第4話 眠れなかった夜
深夜、時計が一時を回っても、恒一はリビングにいた。
テーブルには保育園の連絡帳が開かれている。真紀の字で「夜中3:10 ねつなし/だっこで寝る」とある。語は読める。その夜の体温も匂いも、自分の中には立ち上がらない。
ページを閉じると、寝室から陽斗の寝返りの音がした。恒一はケースの蓋を戻し、照明を落としても、すぐには眠れなかった。
* * *
朝、恒一が起きたとき、リビングの照明はまだ半分しか点いていなかった。
睡眠は浅く、抜け方が妙に整っているという感覚だけが残っていた。
キッチンでは真紀が味噌汁を温めていて、換気扇の音が低く回っている。窓の外は曇っていて、ベランダの手すりだけが白く見えた。恒一は洗面所で顔を洗い、タオルで水気を拭きながらリビングに戻った。
テーブルの上には、陽斗の連絡帳、算数のプリント、給食袋、水筒のカバーが並んでいた。どれも見慣れたものだったが、端に置かれた小さなクリップ式のライトだけが、少し場違いに見えた。白い樹脂の丸いライトで、今は使っていないベビーベッド用のものだった。引き出しから久しぶりに出したように、表面にうっすら埃の筋があった。
陽斗は椅子に座って、図工で使う箱の側面に色紙を貼っていた。のりの蓋が開いたままで、指先に白い跡がついている。
「それ、今日持っていくやつか」
恒一が言うと、陽斗はうなずいた。
「うん。家から一個持ってくるやつ。お菓子の箱でいいって」
恒一は箱を見た。空いたティッシュ箱に色紙を貼ってある。角の一箇所だけ浮いていた。
「そこ、はがれるぞ。先にテープで留めた方がいい」
陽斗は指を止めた。
「先生は、のりでって言ってた」
「持っていく途中で開くかもしれないだろ」
恒一は引き出しからセロハンテープを取ろうとして、真紀に呼ばれた。
「先に味噌汁よそって。こぼれる」
恒一は手を止めて鍋の前に立った。おたまを入れると、豆腐が崩れそうになって端に寄った。椀を並べ、配膳し、時計を見る。出るまでの残り時間を頭の中で分ける。朝食十分、歯みがき五分、持ち物確認三分、玄関二分。順番を立てると、会話は後ろへ下がる。
陽斗が後ろで言った。
「でもこれ、お父さんが前にやってくれたやつは、のりだけで平気だったよ」
恒一は味噌汁をよそいながら「そうか」と返した。手を止めなかった。
真紀が一拍置いてから言った。
「いつの話?」
「保育園のとき。ロボット作るやつ」
陽斗は箱を回しながら答えた。
「公園で拾ったどんぐり入れたら重くなって、でも取れなかったやつ」
恒一は椀を置く手つきのまま、記憶の中を探した。公園。どんぐり。ロボット。どれも分かるはずなのに、ひとつの場面として結びつかない。そのこと自体に、少し遅れて気づいた。
「別のやつと混ざってるんじゃないか」
口をついて出たのは、その返しだった。
陽斗は少しだけ口を尖らせた。
「混ざってないよ。青いテープ使ったもん」
真紀はコンロの火を止めてから、振り向かずに言った。
「陽斗、食べてから続きやって。恒一、今日は何時くらい」
「いつも通り」
「遅くなる?」
「案件次第」
真紀は返事をしなかった。責める沈黙ではなく、予定表の空欄を見たときの沈黙に近かった。
朝食のあいだ、陽斗は図工の箱のことを二度話しかけてきた。恒一は聞いていないわけではなかったが、答えはどちらも短くなった。持ち物欄の確認、水筒の蓋、上履き袋。目の前の作業は片づいていくのに、会話の方だけがうまく積み上がらない。
玄関を出る直前、陽斗が箱を抱えたまま言った。
「今日さ、帰ったら前の写真見せて。ロボットのやつ」
恒一は靴を履きながら、少し遅れて答えた。
「残ってたらな」
陽斗は「あるよ。絶対ある」と言った。言い切る調子だった。恒一はそれに返さず、ドアを開けた。
廊下に出ると、真紀が小声で言った。
「残ってるかどうかじゃなくて、覚えてるかどうかで言ってるんだと思う」
恒一は振り返ったが、真紀はもう陽斗のランドセルの肩紐を直していた。
