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第5話 空白

恒一は席に戻り、ようやく端末へ向き直った。


ログイン後、通常業務メニューを開く。予約一覧、契約管理、相談履歴、監査通知。見慣れたタブの右端に、灰色で「本人照会申請」がある。カーソルを重ねると、注意文が表示された。


私的確認を目的とする照会は、申請理由記載の上、監査対象として実行されます。


恒一はその文面を読んだ。読んだあと、マウスを離し、もう一度重ねて同じ文面を読んだ。


規程上、違反ではない。だが「可能」と「するべき」は別だと、業務では何度も他人に説明してきた。


恒一は深く息を吸い、申請画面を開いた。


申請区分、照会対象、理由記載、実行承認。画面は素っ気ない。理由欄の空白は広く、何を書いても不十分に見える。


恒一は短く入力した。


本人記録確認の必要が生じたため。


それ以上は足さなかった。送信ボタンを押す前に、画面右下の時刻を見た。六時三十七分。


送信。


確認ダイアログが出る。


実行しますか。実行後の操作履歴は監査ログに保存されます。


恒一は「はい」を押した。


画面が切り替わるまでの数秒が長く感じられた。白い読み込み表示が二回点滅して、結果一覧が表示される。


先頭に一件、契約履歴があった。


契約者名:朝倉 恒一

契約番号:CP-PER-19-04-xxxx

契約日:2019/04/26

処理状態:完了


一度、視線が止まった。


右手がマウスから離れた。


三秒。


画面の数字を、もう一度最初から読んだ。読んでも、意味の順番がうまくつながらない。


対象期間:2019/05/01 00:00 〜 2020/03/31 23:59

分類コード:SL-07(生活機能維持)

副分類コード:CH-12(養育初期負荷軽減)


理由欄:夜間育児負荷継続に伴う情緒的消耗への対処。生活維持を目的とする。


恒一は画面の文字を一行ずつ追った。文字としては読める。意味も分かる。それが自分の名前だと認識するまでに、半拍遅れた。


息子二歳から三歳にかかる時期。


昨日、ラベルで見た年数と一致していた。


恒一は詳細ボタンを押した。添付書類の一覧が開く。契約同意書、確認事項署名、処理完了記録、決済情報。PDFのサムネイルが小さく並び、どれも同じ書式だった。


最初の同意書を開く。


日付と契約番号の下に、朝倉恒一の署名がある。筆跡は現在の自分の字と同じ癖で、はねるところだけ少し強い。迷って書いた線ではなかった。


恒一はスクロールを止めた。画面の明るさが急に強く感じられ、目の奥が痛んだ。喉が乾いて、唾を飲み込む音が自分で聞こえた。こめかみが遅れて脈打った。


理由欄の文言は他人の案件で見慣れている語だった。情緒的消耗、生活維持。その語は、さっきまで他人のものだった。どちらも間違ってはいない。間違っていないからこそ、そこに書かれていない時間があることが、逆に分かる。


恒一は背もたれに体を預けた。肩がわずかに震えているのに気づき、両手を机の下で組んだ。


思い出す感覚は来なかった。


驚きはある。その驚きの中身が何かを失った痛みなのか、知らなかった事実を知った驚きなのか、区別がつかない。少なくとも、すぐには。


記憶がない。だから、失ったものの輪郭も直接は持てない。


恒一はもう一つ、相談記録の要旨欄を開いた。契約時の担当者が入力した短い文が並ぶ。


夜間覚醒継続、養育負荷高、情緒不安定傾向。生活機能維持目的。本人の同意明確。配偶者同席なし。


どれも業務としては適切な語だった。適切だからこそ、そこに抜け落ちるものがある。


さらに下へスクロールすると、補足欄に一行だけ長い文があった。


「対象期間外の養育記憶との連続性に関する説明を実施し、本人了承」


恒一はその文を読み返した。自分が了承したはずの説明内容を、いまの自分は当事者として持っていない。了承した事実だけが記録に残る。


画面右側の音声記録アイコンが灰色で表示されていた。古い案件の保存期限切れで、データは参照不可と出ている。恒一はその表示を見て、カーソルを動かさなかった。もし再生できても、そこで聞こえる声は録音としての自分でしかないのだと思った。


タブを戻すと、処理猶予の項目が目に入った。契約後二十四時間以内の中止猶予を案内、本人は適用希望なし。チェック欄に丸が付いている。丸の形は機械的で、誰の判断だったかを示さない。


