第3話 父の最期
季節の境目に入ると、駅のホームにいる人の服の色が急に暗く見える日がある。
朝倉恒一は、乗り換えのホームで立ったまま電車を待ちながら、向かいの列に並ぶ三人組を目にした。黒いスーツに黒いネクタイの男と、濃紺のワンピースの女、そのあいだに高校生くらいの制服姿の男の子がいた。誰も声を出していない。女の手には小さな白い紙袋があり、男の子はそれを見ず、床のタイルだけを見ていた。
香典返しだろう、と恒一は思った。
考えたのはそれだけだった。電車が来ると人の列は前へ詰まり、白い紙袋は人の背中に隠れた。恒一は乗り込んで吊り革を持ち、車窓に映る自分の顔を見た。昨夜の睡眠時間は足りていたはずだが、目の下の影だけが少し濃く見えた。
クロノス・パートナーズの受付前では、開店前の清掃スタッフが床の端をモップで拭いていた。洗剤の匂いが弱く残っていて、ガラス扉の向こうの照明はまだ半分しか点いていない。恒一は社員証をかざして中に入り、自席の端末を立ち上げた。
予約一覧の午前枠に、「介護・看取り関連」と分類された相談が一件入っていた。対象期間、半年。備考欄には「父死亡後」「本人希望強い」「家族同席なし」とだけある。一次ヒアリングの要約は短かった。
恒一は該当データを開き、説明用の確認項目を目で追った。売却後の記憶欠落、返還不可、履歴保存、前後影響の残存。いつもの順番だった。
斜め向かいの森下が、開いたばかりの端末をのぞき込むようにして言った。
「今日の看取り案件、朝倉さん担当でしたっけ」
「そうです」
「ここのところ増えてますね。介護の相談。年末年始のあととか、法要のあととか」
森下は言ってから、すぐに声を落とした。
「受付の一次では、感情は落ち着いてるって。逆に決めるの早そうな感じでした」
恒一は返事をしなかった。落ち着いている、という言い方は、相談室に入る前には役に立つが、相談室に入ってからは役に立たないことが多い。
十時少し前、恒一は相談室三の机を整えた。説明用ファイル、ボールペン、紙コップの水。窓のブラインドを半分まで下ろす。室内の白い光が机の角で止まる。
* * *
ノックのあと、受付担当が坂口修司を案内してきた。
「坂口様、ご担当の朝倉です」
「よろしくお願いします」
坂口は四十代後半に見えた。グレーの作業着の上に濃い色のジャケットを羽織っていて、靴の先に乾いた泥が少し残っていた。仕事帰りなのか、どこか別の用事の帰りなのかは分からない。手の甲は荒れていて、爪の根元に薄いひびが入っていた。
座るとき、坂口は鞄を足元に置いてから、すぐに持ち直して膝の横へ寄せた。落ち着かないというより、どこに置くのが正しいかを決めかねるような動きだった。
恒一は冒頭の定型を述べ、対象期間の確認に入った。
「事前入力では、お父様の介護と最期にあたる約半年間を対象期間として希望されています。開始と終了の時点を、あとで一緒に確認します。まず、差し支えない範囲でご希望の理由を伺ってもよろしいですか」
坂口は少しうなずいて、机の木目を見たまま言った。
「つらかっただけなので」
それだけ言って、そこで止まった。恒一はペンを持ったまま待った。
坂口は続けた。
「終わったのに、まだ続いてる感じがするんです。亡くなってるのに、夜になると、また電話が鳴る気がして」
夜の電話、という語だけが先に出た。恒一は理由欄の入力位置にカーソルを置き、話の速度に合わせて質問を挟んだ。
「電話というのは、介護先からの連絡ですか」
「施設のときもありました。家で見てた時期もあって、そのときは転んだとか、起きたとか、水飲まないとか。最初は母が見てたんですけど、母も膝悪くして」
坂口はそこで一度、鼻で短く息を吐いた。泣く前の息ではなかった。疲れて喉を整えるときの息だった。
「妹と交代でやるって話だったんですけど、向こうも子どもいるし、結局、近いのが自分で。仕事のあと寄って、夜中に呼ばれて、朝戻って会社行って。そういうのが続いて」