* * *
クロノス・パートナーズの執務スペースは、昼に近づくほど空気が乾いていく。
暖房の風が天井から落ちて、紙の端だけを少しめくる。恒一は午前の相談一覧を開き、二件目の予約詳細を確認した。分類は「育児・養育初期負荷」。備考欄には「夜泣き期/母親本人/現在は保育園通園中/契約検討」とある。
森下がプリンタから回収した紙を片手に、恒一の机の横で立ち止まった。
「朝倉さん、十一時の藤田さん、受付の一次ヒアリング終わってます。育児案件で、まだ検討段階だそうです。お子様連れじゃないです」
「分かりました」
森下は「お願いします」とだけ言って離れた。
恒一は説明用の確認項目を開いた。いつもの確認事項。売却後の記憶欠落、返還不可、履歴保存。育児案件では、成長過程の記憶も対象に含まれる。文言は変わらない。
画面の文字を追っているうちに、朝の陽斗の声が重なった。青いテープ使ったもん。どんぐり。ロボット。恒一は一度だけ瞬きをして、説明ファイルを閉じた。語の余韻が切れないまま、予約一覧へ戻る。
相談室三の机を整える。紙コップの水、説明用ファイル、ボールペン二本。ブラインドを半分下ろす。机の端に反射する光が細くなった。
ノックのあと、受付担当が藤田奈緒を案内してきた。
「藤田様、担当の朝倉です」
「よろしくお願いします」
奈緒は三十代前半に見えた。ネイビーのニットに淡いグレーのコート。髪は後ろでひとつに束ねていて、耳の後ろに寝ぐせを直した跡のようなうねりが残っていた。化粧は整っていたが、目の下だけ薄く色が抜けていた。寝不足の顔というより、寝不足の時期を長く通った人の顔に近かった。
椅子に座る前に、奈緒は鞄の中を一度確認した。母子手帳のケース、薄い手帳、スマートフォン、折った紙。必要なものがあるかを見る動きだった。
恒一が冒頭の定型を言い終える前に、奈緒は小さく息を吸って言った。
「先に言うと、子どもはかわいいです。そこは本当に、そうです」
恒一はうなずいた。
「承知しました。ご希望の対象期間と、理由を順に確認します」
奈緒は少しだけ肩の力を抜いたが、手は膝の上で組んだままだった。
「事前入力では、夜泣きが続いていた時期の記憶を対象期間として検討中、とあります。まだ確定ではない理解でよろしいですか」
「はい。売るかどうかも、まだ決めきってないです」
奈緒は言ってから、言葉を足した。
「でも、相談には来た方がいいと思って」
「分かりました。差し支えない範囲で、理由を伺ってもよろしいですか」
奈緒はすぐには答えなかった。机の上の木目ではなく、恒一の手元に置かれたボールペンを見ていた。
「夜、ずっと起きてた時期があって」
言い始めると、語尾が少し速くなった。
「泣くのは当たり前だって分かってる。赤ちゃんだから仕方ないって、昼は思えるんです。でも夜になると、三回目くらいで頭が狭くなって。抱っこしても泣く、置いたら泣く、やっと寝たら二十分で起きる。そういうのが続いて」
奈緒はそこで喉を鳴らした。水を勧める前に、恒一は待った。
「自分が何言ってるか分からないくらいイライラした夜が何回もあって。大きい声出しそうになったり、壁叩きたくなったり。子どもにじゃなくて、自分に対して、何やってるんだろうって」
恒一は理由欄を開いた。画面の定型に合わせれば、睡眠不足、育児疲弊、情緒不安定といった語になる。奈緒の話は、その語に入る前の段階にあった。
「現在、お子様はおいくつですか」
「三歳です。春から年少で」
「夜間の負担が強かったのは、主にいつ頃ですか」
奈緒は母子手帳ケースから小さなメモを出した。
「生後四か月くらいから、一歳すぎるまでが一番きつかったです。途中で少し寝る時期もあったんですけど、また戻って。熱のあととか、歯が生える時期とか」
恒一は日付の欄に仮で範囲を入れた。約九か月。長いが、連続して眠れない期間としては珍しくなかった。
奈緒は続けた。