恒一は頬の内側を軽く噛んだ。痛みだけが即時に返ってくる。


端末右上に通知が出た。始業五分前。通常業務へ戻る。


恒一は履歴画面を閉じた。閉じる前にスクリーンショットを取るか迷い、取らなかった。証拠は社内に残っている。残っていることを、いま確認したばかりだった。


それでも手は、もう一度だけ詳細画面を開いた。


処理ログの欄には、時刻が分単位で並んでいる。契約説明開始、確認事項読み上げ、署名完了、処理開始、処理完了、体調確認、退出。各工程のあいだは短く、業務としては標準的な時間だった。遅延も中断もない。


立会担当者IDの欄には、見覚えのある社員コードが記載されていた。名前表示に切り替える前に、恒一はタブを戻した。誰がそこにいたかを特定しても、いまの自分に増えるのは事実だけで、感触は増えないと分かった。


決済情報タブを開くと、入金口座の下四桁と金額が表示された。振込名義は会社の正式名称。入金日は契約の翌営業日。家計アプリへ取り込まれていても不思議ではない日付だった。


恒一は画面を見たまま、自分の肩を指で押した。筋肉のこわばりだけが分かる。契約を結んだ日の景色は出てこない。


監査ログの注意表示が右上で点滅する。画面に残しておくほど、見なくていいものまで見てしまう。恒一は今度こそ詳細タブを閉じ、通常メニューへ戻した。


* * *


始業後、森下がいつもの調子で声をかけてきた。


「朝倉さん、早いですね。もう来てたんですか」


「少し」


恒一はモニタから目を離さずに答えた。


「昨日の保留案件、メモ入れておきました?」


「入れてあります。引き継ぎ番号も付いてます」


「助かります」


森下はそう言って、紙コップを二つ持ってきた。恒一の机に一つ置く。


「濃いめです」


恒一は礼を言った。紙コップの熱が手に伝わる。さっきまでの冷えと合わさって、感覚が少し遅れる。


午前最初の相談は、転職期の三か月を売りたい男性だった。面談室に入り、椅子に座り、定型を読み上げる。恒一はいつもの確認事項を簡潔に伝えた。売却後、対象期間の記憶は失われること。返還・再取得はできないこと。


言葉は滑らかに出た。


相手の質問にも、必要な範囲で答えた。対象期間の切り方、業務引き継ぎの影響、外部記録の扱い。恒一の口はいつも通り動き、声の高さも崩れない。


説明している間、画面の右隅に別の文言が重なっていた。


CH-12(養育初期負荷軽減)。


相談者が「この期間、消したら楽になりますか」と聞いたとき、恒一は一瞬だけ返事が遅れた。


「個人差があります」


恒一はそう答えた。答えとしては正しい。


正しい返事をしている自分が、いま少し遠く見えた。


相談が終わり、扉が閉まる。恒一は机上のファイルを閉じる前に、手元のペン先がわずかに震えているのを見た。深呼吸して握り直すと、震えは止まった。


業務は続く。続けられてしまう。


その事実が、履歴の発見そのものとは別の重さで沈んだ。


次の予約までのあいだ、恒一は洗面所で手を洗った。冷たい水を流しても、指先の熱と冷えがうまく入れ替わらない。鏡に映る顔は、朝より少しだけ白かった。


席へ戻ると、内線が鳴った。受付担当から、予定変更の連絡だった。


「午後一件目、十分後ろへずれます。第二相談室に変更お願いします」


恒一は「了解です」と答え、変更を入力した。通話を切ってから、キーを押す指だけが一拍遅れた。遅れても、業務は成立する。成立してしまうことに、恒一は自分で小さく苛立った。


午後の相談は、育児案件ではない短期売却だった。依頼人は、離職前の一か月を切り出したいと言った。恒一は必要事項を確認し、契約は保留で終わった。相手が席を立つと、机の上には紙コップの輪染みだけが残る。