言葉は整っていた。出来事の順番が崩れていない分、同じ順序で、よどみなく言葉が続いた。
「お父様が亡くなられたのは、事前入力では先月末とあります」
「はい」
「対象期間の開始は、どのあたりを想定されていますか」
坂口は鞄から折れたメモを出した。日付がいくつか書かれていた。病院名らしい文字、施設名の略称、四十九日の予定日。自分で整理した跡だった。
「このへんです。家で見るのがきつくなって、施設の短期利用を入れ始めた頃から。そこから、亡くなるまで」
恒一は日付を確認しながら、期間の大枠を入力した。約六か月。以前担当した長期案件と同じくらい長いが、意味はまったく違う長さだった。
「期間を広く取る理由は、どのあたりにありますか」
坂口はメモをたたみ、すぐに開き、またたたんだ。
「最後だけじゃないからです。最後だけなら、たぶん売らないです」
恒一は視線を上げた。
坂口は言葉を選ぶように、机の端を親指で押した。
「最後の二、三日だけじゃなくて、その前の何か月も、ずっと同じ感じで。食べない、怒る、急に昔のこと話す、今度は誰か分からなくなる。こっちもイライラして、怒鳴りそうになって。終わってからも、そのときの顔だけ残るんです」
坂口はそこで一度黙り、言い直すように続けた。
「同じこと何回も聞かれて、最初はちゃんと答えるんですけど、三回目くらいで声が強くなるんです。『さっき言っただろ』って。向こうは数分で忘れてるのに、こっちは言った記憶だけが残るから」
坂口は顔を上げず、机の木目に視線を落としたまま話していた。作業着の袖口には、消毒液と汗が混ざったような乾いた匂いがわずかに残っている。具体的な場面のはずなのに、固有名詞も日付も出てこない。同じ出来事がいくつも重なっているような話し方だった。
相談室の空調音が一瞬だけ大きく聞こえた。恒一は入力欄を見ながら、「怒鳴りそうになって」という表現だけをそのまま記録に置かず、社内記録で使う定型に置き換えた。感情高ぶり、介護疲弊。画面上では短い言葉になる。
坂口はそこで、自分から一つ足した。
「でも、最後に何言ったかは、覚えていたい気もするんです」
恒一はペン先を止めた。
坂口の口元だけが動いた。笑う形に似ていたが、目は動かなかった。
「こういう相談来て、今さら何言ってるんだって感じですけど」
「いえ」
恒一はそう言ってから、言葉を選び直した。
「迷いが出るのは、不自然ではありません」
坂口は目を上げて、恒一を一度だけ見た。すぐに視線を落とした。
「最後の言葉だけ残して、そこまでのしんどいところだけ消せるなら、そうしたいです。でも、そういう都合のいい切り方はできないんですよね」
恒一は画面を坂口の方へ向けた。
「対象期間の切り出しは可能ですが、記憶は連続しているので、狙った場面だけを安全に残す保証はできません。特に、終末期のように内容が密接している期間は、分け方によって印象が大きく変わる場合があります」
坂口はうなずいた。
「ですよね」
「売却後も、亡くなられた事実や、周囲に残る記録は消えません。法要や手続きの場面で、対象期間の前後の感情が残ることもあります」
「事実は消えない」
坂口はその言葉だけ反復した。
「はい」
「それは分かってるんです。分かってるんですけど、分かってるだけで、終わらない感じがして」
言い終えたあとも、坂口は「分かってるんです」を小さくもう一度繰り返した。
恒一はその言い方を聞いて、手元の入力速度を少し落とした。制度上のヒアリング項目は変わらない。だが、相手の言葉の間に合わせて進めた方がいい案件だと判断した。
衝動性の確認と生活機能の確認を終えたあと、恒一は期間の確定に入った。坂口はメモのほかに、スマートフォンの通話履歴とカレンダーを見せた。夜間の着信が続いていた週、施設の入退所日、病院への搬送日、死亡確認日。仕事のシフト表の写真まで保存してあった。