「夫もやってないわけじゃないんです。そこ、誤解されたくなくて。仕事ある日は朝早いから、夜は私が多かったってだけで。休みの日は代わってくれたし」
言い切ってから、奈緒は少し苦く笑った。
「でも、その『やってないわけじゃない』って説明を、私いつも先にしてるなって思って」
恒一は顔を上げた。
奈緒は自分でうなずいた。
「責めたいわけじゃないんです。私も、あの頃のこと話すと、夫のこと悪く言ってるみたいになるの嫌で」
「ご本人の感じ方として確認します」
恒一はそう前置きしてから聞いた。
「当時、孤立感はありましたか」
奈緒はすぐに答えた。
「ありました」
短い返答だったが、即答だった。
「昼間、話し相手いない日もあるし、泣いてる理由が分からないのが一番きつくて。お腹が空いているわけでもない、熱でもない、抱っこでもだめ、みたいなとき。自分だけ、ずっとテスト受けてる感じでした」
テスト、という言葉に恒一は少しだけ反応した。以前担当した学習期間売却の依頼人の言い方を思い出したが、それを顔には出さなかった。
「売却を検討されているのは、その時期のどの部分でしょうか。夜間だけか、日中を含む期間全体か」
奈緒は迷ってから言った。
「最初は夜だけって思ってました。でも、夜だけ切れないですよね」
「内容が連続している場合、狙った場面だけを安全に切り出す保証はできません」
恒一は画面を奈緒の方へ少し向けた。
「特に、睡眠不足が日中の判断や感情に影響している期間は、夜間だけを分離して扱うのが難しい場合があります」
奈緒はうなずいた。
「そうだろうと思ってました」
そう言いながらも、奈緒は指先で膝の布地をつまんだ。
恒一は確認項目に進んだ。
「次に確認事項です。売却後、対象期間の記憶は本人から失われます。返還・再取得はできません。契約記録と売却履歴は保存されます。今回は、お子様の成長過程に関わる記憶も対象に含まれます」
奈緒は黙って聞いていた。目は恒一ではなく、机の上の説明ファイルに向いていた。
恒一は続けた。
「また、売却後も、対象期間の前後に残る感情や生活上の問題が、すべて解消するとは限りません。出来事の事実認識が、外部記録や周囲の証言として残る場合もあります」
奈緒はそこで顔を上げた。
「その、事実認識って」
「例として、写真、動画、育児記録、家族から聞く話などです」
奈緒は小さくうなずき、少し間を置いてから言った。
「じゃあ、写真見て、ああこの時期だって分かることはあるんですよね」
「可能性はあります」
恒一は断定を避けて答えた。
奈緒は次の言葉を出す前に、下唇の端を一度だけ噛んだ。
「その時期、しんどかっただけじゃなくて、かわいかったのもあるんです」
恒一はペンを持ったまま待った。
「夜中ずっと泣いて、こっちも泣きそうで、でも抱っこしてると、急に静かになる時があって。重くて、あったかくて、汗かいてて。ああ生きてる、って思う瞬間があるんです」
奈緒の声は大きくなっていないのに、言葉だけが少し詰まった。
「売りたいのは、怒鳴りそうになった夜とか、自分を嫌いになった感じで。そういうの消したいって思うんです。でも、同じ夜に、その子をかわいそうだと思って強く抱いたことまで薄くなるなら、それはそれで嫌で」
恒一は喉の奥が乾くのを感じた。説明として返せる言葉は頭にある。それでも、どれも奈緒の聞きたい形にはならないと分かった。
「対象期間に含まれる内容が、どのように本人の実感として残るかは個人差があります」
恒一は一文ずつ区切って言った。
「つらさだけが選択的に薄れる、あるいは愛情だけが保たれる、といった形を制度上保証することはできません」
奈緒は視線を落としたまま、二度うなずいた。
「そうですよね」
納得の返事だったが、軽くはなかった。
恒一は衝動性の確認へ移った。
「第三者からの強い勧めや、金銭的な強制はありますか」
「ないです。お金のためじゃないです」
「睡眠、食事、育児、外出など、現在の日常機能に著しい不調はありますか」