恒一は輪染みをティッシュで拭きながら、画面の別タブへ視線を送った。朝に開いた履歴照会タブは閉じたはずなのに、視線だけがそこへ戻ろうとする。


森下が隣で資料をまとめながら言った。


「朝倉さん、顔色あんまり良くないですね。大丈夫ですか」


「寝不足です」


恒一はそれだけ答えた。嘘ではない。それだけでもないことを、説明する語がまだなかった。


* * *


昼休憩の時間、恒一は社員食堂へ行かず、執務スペースの端でコンビニのおにぎりを開けた。味は分かるが、何を食べているかの実感が薄い。


スマートフォンに真紀からメッセージが来ていた。


「ホワイトボード見た。早出ありがとう。陽斗、図工の箱ほめられたって」


短い文の最後に、箱を持つ陽斗の写真が付いている。笑っている。青いテープの角は、写真ではよく見えなかった。


恒一は「よかった」とだけ返した。送信後、画面を閉じるまでの数秒、親指が止まった。


午後の会議は通常通り進んだ。月次の件数、保留率、再相談率、フォロー案内の利用状況。スライドの数字が移り、担当者が順番にコメントする。


恒一の番で、声は乱れなかった。


「育児・養育初期負荷の相談は、今月は保留率がやや高めです。理由は価値葛藤が多く、即日決定に至らない傾向です」


発言を終えたあと、恒一は自分の言葉を内部で反復した。価値葛藤。即日決定に至らない。どちらも正しい。正しいからこそ、人の生活の厚みが削れる。


会議室を出た廊下で、ガラスに映る自分の顔を見た。いつもと変わらない顔だった。


夕方前、受付からもう一件、短い相談が入った。契約には至らず、制度説明のみで終了した案件だった。依頼人は三十代の男性で、言い淀みながら「子どものことを忘れたいわけじゃないんです」と二度繰り返した。


恒一は説明項目を順に伝え、必要な書類だけを渡した。声は安定していた。相手が退出したあと、恒一は相談室の椅子を元の角度へ戻し、机を拭き、次の時間枠のためにファイルを補充した。


手順にミスはない。手順だけで埋まる一日になっていくほど、朝見た契約番号の行が、逆にくっきりしていった。


執務スペースへ戻る途中、掲示板に貼られた社内ポスターが目に入った。業務品質向上月間。説明の正確性、記録の完全性、接遇の均質性。恒一はその三語を目で追い、通り過ぎた。


正確であることと、足りることは違う。


以前から薄く引っかかっていた感覚が、今日は自分の案件として戻ってきていた。


* * *


その夜、恒一は定時を少し過ぎて帰宅した。


リビングには陽斗のランドセルが開いたまま置かれ、横に算数ドリルと給食袋が積まれている。真紀はキッチンで鍋をかき混ぜていた。


「おかえり」


「ただいま」


陽斗は自室で宿題をしているらしく、ページをめくる音だけが廊下から聞こえた。


夕食のあいだ、学校の話が出た。図工の先生に箱を褒められたこと、給食のメニュー、明日の持ち物。恒一は相槌を打ち、必要な返事を返した。会話としては成立している。


食後、陽斗が風呂に入っている間に、恒一は昨夜のプラスチックケースをテーブルへ出した。真紀は何も言わず、タオルを畳んでいる。


恒一は連絡帳の束、写真プリント、レシートの入った封筒を順に広げた。


小さなレシートに「経口補水液 2本」「幼児用解熱剤」と印字されている。日付は2019年11月。買った店は駅前のドラッグストアで、いまも通勤路にある店だった。


別の紙には、保育園からの連絡メモ。


「今日はお父さんがお迎え。帰り際、園庭で少し遊んでから帰宅」


恒一はその文字を読んだ。読み取れる事実はある。その日の空気は立ち上がらない。


写真をめくる。


公園の滑り台の前で、陽斗の手を引く自分。商店街の夏祭りで肩車している自分。小さな誕生日ケーキを前に、陽斗と並んで笑っている自分。どれも自分の顔だと分かる。笑い方も、自分のものだ。


それでも、写真の内側にいた時間を、自分の記憶として取り出せない。


恒一は次にUSBメモリをノートパソコンへ挿した。動画ファイルが並ぶ。ファイル名は真紀が付けたらしい簡素な文字列で、日付だけが規則的に並んでいる。


一つ開く。


画面の中で、若い陽斗が床に座って積み木を崩している。後ろから恒一の声がして、意味のない歌を節付きで口ずさんでいる。陽斗が笑う。カメラが揺れて、真紀の笑い声が重なる。