記録の並びは正確だった。日付、時刻、場所、担当者名。恒一は画面を見ながら、これだけ揃っていても、その日の部屋の匂いや、電話を取る前に一瞬ためらった記憶までは残らないのだと思った。残るのは順番で、順番だけでは説明できないものがある。
「この週、三日続けて夜呼ばれて」
坂口は画面をスクロールしながら言った。
「昼に会議入ってるから寝られなくて、でも、行かないと、母が一人で対応できないから」
「売却対象期間の開始は、短期利用を継続に切り替えた日でよろしいですか」
「はい。そのあたりから、もう元に戻らない感じがしたので」
「終了は、お父様の逝去当日二十三時五十九分で」
坂口は少し考えてから首を振った。
「通夜の前までにできますか」
恒一は画面の欄を確認した。
「対象期間としては可能です。理由を伺ってもよろしいですか」
坂口は指を組み直した。
「通夜からは、しんどいの種類が違うと思って。あれは手続きだから」
恒一はその言い方に、少しだけ引っかかった。介護も、看取りも、通夜も、どれも手続きに見える人はいる。坂口は逆に、そこに線を引こうとしていた。
「分かりました。終了時点を通夜開始前で設定します」
期間を確定すると、査定額が表示された。坂口は数字を見て、眉も動かさなかった。
「契約へ進まれる場合、最終確認と処理のご案内を行います」
「お願いします」
返答は速くはなかった。迷いが消えた速さではなく、迷ったまま決める速さだった。
恒一は紙の契約書を開き、注意事項の列を指で追った。
「こちらが対象期間指定の最終確認です。こちらが、売却した記憶の返還・再取得不可の確認。こちらが履歴保存に関する同意です」
坂口は読む速度が遅かった。文字を追っているというより、行と行のあいだの余白を見ている時間が長かった。署名欄の前で、ペン先が止まる。
恒一は急かさず待った。坂口は二十秒ほど黙ったまま、紙面に視線を落としていた。
「最後に言われたことまで、薄くなるかもしれないんですよね」
坂口が紙を見たまま言った。
恒一は言葉を選んだ。
「対象期間に含まれる内容について、どこまでどう残るかは個人差があります。残ると断定も、残らないと断定もできません」
坂口は短くうなずき、署名した。字は太く、やや右上がりだった。書き終えると、すぐにはペンを離さず、署名欄の外を一度だけなぞるようにペン先が動いた。
* * *
処理室は相談室より気温が低く、乾いていた。白い壁、低い機械音、乾いた冷気。担当者が契約番号と対象期間を読み上げ、坂口が確認する。恒一は立ち会い欄に署名し、端末の表示を見た。
「対象期間の売却処理を開始します。途中で中止を希望される場合は、開始前までにお申し出ください」
坂口は「大丈夫です」と言ったが、椅子に座るときに一度だけ手が空をつかんだ。支える場所を探すような動きだった。
処理は短かった。表示が進み、完了ランプが点く。担当者が体調確認を行う。坂口はすぐには起き上がらず、天井を見たまま二、三度まばたきをした。
「気分の悪さはありますか」
「ないです」
坂口はそう答えてから、少し遅れて続けた。
「……軽い、です」
語尾の落ち方が違った。荷物を下ろした軽さというより、何かを置いた場所が見えなくなった軽さに近かった。
恒一は端末に完了記録を入力した。契約番号、時刻、立ち会い担当、異常なし。定型文言を選択して確定する。画面上では、いつもの処理と同じ並びになった。
坂口はゆっくり起き上がった。顔色は変わっていない。呼吸も乱れていない。ただ、表情だけが妙に整って見えた。泣いていないからではない。泣く前でも、泣いたあとでもなく、どこにも向かっていない顔だった。
「本日は無理に予定を詰めず、体調に違和感があればご連絡ください。フォロー案内は契約書控えにも記載しています」