「今はないです。寝不足の日はありますけど、前みたいにずっとではないです」
「受診中の医療機関は」
奈緒は少し考えてから答えた。
「今は通ってないです。産後のとき、一回だけ相談行きました」
恒一は項目を埋めた。淡々と入力する指の動きに対して、読み上げの速度だけが少し落ちているのを、自分で自覚していた。
奈緒は鞄からスマートフォンを取り出した。
「記録、見ますか。寝た時間とか起きた時間、つけてたので」
恒一はうなずいた。
画面には、育児記録アプリの一覧が表示されていた。授乳、睡眠、起床、排泄、体温。時刻が縦に並び、夜中の二時台、三時台、四時台の記録が細かく続く。奈緒は指でスクロールしながら言った。
「この頃がひどくて。二時間寝られたらいい方で。こっちは何日目か分からなくなってるのに、記録だけはつけてるんです」
恒一は画面の数字を見た。整った時刻の列と、奈緒の声の荒れ方が一致していないのが、かえって重かった。
「開始は、この連続した夜間覚醒が続き始めた時点に合わせることが多いです」
恒一は言ってから補足した。
「ただし、育児負荷は連続しているため、前後にまたがる感情や生活の感覚が残る可能性があります」
奈緒は「はい」と言って、スマートフォンを伏せた。
その手の甲に、薄く爪の跡が残っていた。
* * *
期間の仮設定が終わると、恒一は査定の試算を表示した。金額は、奈緒の表情を動かさなかった。
「金額は、大きいとか小さいとか、正直、今はよく分からないです」
奈緒は画面から目を外して言った。
「売るなら、金額で決める話でもないと思って来てるので」
恒一は「承知しました」とだけ返し、契約前の最終確認へ進んだ。
紙の契約書を机に置く。奈緒は母子手帳ケースを鞄へ戻し、代わりに両手を机の上へ出した。手指は細かったが、関節に少し赤みがあった。乾燥と水仕事の跡だと恒一は思った。
「こちらが対象期間指定の最終確認です。こちらが、売却した記憶の返還・再取得不可の確認。こちらが履歴保存に関する同意です」
奈緒は一つずつ読んだ。途中で、署名欄の手前で止まる。
「すみません」
奈緒は紙を見たまま言った。
「変な聞き方なんですけど」
恒一は待った。
「この時期を売って、あとで子どもに、あの頃ほんと寝なかったよねって言われた時に、私、笑って聞けますか」
恒一は即答できなかった。質問の意味は分かる。聞かれているのは制度の仕様ではなく、その仕様の先にある自分の顔つきのことだった。
「制度上、外部の記録や他者からの話で対象期間を知ることはありえます」
恒一は、答えられる範囲から置いた。
「ただ、そのときにどのような感情になるか、どこまで実感が伴うかは、個人差が大きく、断定できません」
奈緒は小さく笑って、すぐに笑いを消した。
「そうですよね」
「はい」
奈緒はペンを持った。持ったまま、署名欄の上で止まった。ペン先は紙に触れていない。
相談室の空調音が聞こえる。廊下を通る足音が一度だけ遠くで止まり、また離れていった。
奈緒は視線を落としたまま言った。
「昨日、子どもが寝たあとで、この相談に行くって夫に言ったんです」
恒一は何も挟まなかった。
「反対はされなかったです。『しんどかったなら、そういうの使ってもいいんじゃない』って。責められたわけじゃないです。むしろ、私のこと気にして言ってくれてるの分かるんです」
奈緒はそこでペンを握り直した。
「でも、言われたあとで、あの人もあの時期の私の顔を見てたんだなって思って。見てた人がいるのに、私だけ消していいのかなって、急に分からなくなって」
恒一は紙面の上のペン先を見た。自分から言うべきことは、本来多くない。
奈緒は続けた。
「売らない方がいいって言ってほしいわけじゃないんです。たぶん逆に、言われたら腹立つと思うし」
その言い方に、恒一は少しだけ息を整えた。
「規定上のご案内としてお伝えします」
恒一は、語尾を平らにして言った。