恒一は動画を止めた。自分の声なのに、録音としては聞き取れても、喉の感覚として思い出せない。


もう一つ開く。


夜の室内で、薄いライトの下、恒一が陽斗を抱いてゆっくり歩いている。画面の端で時刻表示が2:57になっている。恒一の口元は何かを言っているが、動画に音は入っていない。陽斗の頭が肩に当たり、少しずつ動きが落ち着いていく。


恒一はその場面を見ながら、腕の重みを想像した。想像はできる。記憶としての手触りには届かない。


動画フォルダを閉じる前に、恒一はもう一つだけ開いた。保育園の迎え帰りを撮った短い動画だった。夕方の商店街で、陽斗が片手にパンを持ち、もう片方の手で恒一の指を握っている。カメラの後ろで真紀が「信号見て」と言い、恒一が「見てる」と笑って返していた。


その笑い声は確かに自分の声だった。軽く、少し上ずっている。いまの自分の話し方とは違うが、他人の声ではない。


恒一は再生を止め、少し巻き戻して同じ三秒を見た。見ても、そこにいた自分の体温は戻らない。笑い声の輪郭だけが、再生のたびに固まる。


連絡帳の束をもう一度開く。数ページ先に、保育士の連絡欄で「今日はお父さんが寝かしつけの歌を披露してくれたと笑っていました」と書かれた日があった。真紀の返答欄には「昨夜も歌っていました。助かります」とある。


助かります。


恒一はその四文字を指でなぞった。書かれた当時の温度が、いまの自分の中にないことだけが分かる。


さらに封筒を探ると、家計アプリから出力した月次明細の紙が混ざっていた。入金欄に会社名義の振込が一件ある。金額は生活費として吸収され、行の前後には家賃、電気、保育料、食費が並ぶ。特別な行としては残っていない。