恒一がそう言うと、坂口は封筒を受け取り、すぐに鞄へ入れた。
「ありがとうございました」
声の調子は、相談室に入ってきたときとほとんど変わらなかった。処理室の扉が閉まったあと、機械音だけが残る。恒一は端末を閉じながら、「軽くなった」ことと、「これで終わった」と感じられることは別のものかもしれないと思った。
受付前の椅子で、坂口は封筒を開かなかった。受付担当のフォロー説明にも、必要な相槌だけを返した。廊下を歩く背中はまっすぐで、つまずく気配はない。それがかえって、恒一には不自然に見えた。
* * *
四十九日を過ぎた頃、坂口から会社に連絡が入った。受付からの内線で、恒一は名前を聞いた。
「再相談ご希望です。前回の看取り期間売却の件で。今日、このあと来られるそうです」
恒一は空いている相談室を確認し、入室時間を調整した。再相談の理由欄は空欄のままだった。
坂口は前回と同じジャケットを着ていた。季節が少し進んで、インナーだけ薄くなっている。席につく前に、今回は自分から言った。
「困ってるって言うほどじゃないんですけど、ちょっと確認したくて」
恒一はうなずいた。
「どのような確認でしょうか」
坂口は鞄からスマートフォンを取り出し、机に置いたまま画面を開かなかった。
「法要、こないだ終わったんです。親戚も来て、写真並べて、坊さんも来て。みんな、いろいろ言うじゃないですか。最期は穏やかだったとか、よく頑張ったとか」
坂口は少し間を置いた。
「線香の番とか、座る順番とか、弁当を誰に持たせるかとか、やることはずっとあるんです。だから、動いてる間は普通にできるんです」
坂口はそこで言葉を切り、スマートフォンの角を親指で押した。
「自分も、そうですねって言ってたんです。言えるんです。言ってることも間違ってないと思うんです。でも、なんか、自分だけ入ってない感じがして」
「入っていない、というのは」
「その場にいるのに、終わりのところにいないというか」
坂口は顔を上げなかった。
「泣く泣かないの話じゃないんです。泣かなくてもいいと思うし、泣けなくても人それぞれだって分かるんですけど、終わった感じがしないんです。亡くなってるのに」
恒一は先を促さずに待った。坂口はスマートフォンの画面を開き、写真アプリを表示した。法要の席の写真ではなく、もっと前の写真だった。病室のベッド柵越しに撮られた父親らしい男の顔、車椅子の横顔、数年前の集合写真。
「これ、父です」
坂口は当たり前の説明をした。
「父だって分かるんです。写真見れば。声も動画残ってるし、分かるんですけど」
画面をスクロールする指が止まった。
「減っていく過程に触った感じがないんです。急に、亡くなったっていう事実だけあるみたいで」
恒一は、その言葉をすぐには要約しなかった。減っていく過程。制度説明の文言にはない表現だった。だが、この話の中心はそこにあると分かった。
「前回、対象期間は通夜の前までで設定されています」
恒一は確認のために言った。
「はい。通夜からは手続きだと思って」
「法要時の不全感は、その後の期間で生じている可能性もあります。一方で、対象期間に含まれていた介護・看取りの過程が抜けた影響で、終わりの実感がつながりにくくなっている可能性もあります」
恒一は、説明口調になりすぎないように言葉を切った。
「どちらか一方と断定はできません」
坂口は苦くもない顔で笑った。
「断定してほしいわけじゃないんです。むしろ、断定されたら違う気がして」
その言い方は、以前の再相談で「戻してほしいと言っているわけじゃない」と言った依頼人に少し似ていた。制度の外にある問いを、制度の窓口に持ってきている自覚がある人間の言い方だった。
「父の最後に、何言われたかも、今うまく思い出せないんです」
坂口はスマートフォンを伏せた。
「売る前から曖昧だった気もするし、売ったからかもしれないし、もう分からない。そこを責めたいわけじゃないんですけど、何をなくしたのか、自分で掴めないのが気持ち悪くて」