「本日中に契約まで進めなくても問題ありません。対象期間の再指定や、再相談のうえでの保留継続も可能です」
奈緒は顔を上げた。恒一を見たのは、その時が初めてに近かった。
「……それ、今言っても大丈夫なんですか」
「手続き上、問題ありません」
恒一はそれ以上足さなかった。引き留める言葉にも、勧める言葉にも寄せないようにした。
奈緒はペンを置いた。署名欄には何も書かれていない。
「今日は、やめます」
言い切ったあとの顔は、楽になった顔ではなかった。泣く前の顔でもない。ただ、呼吸の深さだけが少し戻った。
恒一は契約書を閉じた。
「承知しました。未成約・保留として記録します。再相談をご希望の場合は、この受付番号で引き継げます」
奈緒はうなずいた。
「来てよかったかどうか、まだ分からないですけど、来ないよりはよかった気がします」
恒一は「ありがとうございます」とは言わず、受付案内の紙を渡した。相談窓口、自治体の育児支援、必要時の医療相談先。奈緒は目を通して、すべてを鞄に入れたわけではなかった。育児支援の案内だけを折り、他は机に置いた。
席を立つ前、奈緒は母子手帳ケースのファスナーを閉めながら言った。
「子どもがかわいいって言うの、先に言わなくていい話になればいいんですけどね」
恒一は答えを持たなかった。
奈緒は「失礼します」と言って出ていった。扉が閉まったあと、相談室には未署名の契約書の紙だけが残った。
* * *
執務スペースに戻ると、森下が別件の確認票を持っていた。
「終わりました?」
「保留です」
恒一が言うと、森下は「了解です」とだけ返し、未成約の処理フロー用の紙を一枚抜いた。驚いた顔はしなかった。保留自体は珍しくない。
恒一は端末で記録欄を開いた。対象期間仮設定、契約未締結、本人判断で保留、再相談案内。入力できる項目は用意されている。奈緒の言っていた、しんどさとかわいさが同じ夜にあったことや、夫に見られていた自分の顔のことは、どの欄にもきれいに入らない。
補足欄に一行だけ足す。育児負荷記憶の売却可否につき価値葛藤あり、保留。語は短く、文脈は薄くなる。それでも入力して確定すると、画面上では他の案件と同じ高さに並んだ。
恒一はその画面を閉じる前に、一瞬だけ別のことを思った。陽斗の三歳頃。夜に泣いていた時期があったかどうか。真紀がどれくらい起きていたか。自分が何をしていたか。思い出せないこと自体は不自然ではない。思い出せない場所の輪郭だけが、最近ははっきりしてきていた。
森下が横から声をかけた。
「朝倉さん、次の案件まで十五分あります。コーヒー淹れます?」
恒一は画面を閉じてから答えた。
「お願いします」
紙コップを受け取ると、熱が指先に残った。その熱を感じたまま、恒一は次の相談の説明文言を目で追った。文字はいつも通りだった。
* * *
夜、帰宅すると、リビングのテーブルの上にアルバムが二冊と、透明のプラスチックケースが置かれていた。
ケースの中には、保育園の連絡帳、折れた名札、工作の紙片、写真プリントがまとまって入っている。朝、陽斗が言っていた「ロボットのやつ」を探したのだとすぐ分かった。
真紀はソファの横で洗濯物を畳んでいた。
「陽斗が先に出してた。探すって言って」
恒一は鞄を置いて、テーブルの端に立った。
陽斗は床に座ってアルバムを開いていた。見つけたページを指で押さえたまま顔を上げる。
「あった」
アルバムの写真には、色紙を貼った箱を持つ幼い陽斗が写っていた。背景は近所の公園のベンチで、横に恒一の膝から下だけが入っている。青いテープで角を補強した箱の側面に、どんぐりらしい丸いものが貼ってあった。
「これ」
陽斗は得意そうに言った。
「青いの、これ。だから言ったじゃん」
恒一は写真を見た。写真の中の自分のズボンの色、ベンチの塗装の剥がれ、陽斗の帽子の柄は見えるのに、その日の空気や会話が出てこない。
「ほんとだな」
陽斗は別のページをめくった。
「これも。夜、寝る前。お父さんの変な歌」
