒先に揺れる店の看板。
果物売りが声を張り上げ、馬車の車輪が乾いた音を立てる。
日常の音。生活の音。
平和な世界、のように見えた。
しかし、王都の城門を抜けた瞬間、空気が変わった。
外壁のすぐ外側に、粗末な天幕の集落があった。
難民、と思われた。
ぼろをまとった老人。痩せた子供。腕に傷を負った男。
彼らは魔王軍に故郷を焼かれて、王都を頼ってきた人々だった。
しかし王都は、彼らを城内に入れなかった。
城門の脇に「魔王軍の脅威につき、城外の難民、許可なく入場不可」の高札が立っていた。
俺は馬を進めながら、その光景を、ずっと目に焼き付けていた。
俺の世界でも、災害後にニュースで見たような光景。
でも、ここはニュースの中ではない。
今、まさに、目の前にある現実だった。
王都を出てしばらくすると、街道沿いの景色が一変した。
手入れされた畑が、荒れた野原に変わる。
休耕地ではない。耕作放棄地だ。
恐らく耕していた農民が、もう、その土地に居ない。
石造りの宿場町は、修繕も追いつかぬ崩れた廃墟となり、行き交う人々の顔には深い疲労が刻まれている。
俺は途中の宿場町で、馬に水をやるために立ち寄った。
井戸の周りに、子供が三人、座り込んで何かをしていた。
近づいてみると、土を捏ねて、何かの形を作っていた。
石垣の、ミニチュアだった。
石を真似た小さな塊を、根気よく、積み上げては崩している。
「上手だね」
俺は声をかけた。
子供たちは怯えた目で俺を見上げ、それから、一番年長の子が小声で答えた。
「お父ちゃんが、こうやって積んでた」
「お父さん、石工さん?」
「……死んだ」
その一言で、十分だった。
北の防衛戦線で、彼らの父親は、戦に駆り出されたのだろう。
俺は子供たちのミニチュア石垣を、しばらく眺めていた。
そして、ぼそりと言った。
「石は、横で支え合うんじゃなくて、下で支え合うんだ」
俺は地面に座り、彼らの小さな石垣を、組み直して見せた。
子供たちは、息を呑んで見ていた。
組み直された石垣は、もう、簡単に崩れなかった。
子供たちが「ありがとう」も言わずに、急いで自分たちの石を積み始めた頃、俺は馬に水を飲ませ、また旅を続けた。
街道に出てから、俺は道沿いの石垣を、改めて眺めた。
「これ、目地が抜けてるな……あと、根入れも浅い。崩れるぞ、これ」
目地、というのは石と石の間に詰めるモルタルや漆喰のことだ。これがしっかり入っていないと、石垣はたちまち雨水で崩れる。
根入れというのは、構造物が地面に埋まっている深さ。建設の基本中の基本。
ここの石垣は、その両方が駄目だった。
俺は深く考えなかった。
ただの旅人の独りごとだ。
でも、その独りごとを、誰かが背後で聞いていたとしたら。
俺の隣を、革鎧をまとった一団が馬で追い抜いていった。
馬蹄の音。革と金属の擦れる音。
その先頭の女性騎士が、こちらをちらりと振り返った。
長い銀髪。氷のような青い目。
日に焼けた頬。引き締まった顎。腰に佩いた長剣の柄には、丁寧に磨き込まれた革が巻かれている。
貴族の令嬢、というには、あまりに、現場の人間の手をしていた。
俺と目が合った瞬間、彼女は手綱を引いて馬を止めた。
砂埃が、ゆっくりと舞い上がる。
「待たれよ、旅の御方」
澄んだ声だった。
長く戦場に立ってきた者の、よく通る、迷いのない声。
「先ほど、石垣について、何か仰られましたか」
俺は驚いて、首を傾げた。
「ああ、独りごとです。すみません」
「いえ、聞かせていただきたい。あの石垣、どこが、駄目なのでしょうか」
彼女の目は、真剣だった。
優雅な令嬢の社交辞令ではない。
領地を、本気で、案じている、領主の娘の目。
俺は迷ったが、結局、職業病が口を開かせた。
目地のこと。根入れのこと。雨水の浸入と、凍結融解による剥離のこと。あと一冬で崩れるかもしれない、ということ。
俺はついでに、修繕の優先順位の付け方も話した。
全部を直そうとしないこと。
まず雨水が一番集中する箇所だけを補修すること。
予算が許す範囲で、効果の大きい場所から手を付けること。
彼女は息を呑んで聞いていた。
時折、僅かに頷きながら、頭の中で何かを整理しているような、深い集中の表情。
話し終えると、彼女は静かに馬を降りた。
彼女の靴が、街道の小石を、ことりと、踏んだ。
「私は、ヴェスタリア辺境伯ヴィルヘルムの長女、リーンハルトと申します」
「は」
「……あなたは、何者でいらっしゃいますか」
俺は答えに詰まった。
名乗ろうにも、ここでの俺は「無能な従者」だ。
「ただの旅人です。北の辺境伯領に、用があって」
「我が領に?」と彼女は瞠目した。「父に、何用ですか」
俺は懐から、王宮から渡された木製の指示書を出した。
リーンハルトはそれを受け取り、目を走らせ――そして、目を見開いた。
彼女の指が、わずかに、震えた。
「これは……勇者の従者を辺境に送る命令書? あなた……勇者殿の従者なのですか?」
「ええ、まあ」
「ご無礼を……あの、ですが、その。あなた、本当に従者なのですか」
「他に、なんと?」
リーンハルトは唇を噛み、しばらく考え込んだ。
彼女の長い銀髪が、風に揺れて、肩を流れた。
それから、毅然と顔を上げた。
「先ほどの石垣の話。詳しくお聞かせいただきたい。我が領の城塞改修が、半年遅延しているのです」
俺は、ふと、彼女の後ろに立つ騎士たちの目を見た。
彼らも、息を呑んでいた。
その中の一人――まだ若い、二十代半ばの副官が、自分の上司である令嬢の振る舞いに、目を瞠っている。
俺が一言、独りごとを呟いただけで――この国の辺境伯令嬢が、馬を降りて、頭を下げている。
何かが、確実に、ずれている。