恒一は机の上の案内用紙に手を伸ばした。心理相談、地域の家族介護支援相談、一般的なグリーフケアの窓口。会社として出せる紙は決まっている。紙の薄さも、文字の小ささも前と同じだった。
坂口は用紙に目を落としたまま言った。
「こういう相談って、同じようなこと言う人いますか」
恒一は即答しなかった。守秘義務の範囲以前に、似ていると言い切るのが違うと思った。
「内容はそれぞれ違います。ただ、売却後に『なくなったものの説明がうまくできない』と話される方はいます」
坂口は小さくうなずいた。
「制度上の対応としては、生活機能への影響確認と、外部相談窓口の案内になります」
坂口はすぐには紙を取らなかった。
「やっぱりそうですよね」
責める口調ではなかった。確認するような言い方だった。前回と同じだと恒一は思った。
「すみません。変なこと聞いて」
「いえ」
恒一はそう言ってから、少しだけ言葉を足した。
「変だとは思いません」
坂口は黙っていた。恒一は続けるべきか迷い、迷ったまま、結局短く言った。
「終わりを受け入れる感じ方は、人によって違います。痛みがなくなることと、終わることが同じとは限らないと思います」
言い終えたあと、坂口はそれを訂正しなかった。
「そういう言い方なら、分かる気がします」
坂口は案内用紙を受け取り、二つ折りにした。
「家だと、言いにくいんです。母の前だと特に。忘れたいって言うと、責めてるみたいになるし」
坂口は二つ折りにした案内用紙の端を指でそろえた。
「この前も、母に『最期に親父、何て言ってたっけ』って聞かれたんです。たぶん、母も確認したかっただけなんです。自分が聞き逃してないかとか、ちゃんと見送れたかとか」
坂口はそこで視線を落とした。
「でも、自分、父の言葉を母にうまく伝えられなくて。前から曖昧だったのか、今曖昧なのかも分からないまま、『たぶん大丈夫って言ってた』みたいなこと言って。言ったあとで、それが本当かどうかも自信なくなって」
恒一はうなずいた。坂口の母を知らないまま、うなずくことしかできなかった。
「うまく言えたかは分からないですけど、また来るかもしれません」
坂口が帰ったあと、相談室の椅子にはまだ人のいた気配が残っていた。恒一は記録欄を開き、再相談理由を入力した。法要後の不全感、終結感の乏しさ、外部相談窓口案内。画面上に並ぶ語は短く、坂口の言っていた「減っていく過程に触った感じがない」という長い違和感を、そのままは載せられなかった。
記録欄の補足に一行だけ足そうとして、恒一は手を止めた。母との会話、最期の言葉の曖昧さ、確認したいだけなのに確認できない感じ。どれも中心に近いのに、どの語を置いても少しずつ外れる。結局、恒一は社内記録で使う定型に寄せた補足だけを入力し、確定した。
* * *
帰りの電車で、恒一は吊り革につかまりながら、窓の外の暗いガラスを見ていた。向かいの席には、仕事帰りらしい男が白い紙袋を膝に置いて座っていた。紙袋の口から、薄い挨拶状の封筒がのぞいている。男はそれを見ないまま、スマートフォンの画面を指で流していた。
香典返しだろうと、恒一はまた思った。
家に着くと、陽斗は先に寝ていた。真紀がキッチンでマグカップを洗っていて、「今日は遅かったね」と言った。恒一は「少し」とだけ返した。仕事の内容を説明するほどの気力はなかったし、説明したところで、どこから話せばいいのかも分からなかった。
風呂を出たあと、リビングの棚の下段に入れてある古いアルバムの背表紙が目に入った。陽斗の保育園時代の写真の隣に、実家から持ってきたままのアルバムが一冊だけある。恒一はそれを取り出して、テーブルに置いた。
開くと、最初に出てきたのは自分の高校卒業の写真だった。父がスーツ姿で写っている。笑っているのに、目だけ細くなっていない。若い頃からそういう笑い方だったことを、恒一は知識として覚えていた。