写真ではなく、短い動画の印刷サムネイルが貼られていた。横に真紀の字で日付と「ねる前の歌で笑う」と書いてある。
恒一はその文字を見た。自分の字ではない。書かれた内容は自分に関係している。
「どんな歌だったっけ」
自分でも驚くほど自然に、恒一は聞いていた。
陽斗はすぐに答えた。
「犬のやつ。眠れない犬が、パン屋さん行くやつ」
真紀が洗濯物を畳む手を止めずに言った。
「即興で毎回ちょっと違ったやつ。長いときは長かった」
恒一は記憶を探した。パン屋。犬。寝る前の歌。言葉はある。歌っている自分の声の調子も、陽斗の当時の顔も、輪郭が立たない。
陽斗はアルバムから顔を上げて、何気ない調子で言った。
「前はもっと笑ってたよね。こういうのよくやってた」
言い終わってから、自分が何かまずいことを言ったかどうか確かめるように、陽斗は真紀を見た。責める響きはなかった。ただ思い出を言っただけの声だった。
恒一はすぐに返せなかった。
否定するなら、写真がある。肯定するなら、その中身を覚えていない。冗談に逃がす言い方も浮かんだが、どれも薄かった。
真紀が洗濯物を置き、穏やかな声で言った。
「陽斗、そういうのは人によって覚えてるところ違うから」
陽斗は「うん」と言ったが、アルバムのページから指を離さなかった。
「でも、お父さんが抱っこして公園から帰ったのは覚えてる。寝たふりしてたら、重いって言ってた」
恒一はその言葉に視線を落とした。抱っこして帰った感触は、腕の重さとしてなら想像できる。それが自分の体の記憶として出てこない。
「いつ頃の話?」
恒一が聞くと、陽斗は首をかしげた。
「小さいとき。保育園」
それ以上は分からない、という顔だった。子どもの記憶としては十分自然だった。
真紀がアルバムの端を押さえた。
「熱出た日の帰りじゃないかな。病院のあと、公園の前通ったら降りたがって」
言ってから、真紀は恒一を見た。確かめるような視線ではなく、様子を見る視線だった。
恒一はページの写真をもう一度見た。ベンチ、帽子、青いテープ。写真の外側にある時間が見えない。
奈緒の言葉が、遅れて戻ってきた。しんどかっただけじゃなくて、かわいかったのもあるんです。
陽斗はもう次のページを開いていた。
「これ、運動会。お父さん、転んでた」
真紀が小さく笑った。
「それは覚えてるでしょ」
恒一は、覚えていると答えようとして止まった。転んだ事実は、写真の順番や家で何度か話題になったこととして知っている。転んだ瞬間の痛みや恥ずかしさの方は、すぐには出てこなかった。
「……見れば思い出すかもしれない」
言いながら、恒一は自分の声の薄さを聞いた。
陽斗はそれ以上深く聞かなかった。
「じゃあ今度、動画見る?」
「うん」
恒一は答えた。約束の返事としては短かったが、嘘ではなかった。
真紀は洗濯物を畳み終えると、アルバムを閉じる前に一枚だけ写真を見た。恒一には見えない角度だった。
「陽斗、先に歯みがき」
陽斗がアルバムを閉じて立ち上がると、プラスチックケースの中の連絡帳が少しずれて、端から古い付箋がのぞいた。真紀の字で「夜中3:10 ねつなし/だっこで寝る」と書いてあるのが見えた。
恒一はそれを見て、目を離せなくなった。
陽斗が洗面所へ行ったあと、真紀がケースを閉じようとした。恒一は先に聞いた。
「これ、全部残してあるのか」
「全部じゃないけど」
真紀は付箋を中へ戻しながら答えた。
「連絡帳と、よく見返す写真と、病院でもらった紙の一部。捨てるタイミングなくて」
捨てるタイミング。恒一はその言い方を頭の中で反復した。仕事では、残すものと削るものの線を引くことが仕事の中心に近い。家の中では、その線がもっと曖昧な形で引かれている。
真紀はケースを持ち上げかけて、止めた。
「どうしたの」
恒一は少し考えてから答えた。
「陽斗が言ってたこと、あんまり覚えてなくて」
言葉にした瞬間、説明が足りないと自分で分かった。真紀もそう感じたのか、すぐには返事をしなかった。
「覚えてないって、写真のこと?」