生活の中で、説明できる支出と同じ高さに並んでいる。


それが静かな確認だった。


浴室のドアが開く音がして、陽斗の足音が近づいた。恒一はノートパソコンを閉じ、写真を重ねた。


陽斗は髪を拭きながら、テーブルの上を見た。


「また見てるの?」


「少しだけ」


「この前の犬の歌、見つかった?」


恒一は答えるまでに一拍かかった。


「まだ探してる」


陽斗は「そっか」と言って、自室へ戻っていった。言葉に疑いはなかった。


* * *


陽斗が寝たあと、真紀がキッチンでコップを洗っていた。


恒一は連絡帳を閉じて、ケースへ戻した。戻す手つきが遅いのを、自分で自覚していた。


真紀が背中を向けたまま言った。


「仕事で何かあった?」


恒一はすぐに返せなかった。


「どうして」


「帰ってから、ずっと同じところ見てるから」


水道の音が一瞬止まる。


「昔のもの見るの、悪いことじゃないけど、今日は見方が違う」


恒一は椅子に座ったまま、手元のケースを見た。透明の蓋に、自分の顔がぼんやり映っている。


「記録を見た」


言ってから、恒一は少し間を置いた。


「会社の」


真紀はゆっくり振り向いた。驚いた顔ではなかった。驚きかけて、先に別の感情が来た顔だった。


「そう」


それだけ言って、真紀はコップを布巾で拭いた。


恒一は続けるべきか迷った。どこまで言うかを決める基準が、いまはまだ手元にない。


「陽斗が二歳から三歳の頃の、契約履歴があった」


真紀の手が止まった。止まったあと、布巾をたたむ動きに戻った。


「そうなんだ」


その返しの温度を、恒一は測れなかった。知っていたのか、知らなかったのか、いま聞いて判断しているのか。どれとも取れる。


「覚えてる?」


恒一が聞くと、真紀は視線を落としたまま言った。


「何を、どこまで、って話になる」


「その頃のことを」


真紀はすぐには答えなかった。キッチンのカウンターに布巾を置き、椅子に座る。


「しんどかったのは覚えてる。寝不足だったし、陽斗もよく起きたし。あなたも遅く帰る日と、逆に早く帰って寝かしつけ代わる日があった」


真紀はそこで恒一を見た。


「でも、細かい順番は私も曖昧だよ。全部きれいに覚えてるわけじゃない」


恒一はうなずいた。


「俺、ほとんど手触りがない」


真紀は目を伏せ、短く息を吐いた。


「今は、そこを無理に掘らない方がいいかもしれない」


慰めの言葉ではなかった。経験で言っている調子だった。


恒一は聞いた。


「知ってた?」


真紀は一拍置いた。


「……今は、うまく答えられない」


曖昧な返事だった。逃げる返事にも聞こえるし、正確さを選んだ返事にも聞こえる。


恒一は椅子の背にもたれたまま、低く聞いた。


「俺から言い出したのか」


真紀はすぐには答えなかった。視線をテーブルの上の連絡帳へ落とし、そこから恒一へ戻す。


「その言い方だと、誰かに決めさせられたみたいになる」


「そういう意味じゃない」


「分かってる」


真紀は短く息を吐いた。


「あなたは、あの頃、壊れないように仕事してた。家でも、壊れないようにしてた。だから、あの選択をしたこと自体は、不思議じゃないと思う」


恒一は黙って聞いた。肯定でも否定でもない言葉だった。


「ただ、私が何を知ってて何を知らないかは、今ここで一気に整理できない」


真紀はそう言って、ケースの蓋を閉じた。


「整理できないまま話すと、たぶん余計に傷つける」


恒一はテーブルの上の家計明細へ視線を落とした。


「この入金、覚えてる?」


真紀は紙を見た。見てから、少しだけ目を細めた。


「額までは覚えてない。でも、その年、保育料と医療費が重なってた月があった」


「生活費に回した?」


「そうしたと思う。特別な使い方はしてないはず」


真紀はそこで言葉を切り、低く続けた。


「そのお金があったから良かった、って話にはしたくない」


恒一は「分かってる」と答えた。答えた声が少し掠れていた。


「良かったかどうかじゃなくて、そうやってもう生活に混ざってるのが、怖い」


真紀は返事をせず、明細の紙を重ねてケースへ戻した。丁寧にそろえる動きだった。


恒一はそれ以上聞かなかった。聞けなかったという方が近い。


沈黙のまま、真紀は立ち上がって寝室へ向かった。廊下の途中で振り返り、短く言った。


「明日、早いなら先に寝た方がいいよ」


恒一は「うん」と答えた。


真紀が寝室のドアを閉めたあと、リビングには冷蔵庫の音だけが続いた。


* * *


恒一はテーブルにノートを開いた。


契約番号、契約日、対象期間、分類コード、理由欄。見たままを書き写す。文字にした分だけ、記憶の欠落が具体化される。


ノートの余白に、恒一は短く書いた。


何を捨てたのか。


その下に、もう一行。


何のために。


ペン先が止まる。理由欄には「生活維持」とある。語としては十分だ。それがどんな夜を指していたのかは、書類だけでは埋まらない。


恒一はノートを閉じ、再び開いた。閉じても答えは消えない。


ノートの次のページに、恒一は明日の行動を箇条書きで書き始めた。


履歴照会の再実行。添付書類の出力可否確認。契約時担当者への照会は必要か。真紀へ聞く範囲。陽斗に聞かないこと。


書いてから、最後の一行だけ二重線で消した。陽斗に聞かない、と書いた時点で、すでに聞く可能性を考えていることになる。子どもの断片的な記憶を、答え合わせの道具にしたくはなかった。


恒一はペンを置き、ノートを閉じた。閉じた表紙の上に手を置くと、体温だけが戻ってくる。記憶は戻らない。


リビングの端に置いた私物のノートパソコンをもう一度開く。社内規程の要約ページはさっきのまま残っていた。申請可能、監査ログ保存、理由記載必須。白い文字は同じなのに、読むたび重さが変わる。


恒一はブラウザを閉じず、代わりに新しいメモを開いた。理由欄に書く語を試す。事実確認。家庭記録との整合。生活上の違和感確認。どれも正しい。どれも足りない。


入力しかけた文をすべて消し、空欄のまま保存した。


ベランダへ出ると、夜気が薄く冷たかった。向かいの棟の一室だけ灯りが点いていて、カーテンの隙間から白い光が漏れている。


恒一は手すりに触れた。金属の冷たさが手のひらに残る。


記録はある。証拠もある。自分の署名もある。


それでも、自分の中にない時間がある。


ない時間を前提に、いまの生活は続いている。


続いてしまっている。


恒一は目を閉じた。閉じても、取り戻す感覚は来なかった。


戻らないことは分かっている。


分かった上で、まだ聞きたいことだけが増えていく。


聞けば痛むかもしれない。聞かなくても、空白はそのまま残る。どちらを選んでも軽くならないと分かっているのに、選ばないままでは次の朝を迎えられないと思った。


夜の冷えた空気の中で、その判断だけが遅れて残り続けた。

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