ページをめくる。母の還暦祝い、親戚の集まり、実家の前で撮った正月の写真。どこかのページに、父の葬儀の写真か、少なくともその前後の写真があったはずだと思った。
恒一は指を止めた。その「はずだ」という言い方の曖昧さが、自分でも気になった。
写真は見つからなかった。撮らなかったのか、別の封筒に分けたのか、実家に置いたままなのか分からない。アルバムを閉じたとき、ビニールのページ同士が擦れる音だけが残った。
そのまま座った姿勢で、恒一は自分の父の死を思い返そうとした。
病院の廊下の白い床。夜間出入口の自動ドア。看護師の名札の色。火葬場の待合室で紙コップのコーヒーを持った親戚の手。黒いネクタイを締めた自分の首元。母が何かを説明している声。
市役所に出す書類のために、本籍地の記載を確認していた場面もあった気がする。誰かがボールペンを貸してくれと言い、恒一がスーツの内ポケットを探った。自分の手がひどく乾いていて、紙の端が指先に引っかかった感触だけは思い出せる。
その場で誰が泣いていたかは、うまく出てこない。母が泣いたのか、親戚の誰かが先に泣いていたのか、恒一自身がいつ泣いたのかも曖昧だった。泣いた記憶がないわけではない。ただ、どこで始まってどこで止まったのか、時間としての形がない。
断片はいくつも出てくる。
だが、それがどの順番で起きて、どこで自分が何を感じたかが、一本の線にならない。悲しかったはずだ、ということは分かる。父だったのだから、と知識で言える。けれど、悲しみが時間として続いていた感触が、手の中に残っていない。
単に年月が経ったせいかもしれない。人の記憶は薄れる。仕事で何度も利用者に説明してきたことを、自分にも適用すれば、それで済む。
けれど、年月のせいだと片づけるには、残っている部分が具体的すぎた。紙コップのふちの薄い茶色いしみ、火葬場の自販機の硬貨投入口、待合室の椅子のビニールの冷たさ。そういうものは残っているのに、父の死へ向かう時間の続き方だけが抜けている。
それでも、薄れたというより、抜けたと言った方が近かった。
しかも、抜け方が妙に整っている。汚くこぼれたのではなく、そこだけ切り取られたみたいに。
恒一はそこで考えるのをやめ、アルバムを棚へ戻した。真紀が寝室から出てきて、「まだ起きてたの」と小さく言う。「すぐ寝る」と答えた。父の話を聞こうと口を開きかけて、やめた。何を聞きたいのか、自分でも定まっていなかった。
雨戸のない窓に、マンション向かいの廊下灯がぼんやり映っていた。
* * *
翌朝、恒一はいつも通りの時間に出勤した。執務スペースでは、処理担当が別件の確認票を積み替えている。森下がプリンタの紙詰まりを直しながら舌打ちを飲み込んでいる。画面を開けば、今日の予約一覧が並ぶ。
変わっていないものの方が多かった。
それでも、坂口の「終わったのに、まだ続いている感じがする」という言葉が、前日の夕方よりはっきりした形で残っていた。利用後の不全感として記録欄には要約できても、どこがどう続いているのかまでは、記録に書けない。
恒一は端末に表示された別件の注意事項を読み上げる練習のように目で追った。いつもの確認事項。売却後の記憶欠落、返還不可、履歴保存。
文言は正しい。
正しいことと、足りることは違うのかもしれないと、恒一は思った。
自分の父の最期についても同じだった。亡くなった事実は知っている。葬儀に出たことも、手続きをしたことも、写真の中の父が父であることも分かる。だが、そこへ向かっていく時間の手触りだけが、うまく掴めない。
悲しかったはずだと知識では言えるのに、その悲しみがどこを通って終わりへ向かったのか、思い出せない。
恒一は画面から目を上げた。窓の外では、風にあおられた広告の旗が一度だけ折れ曲がって、すぐ元に戻った。