「写真の前後。歌とか、公園とか」
真紀はケースをテーブルに戻した。
「昔のことだし、細かいのは普通じゃない?」
その返しは自然だった。責めでも慰めでもない。恒一の中では、それで終わらなかった。
「普通に忘れたって感じと、少し違う気がする」
真紀の指がケースの取っ手に触れたまま止まった。
「……最近、そういうの増えた?」
恒一は答えをすぐに出せなかった。増えたのか、前からあったのか、その判断自体が曖昧だった。
「分からない。ただ、今日、相談で似た話を聞いて」
そこまで言ってから、恒一は止めた。依頼人の内容を家で詳しく話すことはしない。真紀もそれ以上は聞かなかった。
「仕事の話で引っ張られてるだけなら、少し休んだ方がいいよ」
真紀は静かに言った。
恒一はうなずいたが、うなずいただけだった。
* * *
深夜、真紀と陽斗が寝たあとも、恒一はリビングに残っていた。
テーブルの上には、閉じたアルバムとプラスチックケースがまだある。ケースの角に細かい傷が入っていて、長く使ってきたことが分かる。恒一はケースを開け、さっき見えた連絡帳の束を取り出した。
保育園の連絡帳には、日付、体温、連絡事項、家庭での様子が短く書かれていた。真紀の字が多く、ときどき恒一の字も混じっている。自分の字は、必要事項だけを書いたような硬さがあった。
「夜中2回起きる」「抱っこで就寝」「朝機嫌よい」「咳少し」
短い記録が並ぶ。事実は読める。その行のあいだにあったはずの時間の長さが見えない。
付箋のついたページをめくると、真紀の字で「今日、寝かしつけで犬の歌。よく笑う」と書かれていた。日付だけが具体的に残っている。
恒一はその字を見たまま、記憶を探した。犬の歌。パン屋。笑っていた陽斗。自分の声。どれも言葉としてはあるのに、場面の温度が立ち上がらない。
以前、看取り期間の再相談で聞いた「減っていく過程に触った感じがない」という言葉とは違うはずだった。これは喪失の話ではない。もっと生活の内側の、小さな繰り返しの話だ。それでも、記録だけが残って、手触りだけが抜けている感じは似ていた。
恒一は連絡帳を閉じて、ケースの底に入っていた小さな封筒を取り出した。中には写真データのDVDと、古いUSBメモリが入っている。ラベルに真紀の字で「201X-201Y 保育園前半」「動画」と書かれていた。
保育園前半。
恒一はラベルの文字を見たまま、指先にわずかな冷えを感じた。年数を数える。陽斗が二歳から三歳にかかる頃だと、頭の計算で分かる。
思い出しにくいだけだ、と言い切るには、何かが足りなかった。
恒一はケースを閉じ、ノートパソコンを開いた。会社の端末ではない私物のノートパソコンでは、社内システムには直接つながらない。検索窓に何を入れるか迷い、結局、社内規程の名称だけを打った。
社員本人の売却履歴照会に関する手続要領。
社内ポータルの公開範囲にある要約ページが出る。全文閲覧は社内端末と認証が必要だった。恒一は要約だけを読んだ。
社員本人による履歴照会は申請可能。閲覧は監査ログ保存。理由記載必須。第三者照会不可。
知っている規程だった。自分で他人の案件を扱うときに、何度も見た文面に近い。「社員本人」の欄を自分のこととして読むのは初めてだった。
恒一は画面を閉じなかった。閉じる理由も、すぐに開く理由も定まらない。
申請すれば分かるかもしれない。
分かったあと、今の生活の何が変わるのかは分からない。
変わらないかもしれない。それでも、分からないままではいられない感じだけが、机の上に置き去りになった。
キッチンの時計が一時を回る。換気扇は止まっていて、冷蔵庫の低い音だけが続いていた。
恒一はノートパソコンの画面に残った要約ページをもう一度読み、指をトラックパッドの上に置いたまま動かさなかった。
明日の朝、社内端末を開けば、申請フォームまでは数分でたどり着ける。
その手順を、恒一は仕事の手順として正確に知っていた。




